本丸にあった小牛井戸

 前々回に紹介した「大坂御城由来」に奥御番所前の「小牛井戸」ですが、国会図書館蔵の「大坂御城絵図」には奥御番所の近くに井戸が記載されていますが、「大坂御城御本丸并御殿絵図」には載っていません。大阪城天守閣蔵の幕府の寛政5年作成の「御城小絵図」には載っていませんが、中央部分が破損している、それ以前の「御城小絵図」には載っています。

 もちろん、井戸はあったのでしょう。

 今回はなかなか登場の機会のない城男のイラストでお茶を濁しておきます。

金城聞見録を見てみる

 前回言っていた「金城聞見録」を閲覧するために大阪市立中央図書館へ行ってきました。多色刷りされた貴重書として保管されているため、閲覧には申請が必要で、複写についてもコピー機でなく、カメラでの撮影となります。古文書であれば、当ブログで画像の紹介もできるのですが、近年小数部復刻され図書館に寄贈されたものなので、著作権があり画像での紹介は著作者の許可が必要となるところです。
 内容的には国立国会図書館蔵攝津徴書.巻20にある「金城聞見録」とほぼ同じものなので、国立国会図書館版の引用で紹介いたします。(詳細では異なる部分もあり、のちほど・・・)

 まずは婆あ畳(ばばあたたみ)の件ですが、記事には、番頭泊所に「床の間の左ひと間なる所あり入口に屏風を当て左右の柱に釘にて堅く打ち付けたれば入ることを得ず」「覗き見れば中央に畳十畳積み上げたり」「中に入れば必ず怪有と云う」以下は意訳「渋川伴五郎という士が、この中に入り畳の上で寝た。夜半ごろ盤石のように胸を押しかかられて、驚き見ると夜叉(やしゃ)のような老婆が白髪を振り乱して両手で胸の上を押えていた。渋川は柔術の達人なのではね返そうとしたが、体が動かず、畳の上から転げ落ちて夢から覚めたように手足が動いた。これは最近のことで、これ以降なお一層厳しく入れないようにした」とあります。婆あ畳の云われ因縁は書いておらず、少し物足りない印象を受けますねえ。

 この泊所なのですが、どうやら桜門入って右の口之御番所の泊所のようです。ただし、この絵では禿(かむろ)雪隠というのが奥にあって、手前に婆あ畳を入れた間があるように描かれています。しかし、摂営秘録では、「奥御番所に婆あ畳といふあり 上に座る時は怪異これありと申し伝ふ 今は空き部屋の方に取り込み、松羽目にて仕切」とあり、禿雪隠とは別の模型化する奥御番所にあることとなっています。(まあ、よかったです。とっても細かいですがせっかくですので、模型の中に羽目板で塞いだところなど再現したいと思っています。)

 これは、模型の対象外ですが、こちらも興味があった本丸御殿西側の数寄屋跡にある「地蔵形の燈籠」(じぞうがたとうろう)「一の谷手水鉢」(いちのたにちょうずばち)。実は、中央図書館版にはわざわざ「千の利休好み」という文言が追加してあります。この絵では古田織部が好んだことから名づけられた「織部形燈籠」(おりべがたとうろう)に見えますが、織部形とは言わず地蔵形とあります。

 下の写真は私が撮影してきた和歌山の養翠園庭園にあった織部形燈籠です。地蔵形が地中に埋もれており、こういった隠すような立て方も「いかにも」といったところですか。
 昭和に入ってから、この彫られた地蔵がキリスト教の聖者で、外見を十字架に見立てていて、隠れキリシタンが密かに崇拝できるようにしたという説がとなえられています。古田織部のまんが「へうげもの」でもそういう解釈を取り入れていました。ここから連想したのか、どういった根拠かは私は知りませんが、千利休はキリシタンではなかったのかという説も登場したらしいです。ただし、攝津徴書.巻20「金城聞見録」のには、利休好みとは書いていません。そもそも利休が亡くなってかなりの年月が経った後の徳川大坂城の数寄屋跡ですから、関連は薄いでしょう。

 ちょっと資料を読みこなして消化しなければならないところで、模型作りの作業から離れてしまっているところではあります。

大坂城山里丸の馬場

 引き続き、加番について、いろいろ調べています。大坂城加番に関する研究もされている学習院女子大学名誉教授の松尾美恵子氏の論文にようやく出合ったところです。「大坂加番の一年 -「豊城加番手挫」より-」 非常に参考になるところですが、いろいろと追加で知りたくなるところも出てきます。この論文には、年間行事「二月から三月にかけて、主に山里の馬場でしばしば※打毬(だきゅう)が催されている。」と記されてあります。

