金城聞見録を見てみる

 前回言っていた「金城聞見録」を閲覧するために大阪市立中央図書館へ行ってきました。多色刷りされた貴重書として保管されているため、閲覧には申請が必要で、複写についてもコピー機でなく、カメラでの撮影となります。古文書であれば、当ブログで画像の紹介もできるのですが、近年小数部復刻され図書館に寄贈されたものなので、著作権があり画像での紹介は著作者の許可が必要となるところです。
 内容的には国立国会図書館蔵攝津徴書.巻20にある「金城聞見録」とほぼ同じものなので、国立国会図書館版の引用で紹介いたします。(詳細では異なる部分もあり、のちほど・・・)

 まずは婆あ畳(ばばあたたみ)の件ですが、記事には、番頭泊所に「床の間の左ひと間なる所あり入口に屏風を当て左右の柱に釘にて堅く打ち付けたれば入ることを得ず」「覗き見れば中央に畳十畳積み上げたり」「中に入れば必ず怪有と云う」以下は意訳「渋川伴五郎という士が、この中に入り畳の上で寝た。夜半ごろ盤石のように胸を押しかかられて、驚き見ると夜叉(やしゃ)のような老婆が白髪を振り乱して両手で胸の上を押えていた。渋川は柔術の達人なのではね返そうとしたが、体が動かず、畳の上から転げ落ちて夢から覚めたように手足が動いた。これは最近のことで、これ以降なお一層厳しく入れないようにした」とあります。婆あ畳の云われ因縁は書いておらず、少し物足りない印象を受けますねえ。

 この泊所なのですが、どうやら桜門入って右の口之御番所の泊所のようです。ただし、この絵では禿(かむろ)雪隠というのが奥にあって、手前に婆あ畳を入れた間があるように描かれています。しかし、摂営秘録では、「奥御番所に婆あ畳といふあり 上に座る時は怪異これありと申し伝ふ 今は空き部屋の方に取り込み、松羽目にて仕切」とあり、禿雪隠とは別の模型化する奥御番所にあることとなっています。(まあ、よかったです。とっても細かいですがせっかくですので、模型の中に羽目板で塞いだところなど再現したいと思っています。)

 これは、模型の対象外ですが、こちらも興味があった本丸御殿西側の数寄屋跡にある「地蔵形の燈籠」(じぞうがたとうろう)「一の谷手水鉢」(いちのたにちょうずばち)。実は、中央図書館版にはわざわざ「千の利休好み」という文言が追加してあります。この絵では古田織部が好んだことから名づけられた「織部形燈籠」(おりべがたとうろう)に見えますが、織部形とは言わず地蔵形とあります。

 下の写真は私が撮影してきた和歌山の養翠園庭園にあった織部形燈籠です。地蔵形が地中に埋もれており、こういった隠すような立て方も「いかにも」といったところですか。
 昭和に入ってから、この彫られた地蔵がキリスト教の聖者で、外見を十字架に見立てていて、隠れキリシタンが密かに崇拝できるようにしたという説がとなえられています。古田織部のまんが「へうげもの」でもそういう解釈を取り入れていました。ここから連想したのか、どういった根拠かは私は知りませんが、千利休はキリシタンではなかったのかという説も登場したらしいです。ただし、攝津徴書.巻20「金城聞見録」のには、利休好みとは書いていません。そもそも利休が亡くなってかなりの年月が経った後の徳川大坂城の数寄屋跡ですから、関連は薄いでしょう。

 ちょっと資料を読みこなして消化しなければならないところで、模型作りの作業から離れてしまっているところではあります。

大坂城山里丸の馬場

 引き続き、加番について、いろいろ調べています。大坂城加番に関する研究もされている学習院女子大学名誉教授の松尾美恵子氏の論文にようやく出合ったところです。「大坂加番の一年 -「豊城加番手挫」より-」 非常に参考になるところですが、いろいろと追加で知りたくなるところも出てきます。この論文には、年間行事「二月から三月にかけて、主に山里の馬場でしばしば※打毬(だきゅう)が催されている。」と記されてあります。

 なんと山里丸に馬場ですか、ど、どこにあったんだろ?・・・加番小屋の位置などから、本丸北石垣の東半分、加番大名屋敷の南側しかないでしょう。少し広場にしてある理由もこれで納得というところですかね。youtubeに今も伝えられている「八戸三社大祭・騎馬打毬」が上げられていますが、競技場を見る限りそれほど幅をとっていないようです。江戸時代の絵図などにある本格的な馬場はものすごく広いようですが、山里丸騎馬打毬専用馬場でなら、小さめに模型に再現できます。下の図は国会図書館蔵大坂御城絵図に山里加番小屋絵図を重ねてみたもの(縮尺はほぼそろえたけれども位置がずれてしまいます)