 なんと山里丸に馬場ですか、ど、どこにあったんだろ?・・・加番小屋の位置などから、本丸北石垣の東半分、加番大名屋敷の南側しかないでしょう。少し広場にしてある理由もこれで納得というところですかね。youtubeに今も伝えられている「八戸三社大祭・騎馬打毬」が上げられていますが、競技場を見る限りそれほど幅をとっていないようです。江戸時代の絵図などにある本格的な馬場はものすごく広いようですが、山里丸騎馬打毬専用馬場でなら、小さめに模型に再現できます。下の図は国会図書館蔵大坂御城絵図に山里加番小屋絵図を重ねてみたもの(縮尺はほぼそろえたけれども位置がずれてしまいます)

※打毬(だきゅう):馬術競技の「ポロ」とその起源を同じくし,白・赤2組(各4騎~10騎)の間で行われる団体戦で,乗馬して,地上に置かれた自組の色の毬(たま)を,先に網の付いた棒で掬すくい,ゴールに投げ入れる競技、八代将軍吉宗が騎戦を練習する武技としてこれを推奨(宮内庁の解説より)

 話は変わりますが、先日訪問した現大坂城天守閣の1階には「大阪城の伝説と謎」というパネルが展示してあり、そこには27項目の伝説などが掲げられています。例えば「豊公手植えの樟」「秀頼生害の松」「人面石」「かえる石」「千貫櫓」など、あまり差し障りのない項目にしてあります。私にとって、むしろ興味が注がれるのは、これらの伝説以外の本丸北の奥御番所にあったといわれる「婆ア畳」や口大番所の「ジジイ雪隠」などで、「婆ア畳」については、金城聞見録の御番所泊所之図の挿絵中に「此の屏風の中婆ア畳在り〆切」などと記してあります。

 この金城聞見録は、一部が図録などに掲載されていますが、大阪市立図書館にある貴重書である実物を一度閲覧したいと思っています。また、それ以外で松岡利郎先生の大坂城の歴史と構造の中にもいろいろな伝説が掲載されていますので、ひとつだけ引用させていただきます。「大坂御城由来」に「奥御番所前に小牛井戸と云いし井戸も今はつふれてなし この井戸より牛出たりという」とあるそうです。牛が出てくる井戸ですよ。なんかわからんが、うーん凄い。

徳川大坂城模型制作(山里加番小屋の検討)

    大阪城の南西隣にはNHKとの複合施設となっている大阪歴史博物館があります。史跡難波宮跡を一望に見渡せる10階の難波宮大極殿展示から、9階では本願寺のあった中世、天下の台所となった江戸時代と階を下っていく展示となっています。そして大阪が最も輝いていた大正から昭和初期の大大阪(だいおおさか)時代があり、いい博物館です。ただし、大阪城関係は、大阪城天守閣が分担しているので、ほとんど触れられていません。

 私の一押しは、船場の街並みのジオラマでしょうねえ、大阪歴史博物館は、一部の展示を除き、フラッシュを使用しない限りカメラ撮影可能となっています。インスタとかでの紹介・拡散希望なのだと思うところです。私の撮影のジオラマをあげておきます。(苦情などがくれば削除します。そうそう、蔵の切妻屋根の端が漆喰になっているのは大阪の蔵の特徴であると説明がありました。)

 また、大阪文化財研究所で、発掘調査報告があげられている広島藩の大坂蔵屋敷の再現模型もあって、これは大坂城模型の山里丸の小屋などの作成の参考になると考えています。

 多くの建物は地元の大工たちが建てている訳ですから、下見板張りや窓の仕様は似たものとなっていると考えられます。(追記:この鉄蔵は宮内庁大坂城写真の蔵の写真と窓の位置が異なりますね、むしろ本家広島城の多聞櫓の下見板のほうが近いです。大工の問題でなく仕様を決めているのでしょう。それとも側面の史料がなくて、この模型が広島城にあわせてあるのかな)

 

 大坂城模型の作成状況ですが、引き続き山里丸の加番屋敷や小屋の仕様について、いろいろと検討しているところです。以下は、大坂城山里加番役の屋敷(黄色線は屋根の想定です)

 学研の図説江戸2「大名と旗本の暮らし」平井聖先生監修の旗本屋敷の広さに関する記述によれば、万石未満千石以上取の上級旗本の住居で建屋900~250坪、母屋400~150坪程度、千石未満百石以上で建屋250~100坪、母屋150~60坪程度、百石未満で建屋100坪未満、母屋60坪未満とあります。