※打毬(だきゅう):馬術競技の「ポロ」とその起源を同じくし,白・赤2組(各4騎~10騎)の間で行われる団体戦で,乗馬して,地上に置かれた自組の色の毬(たま)を,先に網の付いた棒で掬すくい,ゴールに投げ入れる競技、八代将軍吉宗が騎戦を練習する武技としてこれを推奨(宮内庁の解説より)

 話は変わりますが、先日訪問した現大坂城天守閣の1階には「大阪城の伝説と謎」というパネルが展示してあり、そこには27項目の伝説などが掲げられています。例えば「豊公手植えの樟」「秀頼生害の松」「人面石」「かえる石」「千貫櫓」など、あまり差し障りのない項目にしてあります。私にとって、むしろ興味が注がれるのは、これらの伝説以外の本丸北の奥御番所にあったといわれる「婆ア畳」や口大番所の「ジジイ雪隠」などで、「婆ア畳」については、金城聞見録の御番所泊所之図の挿絵中に「此の屏風の中婆ア畳在り〆切」などと記してあります。

 この金城聞見録は、一部が図録などに掲載されていますが、大阪市立図書館にある貴重書である実物を一度閲覧したいと思っています。また、それ以外で松岡利郎先生の大坂城の歴史と構造の中にもいろいろな伝説が掲載されていますので、ひとつだけ引用させていただきます。「大坂御城由来」に「奥御番所前に小牛井戸と云いし井戸も今はつふれてなし この井戸より牛出たりという」とあるそうです。牛が出てくる井戸ですよ。なんかわからんが、うーん凄い。

新緑の大阪城訪問

 爽やかな季節となりました。企画展示「復活の大坂城史」というのを見るために大阪城天守閣にいってきました。西片菱櫓台のサイズを測る目的もあったところです。
いつもは、JR大阪城公園駅の方向から訪問するのですが、今回は大手門を通って行くことにしました。大手門桝形内の土塀などを測って、山里口出桝形の参考にしようと思ったところです。(大手門周辺図面などは持っているんですけどね)

 大手桝形の右奥の雁木を登って土塀を見ていると、ボランティアガイドのおじさんが近づいて来られました。(私は引っ込み思案なほうで、あまり人との会話を楽しめないというウィークポイントを持ってて、私の方から話かけたりはいたしません。)

おじさん「ここの下に石が並んでいますけどなんのためかご存知ですか?」
わたくし「多聞櫓の礎石かなんかですかねえ」(それはいくらなんでも知ってるよ・・・)
おじさん「お詳しそうですね、その通りなんですが、ここにはお城の侍たちのための市(市場)が設けられていたのです。」
わたくし「ほおお・・・そうなんですか」(これは知らんかったぞ)
おじさん「侍たちは、諸国から単身赴任でやって来ていましたから、買い物するのに、商人が入ってきてここで必要なものを売っていました。」
わたくし「そうなんですか、城のどこまで商人は入れたんでしょうか、二の丸とかですか?」
おじさん「それは・・・」
わたくし「大番とか加番とか、旗本、大名自身も単身赴任だったのでしょうか?奥方とかは連れてこなかったんですかねえ?」
おじさん「城代ぐらいは連れてこれたんではないですかねえ」(矢継ぎ早に質問して、ちょっとイジワルだったか・・・)

 最近、わたしは、山里加番の屋敷のことばかり考えておりまして、加番は小大名が任ぜられるのですが、微妙な大きさの屋敷が山里丸東側にあり、その他は狭い長屋(2戸1)になっています。どんな生活をしていたんでしょうか、いろいろと書物などで調べてはいますが分らないことが多いです。そんな疑問をおじさんに聞いてみようかなどと考えました。例えば、江戸の糞尿処理は近隣の農家が肥料にするために買い取っていたのですが、大坂城はどうだったんでしょうか、本丸御殿の便所とか誰が処理していたんでしょうかなどです。

 聞こうかなと思いながら、私が笠石の銃眼幅を測り出したりしたので、おじさん少しずつ離れちゃったです。(糞尿処理のことを聞く奴はあんまりいないと思います。残念ながら、おじさんに何か察せられてしまったようです。)

 測った結果を次の写真にメモがわりに記載しておくことととします。

 大手門の桝形を離れて、大阪城天守閣の期待していた企画展示「復活の大坂城史」を見てきましたが、私の知らない史料などは無かったのでした。また、勝手に図録などが作られているのかと思いきや、常設展示なのでないとのことでした。早々に天守閣から出て、仕方なく西片菱櫓の櫓台を測りに行きました。南辺と東辺を測りました。南辺が13m14cm、東辺18m75cmとなりました。どきどきしながら先日作った櫓台と比べてみますと「おおお、一致する!」感動してしまいましたねえ、グーグルアースおそるべし。

 大阪城天守閣の展示は、私にとってはいまいちだったのですが、もと大阪市立博物館のMIRAIZAの展示コーナーに石山本願寺から豊臣大坂城、徳川大坂城の年表パネル、徳川大坂城天守の巨大な「鬼瓦」が展示してありました。特段撮影禁止では無いので写真をのせておきます。

 あと、これは宮内庁的には、いいのかなあ・・・宮内庁所蔵の幕末大坂城写真を加工してつなげてありました。

 ひさしぶりに大坂歴史博物館にも立ち寄ってきたのですが、ここの情景模型は最高ですねえ、撮影は可能で次回以降に大阪城の伝説などとともにご紹介することとします。

徳川大坂城模型制作(山里出桝形の石塁)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。山里出桝形の雁木を作り出しました。盛時には土塀で囲まれており、本丸北側の姫門を強固に守っていた桝形です。また、ここは発掘調査も行われているので詳細な資料となり、再現に力が入るところです。

 作業の都合上、隠し曲輪と出桝形の土台は本体に接着していません、図面の切れ端は、2006年特別史跡大坂城跡発掘調査現地説明会史料に掲載の調査区配置図を1/350にして、切り取ったものです。

 雁木の1段の奥行は0.5mm程度となっているます。

一応各段を積み上げたところです。ややこしいのは、桝形入口付近の高さが中ほど以降と違うので、桝形内に雁木があり、その端との接続部分がどうなっているのかということです。

 写真を見ていただけば、雁木の段数が変わっているのがわかると思います。3段追加されてると考えられます。

 こんな小さな部分で、複雑な構造にしてあるので、逆に感心してしまうところです。

徳川大坂城模型制作(山里丸の石塁)

    最近、仕事でのストレスがだいぶ溜まっていて、徳川大坂城模型のほうに力を注げなくなっています。趣味でもあるので、ある程度気分的な余裕がないと楽しめないところもあるところです。

    とりあえず、現状の写真を掲載しておきます。山里丸周囲の石塁が一応できた状態になっています。

     石塁の幅は、グーグルアースの幅に合わせたところです。門周囲については約6.6m、外側の石塁の幅は約8.3mとしている。西片菱櫓の櫓台については、木々に隠れてグーグルアースでは確認できません。(この前行ったとき、やっぱり現地ではかっときゃよかった・・・)

    5月8日から大阪城天守閣で、企画展示「復活の大坂城史」というのがあるらしいので、それを見学に行ったときについでに測ってくることとします。

徳川大坂城模型制作(仏具山の現状)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。国会図書館蔵の明治38年の「大阪市圖」の大阪城部分の画像からご覧いただきましょう。あまり精細に描かれてはおりませんが、明治38年ですから既に配水池は設置されています。少し天守側に近すぎるように思います、注目すべきは配水池東側の仏具山と周辺の土盛部分が残った状態で描かれております。配水池の周囲は現在は急な斜面となる土盛りがされていますが、こういう状態が一時期でもあったのでしょうか、配水池の完成時の写真でも残っていれば判明するんでしょうけど、わかりません。

   この地図の山里丸東菱櫓台は、櫓台になっておらず多聞櫓台の幅が、そのまま延長されたものになっています。明確に櫓台と分かるようになっていなかったということでしょうか。天守台西側の御成門之内御櫓の櫓台も描かれていません。当時は櫓台などに関心がないのも仕方の無いことかもしれません。
 ところで、前々回の記事で仏具山の位置はどこだったのかなどと書いておきながら、現状の写真も載せておりませんでした。このあたりであろうという写真も撮影してきているのですが、ぜんぜん当時をイメージできるものとなっていなかったためです。仕方なくグーグルアースの画像でその場所を示しておきます。右の建物は、配水池の管理事務所と思われます。写真は南から北側を見ており、左の傾斜が配水池の土盛りです。仏具山は、この斜面に埋もれていて、これを見ると冒頭紹介した「大阪市圖」の描かれ方は少し不思議なのがお分かりになると思います。