 大坂城山里加番役の屋敷や小屋の図面などと比較してみると千石取旗本屋敷と三千石取旗本屋敷の中間程度の規模と見て取れるところです。(加番小屋などの坪数合計は、数えていません。あくまで感覚です。)加番は1万~3万石の大名ですので、直参旗本との格付けの差を持たせていたのかも知れません。(それでも譜代大名なんだけどなあ)

 下の図は、山里加番小屋絵図の西側の住居の一部で、上記「大名と旗本の暮らし」に載っている足軽小屋と同程度の大きさといったところでしょうか。加番住居の範囲には、藩主の屋敷、家老の屋敷、家臣の住まいがあるのですが、家臣の住まいが足軽小屋程度だとするとどういったクラスの家臣達を連れてきていたのでしょうか、わかりませんねえ。
 大阪城天守閣に展示してある1/350徳川大坂城模型でどう再現されているかといえば、蔵が並んでいるような雰囲気でして、模型の制作時には研究があまり進んでいなかったのでありましょう。
 大阪城天守閣の撮影禁止は厳格でして、警備員が常に撮影禁止のパネルを持って見張っています。たまに外国の観光客などが携帯でも模型に向けようものなら、飛んできて厳しく注意されます。(警備員さんって、年齢はいってそうですが、定年退職した元警察官が多いですからねえ、何か「威」の雰囲気を出せるんですよ、以前はも少し緩やかだったけど・・・最近は、撮影なんかできません。)オリジナルの書画とかだとフラッシュで痛むけど、フラッシュも使わないし模型だからいいと思うんですけどねえ、歴博に比べてお堅いことです。

 もっとも城郭模型の場合、写真で公表できるとなると、私みたいなのが検証と称して、やれここが違うのとか言われて煩わしいことになるからかも知れません。(学芸員にすればクレームみたいなものでしょうから、仕方ないか)

新緑の大阪城訪問

 爽やかな季節となりました。企画展示「復活の大坂城史」というのを見るために大阪城天守閣にいってきました。西片菱櫓台のサイズを測る目的もあったところです。
いつもは、JR大阪城公園駅の方向から訪問するのですが、今回は大手門を通って行くことにしました。大手門桝形内の土塀などを測って、山里口出桝形の参考にしようと思ったところです。(大手門周辺図面などは持っているんですけどね)

 大手桝形の右奥の雁木を登って土塀を見ていると、ボランティアガイドのおじさんが近づいて来られました。(私は引っ込み思案なほうで、あまり人との会話を楽しめないというウィークポイントを持ってて、私の方から話かけたりはいたしません。)

おじさん「ここの下に石が並んでいますけどなんのためかご存知ですか?」
わたくし「多聞櫓の礎石かなんかですかねえ」(それはいくらなんでも知ってるよ・・・)
おじさん「お詳しそうですね、その通りなんですが、ここにはお城の侍たちのための市(市場)が設けられていたのです。」
わたくし「ほおお・・・そうなんですか」(これは知らんかったぞ)
おじさん「侍たちは、諸国から単身赴任でやって来ていましたから、買い物するのに、商人が入ってきてここで必要なものを売っていました。」
わたくし「そうなんですか、城のどこまで商人は入れたんでしょうか、二の丸とかですか?」
おじさん「それは・・・」
わたくし「大番とか加番とか、旗本、大名自身も単身赴任だったのでしょうか?奥方とかは連れてこなかったんですかねえ?」
おじさん「城代ぐらいは連れてこれたんではないですかねえ」(矢継ぎ早に質問して、ちょっとイジワルだったか・・・)

 最近、わたしは、山里加番の屋敷のことばかり考えておりまして、加番は小大名が任ぜられるのですが、微妙な大きさの屋敷が山里丸東側にあり、その他は狭い長屋(2戸1)になっています。どんな生活をしていたんでしょうか、いろいろと書物などで調べてはいますが分らないことが多いです。そんな疑問をおじさんに聞いてみようかなどと考えました。例えば、江戸の糞尿処理は近隣の農家が肥料にするために買い取っていたのですが、大坂城はどうだったんでしょうか、本丸御殿の便所とか誰が処理していたんでしょうかなどです。

 聞こうかなと思いながら、私が笠石の銃眼幅を測り出したりしたので、おじさん少しずつ離れちゃったです。(糞尿処理のことを聞く奴はあんまりいないと思います。残念ながら、おじさんに何か察せられてしまったようです。)