 徳川大坂城模型の進行状況ですが、山里丸北東側の雁木、東菱櫓台を作りました。東菱櫓台はどうしたんだって?もう解釈するしかないですから、現状のものは「積み直しされたもの」としました。かつては、あと1m広い幅があったと解釈です。形は菱型ではなく、「く」の字型としました。

 ついでに周囲より少し高くなるよう仏具山を追加してみました。これは高さなど一切史料はありませんが、「山」と認識される程度の土盛りがあっただろうという形状にしています。

徳川大坂城模型制作(仏具山づくり)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。本丸北東面周辺にかかっています。月見櫓、糒櫓台にかかる部分、仏具山部分ですが地味な写真なので、それよりも極楽橋について少しだけ触れてみます。

 豊臣大坂城には檜皮葺きの屋根付き極楽橋があり、大阪城図屏風にその姿が残されています。徳川期もほぼ同じ場所に同名で橋が掛けられていたわけですが、大坂御城絵図によれば幅は4間(約7.8m、現行の幅は5.4m)長さ26.5間となっています。橋桁は現行3段となっていますが、古図などでは4段、5段と様々な姿があります。
 
 幅は、はっきりしているので模型化するのに支障はありませんが、気になっているのは、山里門への接続角度でして、現行の橋はグーグルアース上空写真を見ると石垣に対して垂直とはなっておらず、やや傾いているのがわかります。当ブログで参考にしている明治23年発行大阪実測図(この時点では橋はありません)にも、山里門の対岸側にやや東に傾いた位置で橋の受け部のような枠が描かれてはいます。この位置からすると現行の橋の角度は徳川大坂城の極楽橋と同じ角度かなとは思いますが、宮内庁蔵大坂城櫓写真種板15/49の写真の極楽橋が、も少し西よりに傾いて見えて石垣面に垂直じゃないのかと感じてるところです。まあ橋途中の擬宝珠の数(橋桁の数)もよくわからないところですが、極楽橋制作は徳川大坂城模型の最終局面でのことなので当分考える必要はなさそうです。次の写真は山里門側の極楽橋接続左右部分、旧橋の受ける場所の石が削られているのが確認できます。

 さて現状写真ですが、本丸北東にある仏具山をタミヤスチレンボード1mm厚を積み重ねてプラパテで斜面をならしています。 月見櫓両横の雁木と石塁はプラ板の積み重ねで、5段としています。1段目の基礎の段は50センチ程度の高さとし、2段目以上は27㎝の高さとしています。まだまだ作業は続きます。

徳川大坂城模型制作(桝形づくり)

 徳川大坂城模型制作の記事の続きです。山里丸から山里出桝形に作業は移っています。現地で測った高さで合わせていましたが、山里丸から斜め通路が増設されており、出桝形の地面はずいぶん土盛りされてもいます。大阪文化財研究所の現地説明会資料の掲載写真など見てみますと、元の地面はかなり下となるようです。

〇大阪文化財研究所の特別史跡大坂城発掘調査(OS05-1次)

 こういった資料が、私の模型作りにとって非常に重要でして、もっと発掘調査してくれればなあと思います。そういえば、現行小天守台に残る金明水井戸は、かつて、豊臣大坂城の井戸であったと信じられており、調査まで行われてもいます。もちろん徳川大坂城のものであることは言うまでもありません。

 豊臣大坂城の図面を見ていると山里丸に井戸がありますが、徳川大坂城図面の山里にも近い位置に井戸が描かれています。ひょっとして、同一の井戸ではないのか、発掘してみれば豊臣大坂城に関連したものが出るのではないかと思ったところです。

 徳川大坂城模型の作業のほうですが、途中まで作っていた山里出桝形を作り直し、高さについては隠し曲輪も含め、一応解決とします。模型を作っているとどうも自分の感覚での話ですが、自分の思っている高さと模型での高さが違うように感じて少し不安になることもあります。(なんか、えらいミスをしてるんじゃないかと)

 本丸地上面から石塁までの高さは1/350では6㎜程度となるので、それを置いてみると、ああこんな感じかなと納得もできたところです。

徳川大坂城模型制作(ぐるぐると考証ばかり2)