 測った結果を次の写真にメモがわりに記載しておくことととします。

 大手門の桝形を離れて、大阪城天守閣の期待していた企画展示「復活の大坂城史」を見てきましたが、私の知らない史料などは無かったのでした。また、勝手に図録などが作られているのかと思いきや、常設展示なのでないとのことでした。早々に天守閣から出て、仕方なく西片菱櫓の櫓台を測りに行きました。南辺と東辺を測りました。南辺が13m14cm、東辺18m75cmとなりました。どきどきしながら先日作った櫓台と比べてみますと「おおお、一致する!」感動してしまいましたねえ、グーグルアースおそるべし。

 大阪城天守閣の展示は、私にとってはいまいちだったのですが、もと大阪市立博物館のMIRAIZAの展示コーナーに石山本願寺から豊臣大坂城、徳川大坂城の年表パネル、徳川大坂城天守の巨大な「鬼瓦」が展示してありました。特段撮影禁止では無いので写真をのせておきます。

 あと、これは宮内庁的には、いいのかなあ・・・宮内庁所蔵の幕末大坂城写真を加工してつなげてありました。

 ひさしぶりに大坂歴史博物館にも立ち寄ってきたのですが、ここの情景模型は最高ですねえ、撮影は可能で次回以降に大阪城の伝説などとともにご紹介することとします。

徳川大坂城模型制作(山里出桝形の石塁)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。山里出桝形の雁木を作り出しました。盛時には土塀で囲まれており、本丸北側の姫門を強固に守っていた桝形です。また、ここは発掘調査も行われているので詳細な資料となり、再現に力が入るところです。

 作業の都合上、隠し曲輪と出桝形の土台は本体に接着していません、図面の切れ端は、2006年特別史跡大坂城跡発掘調査現地説明会史料に掲載の調査区配置図を1/350にして、切り取ったものです。

 雁木の1段の奥行は0.5mm程度となっているます。

一応各段を積み上げたところです。ややこしいのは、桝形入口付近の高さが中ほど以降と違うので、桝形内に雁木があり、その端との接続部分がどうなっているのかということです。

 写真を見ていただけば、雁木の段数が変わっているのがわかると思います。3段追加されてると考えられます。

 こんな小さな部分で、複雑な構造にしてあるので、逆に感心してしまうところです。

徳川大坂城模型制作(山里丸の石塁)

    最近、仕事でのストレスがだいぶ溜まっていて、徳川大坂城模型のほうに力を注げなくなっています。趣味でもあるので、ある程度気分的な余裕がないと楽しめないところもあるところです。

    とりあえず、現状の写真を掲載しておきます。山里丸周囲の石塁が一応できた状態になっています。

     石塁の幅は、グーグルアースの幅に合わせたところです。門周囲については約6.6m、外側の石塁の幅は約8.3mとしている。西片菱櫓の櫓台については、木々に隠れてグーグルアースでは確認できません。(この前行ったとき、やっぱり現地ではかっときゃよかった・・・)

    5月8日から大阪城天守閣で、企画展示「復活の大坂城史」というのがあるらしいので、それを見学に行ったときについでに測ってくることとします。

徳川大坂城模型制作(仏具山の形)

 本丸天守東側にあった仏具山についていろいろ史料がないかあたっていました。昭和53年に大阪城天守閣で実施された「大阪城古絵図展」(大阪市、日本古城友の会)の図録を持っているのですが、その中に個人蔵の(32)77.0×55.0及び(52)64.8×64.5の2枚の大阪城図が掲載されています。ここに実物の仏具山をスケッチしたと思われる姿が描かれています。もちろんコピーして掲載できませんし、図録ですからあまり詳しく読み取れないものです。いきなり下手な絵で申し訳ないですが、形状を私なりに、フリーハンドで写してみました。左の四角が糒櫓、右のものが月見櫓となり、その下に稲荷社の鳥居が描かれているようです。仏具山らしき山は、かなり大きく描かれており、以前紹介した「大坂錦城之図」のものは単に山の記号みたいなものだったなと思われるところです。

 背後に三角に描かれているのが樹木で手前の盛り土のようなところが、言わば稜線ということでしょうか、実物には文字なども書き入れられているようですが、図録の小さなものでは判明しないです。これに合わせて自分の徳川大坂城模型の仏具山も少し盛ってみました。プラパテだらけのものなので写真の掲載はまたの機会にさせていただきます。実物の絵図か、もう少し精細な図を拝見したいところです。大阪城天守閣さんも、またがんばって、いろいろお声がけしていただき、古絵図展などを開催してほしいところです。

 ところで、先日、大阪城の石垣から人が内堀に転落して亡くなったとの報道がありました。テレビなどを見てると山里出桝形の天端石からのようですね、あそこは柵がなくて、石垣頂点に腰掛けることができる場所となっています。(もはや、城内のほかの石垣では、そんな場所はなかったと思います。)たいてい海外からの観光客が鈴なりになって腰かけていますね・・・写真参照

 ご心配していただいたのか、この日のブログへのアクセスが大きく上がっていました。わたしは高所恐怖症でして、撮影の必要がある以外あそこには座りません。

春の和歌山城訪問(桜はほぼ終わっていた・・)

 ブログ更新を1週間とばしてしまいました。申し訳なかったです。3月末から急に暖かくなって、桜前線も素早く駆け抜けてしまって、ゆっくり見る機会を持てませんでしたねえ。お城でお花見というのは、静かにお城を眺めたいというのがあるので、自分の中では好ましい組み合わせになっていません。(拒否するほどではないですが、人が少ない方がいいですから)

 そんなことを言いながら、桜が残っていることも期待して和歌山城に行ってきました。残念ながら、多くは葉桜になっていて、ほぼ散ってしまっていました。本当の目的は、徳川大坂城の小天守台に本丸御殿から多聞櫓か橋廊下がつながっていたようで、橋廊下であるとすれば、実物は和歌山城に復元されているので、一度それを詳しく見たかったからです。(次の図は橋廊下近くに掲示してあったパネルのもの)

 気になっていたのは、瓦の葺き方でして、橋廊下は傾斜して架けられていますから、屋根瓦を地面に対して垂直方向に葺いているのか、大棟に対して直角に葺いているのかを見ておきたかったのです。説明パネルに図面が掲載されていたので載せておきます。うーん図面では、瓦の葺き方は描かれていないです。

 橋廊下の内部をのぞいてみますと、けっこう傾斜のある廊下となっています。

もちろん内部にも入れるのです。おもしろいのは、床が階段状になっているのかと思いきや、逆のこぎりの歯状というのか、やすり状というのか強力な滑り止めがかけられていました。土足厳禁なので足の裏に食い込みましたね。

 瓦葺きのほうですが、実物はというと、写真から確認できるように、平瓦と丸瓦を一つにまとめた桟瓦(さんがわら)を大棟に対して直角方向に葺いているようですね。発掘では本瓦も出土しているようですが、専用の桟瓦(左右それぞれのもの)が用意されて葺かれていたようです。桟瓦の発明は延宝2年(1674)と伝えられていますので、それ以降となるのでしょうか。発掘されたものを見ると「蝋燭桟瓦」ではなく、完成形のほうなので時代的には、もっと下っているのかも知れません。

 徳川大坂城小天守に斜め橋廊下が屋根付きで架かっていたのならば、時代的には桟瓦はなく本瓦となりますが、葺きにくいものになっていたであろうなと思います。

徳川大坂城模型制作(仏具山の現状)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。国会図書館蔵の明治38年の「大阪市圖」の大阪城部分の画像からご覧いただきましょう。あまり精細に描かれてはおりませんが、明治38年ですから既に配水池は設置されています。少し天守側に近すぎるように思います、注目すべきは配水池東側の仏具山と周辺の土盛部分が残った状態で描かれております。配水池の周囲は現在は急な斜面となる土盛りがされていますが、こういう状態が一時期でもあったのでしょうか、配水池の完成時の写真でも残っていれば判明するんでしょうけど、わかりません。

   この地図の山里丸東菱櫓台は、櫓台になっておらず多聞櫓台の幅が、そのまま延長されたものになっています。明確に櫓台と分かるようになっていなかったということでしょうか。天守台西側の御成門之内御櫓の櫓台も描かれていません。当時は櫓台などに関心がないのも仕方の無いことかもしれません。
 ところで、前々回の記事で仏具山の位置はどこだったのかなどと書いておきながら、現状の写真も載せておりませんでした。このあたりであろうという写真も撮影してきているのですが、ぜんぜん当時をイメージできるものとなっていなかったためです。仕方なくグーグルアースの画像でその場所を示しておきます。右の建物は、配水池の管理事務所と思われます。写真は南から北側を見ており、左の傾斜が配水池の土盛りです。仏具山は、この斜面に埋もれていて、これを見ると冒頭紹介した「大阪市圖」の描かれ方は少し不思議なのがお分かりになると思います。

 徳川大坂城模型の進行状況ですが、山里丸北東側の雁木、東菱櫓台を作りました。東菱櫓台はどうしたんだって?もう解釈するしかないですから、現状のものは「積み直しされたもの」としました。かつては、あと1m広い幅があったと解釈です。形は菱型ではなく、「く」の字型としました。

 ついでに周囲より少し高くなるよう仏具山を追加してみました。これは高さなど一切史料はありませんが、「山」と認識される程度の土盛りがあっただろうという形状にしています。