 先週の記事をとばしてしまいました。すみませんでした。徳川大坂城模型作成記事の続きですが、思い込みというか、予断というのはだめだなあと反省していたところでして、制作中の大坂城模型については、本丸部分を作って、あとで内堀水面をつくって、そこにのせるつもりでいました。問題は内堀水面標高で、国土地理院地図では、最低が6m最高が10mと大きな差がでているところです。(これはしかたないことらしいですが)単純に中をとって8mで模型を作り出したのが、私のマヌケなところでして、糒櫓台標高32.9mであれば、石垣高が24mとして、水面高9mじゃやないかと、いまごろ気づいたのでした。そのため、今の土台を1m分水面に沈めなければならなくなったところです。(ふー、樹脂水面って、表面張力で石垣に接しているところが盛り上がるんですよ。これが許せなくて、上にのせるつもりだったのに・・・不要だった工夫が必要になりました。)

 前回、ぐるぐるになった本丸、山里丸、仏具山、各面の石塁の高さ、現金蔵地表面高との差など、整理する必要があったので「大阪実測図」に雁木の段数などを記入した図を作りました。あわせて、「大坂御城絵図」の一部(小天守台は薄茶色、その他は茶色、長屋建物の天守台接続部分は私の書き足し)も重ねてみました。ピッタリ合いませんねえ、図中天守台左下の御成門之内櫓と小天守台及び新金蔵と長屋建物を合わせると、天守台右下の元金蔵(茶色)と月見櫓がズレます。建物規模などは精緻に描かれていても江戸時代の図面なので、建物間の距離や石垣面の角度は正確には取れていないためだと思います。

 高さのほうについては、国土地理院地図で標高を調べ、天守台を除き、本丸の最高点になる本丸北面の櫓台を黄土色で着色しています。本丸東の糒櫓から北ノ手櫓、姫門、埋御門向櫓、御成門之内櫓までが標高32.9mで同じ高さとしています。薄い黄土色の糒櫓の南側、仏具山と多聞櫓、月見櫓台の高さは、糒櫓との石垣高差が1.8m(自分で測ったのも、松岡利郎先生の図面も同じ)低くなっているので31.1mとなりますが、この高さは天守台西側の現在の地表面の高さとほぼ変わりません。以前に記していましたが、私は本丸西側平面より東側平面の方が1mぐらい高いのではないかと先入観を持っていたので、ここでとても混乱した訳です。

 天守台西側地表面を約31mとしていたので、これが東側平面と同じだと仏具山に高さが無しになるためです。先入観を捨て無ければなりません。どうやら天守台周辺が少し高くて、東側の平面は全体的に低いのであろうと。あと、諸絵図の右下の階段は東に向かって降りていくものと解釈できます。2段あるので50㎝ほど下がるのでしょう。

 図中の青い線は、「大坂諸絵図廿九御天守台図」に記載のある「溝」でして、「大坂御城絵図」にもこの線はあり、一致するので天守の雨水の排水路なのでしょう。国立公文書館か東京都立図書館のどちらの所蔵資料か忘れましたが、江戸城の排水路を入れた図面を見たことがあり、大坂城でも集水桝や石垣に突き出た石樋が複数あるようなので都市計画のように考えられた排水路配置があったものと考えられます。

 結論的に言えば、現在の地表面は、江戸時代に比して平均40㎝から1m程度高くなっていて、石垣高は変わらないので、地表面のみ現在の標高から低くしなければならないということです。これを確定させるのに悩んで作業ストップしているところです。 

徳川大坂城模型制作(ぐるぐると考証ばかり)

 模型の範囲を拡大したので、今まで図面を作成していなかった山里丸、本丸東側を調べています。

 最初の図面は、大阪市立中央図書館蔵「明治22年内務省作成大阪實測圖」の大阪城部分の一部でして、この模型に取り掛かるときに模型のベース図面に使う資料として私がコピーしてきたものです。明治初期の測量のもので、細かくみると、石垣角の角度に誤差などが認められたので結局ベースとしては使用していませんが、小天守西側(図の下側)に「御門」の跡が残っていたり、山里出桝形内に雁木が残っていたり、幕末時の大坂城に近い状態がわかるものとなっています。(もちろん、この時点では、お城ファンとしては好ましからざる英国人技師パーマー設計の配水池もありません。)

 範囲を広げると右図のオレンジの枠が対象となります。まず、山里丸東菱櫓の櫓台の形状ですが、なんと前回桔梗閣さんに情報提供いただいた図面のとおりで、菱型になっておりません。別に公園にするなどの目的がない明治初期に積みなおしする理由もわかりませんし、この形状に入る菱型(おそらく正確にいうと平行四辺形ですが)となると、大坂御城絵図にあるような寸法では収まらなくなります。(ふー、いろいろでてきますねえ。)

 次に本丸北東の糒櫓付近ですが、「仏具山」(松岡利郎著「大坂城の歴史と構造」p150)の形状が描かれており、石垣東面の天端とほぼ同じ高さでフラットになっています。「山」は下にある月見櫓跡の手前までとなっているようです。前回の現地調査で、配水池の工事土砂を積んだのだろうなどと、勝手に怒ってみましたが、元々、石塁がなくフラットであったようです。(反省します・・・)

 現在、模型の土台を作成しているのですが、最終の各櫓の土台の高さ、多聞櫓の土台の高さを確定させようと四苦八苦しているのです。糒櫓跡(右中央)で、標高約33mにすると月見櫓と連なる多聞櫓台の標高は31.2m、そこから、この図の右下の雁木(現地調査で5段×24㎝)1.2mで、本丸平面は30.0mとなります。

 しかし・・・です。基本的に、城跡ですから、元の地上面は埋もれているわけでして、例えば天守北にある姫門から東へ続く石塁の雁木は、今は9段しか露出していませんが、2007年の大阪市文化財協会の発掘報告によれば、11段であることが判明しており、徳川期の地表は現在より2段分以上(約50㎝以上)低いところにあった訳です。ちなみに徳川期の地表面が出ている現存金蔵周辺と現在の地表面との差は約48㎝でした。

 石垣高は変わることはありませんので、各段を減算して合わせていく、かつ、模型は内堀の水面から作っているので、それでちょっと整理がつかなくて、だらだら状態となっています。(ちょっと疲れも出たかなあ)

 話題を少し変えます。先週大阪城天守閣で特別展「幕末大坂城と徳川将軍」を見てきたのですが、いつも参考にしている宮内庁蔵「大坂城櫓写真種板」の現物が展示されていました。これが15センチ程度の木枠に収まったガラス板で、その小さいこと、驚きました。もちろん拡大された写真も掲げてあり、あらためて大坂城の三重櫓の姿に感激したところです。

 私にとって初見だったのは、金沢美術工芸大学蔵のイギリス軍人ウイリアム・サットン撮影の写真でして、まず桜門付近を撮影したもので、本丸南西の鉄砲奉行預櫓に本丸南面の多門櫓、桜門、霞んではいますが、南の手御櫓も写っています。さらに本丸内の大広間と白書院が写る本丸御殿の写真は、ため息がでるほど感動しました。「こんな写真があったのか」ってね。(小さい画像のものが、大阪城のHPに掲載されていますので興味のある方はご覧ください。)

 ここ1週間、この図録をずっと眺めているのですが、掲載されている写真に触発されて、ちょっとした発見もありまして、以下の元の写真を閲覧できるリンクを貼っておきます。

〇 長崎大学ボードウィンコレクション 写真番号6188
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/jp/21.php?mode=0&page=2
  大坂城京橋口をのぞむもので、写真左、橋の上のこちらを向く男の頭上、松林の間に三重櫓(東西棟)が写っています。こ、こ、これは!

〇 宮内庁蔵「大坂城櫓写真種板」 写真番号35 
http://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000520960000/30e4efb5b2a14da4b6f87ef890a53813
  特別展では、この写真の展示、掲載はなかったのですが、写真右、最初に石垣が折れ曲がった場所の上部、松林の間に同じく三重櫓(東西棟)が写っています。こ、これもか!

 地図や図面などと突き合わせますと両方とも、天守・姫門西にある「武具奉行預櫓」の北西からの姿であると考えられます。(知りたがっている南に続く多聞櫓との屋根接続は、惜しいかな確認できせん。)
 しかし、松岡利郎先生の「大坂城の歴史と構造」の中でも、「西面の初層に千鳥破風か切妻破風の張出型石落としをつけていたらしい」とされていた破風の形が確定できます。大坂城の櫓の切妻破風の場合、壁面の半分程度の高さに棟があるので、この櫓はそうなっておらず、千鳥破風であると断言できます。

 (やったー、発見したー、嬉しいー、なにゆえこんな喜ぶかというと、大阪城に展示していある1/350徳川大坂城模型では、切妻破風と解釈されているためで、独自考証で別案が出せると思ったからです。まあ、誰か他の方がもう既に見つけられているかも知れませんけどね・・・)