いつもお城プラモ築城の道のりをごらんいただきましてありがとうございます。
少々身辺整理の必要が生じておりまして、少しブログの更新をしばらく空けさせていただきます。せっかく楽しみにしていただいている方々には、ご迷惑をおかけいたします。このブログ自体は齢を重ねた後の道楽にするために開設したものですから、その初心は今も持っておりますし、止めるつもりはございません。しばらくのお時間をば、どうかいただきますように・・・
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前回の訪問記に少し追加記事ということで、現地の解説パネルの写真で正確な情報を示しておきたいと思いました。発掘で郡山城に天守があったことが証明されましたが、現地の解説は以下のとおりとなっています。
次の写真は、整備された天守台の写真で、基礎石が着色して描かれています。
さらに天守台の整備事業についての説明パネルも現地にありましたので掲載しておきます。 この3Ⅾ画像を見ますと、小天守台の南側に地下部分が見えますが、元は現状の石段を巻いて天守台に登っていくのではなく、小天守台に付櫓があって、この図では下側に櫓への入口があったのだろうとも考えられているようです。
いずれにせよ研究が進んで、郡山城天守がより詳細に再現されるよう願ってやみません。
徳川大坂城の制作は、個人的にいろいろと時間や気分の余裕が無くなり滞っておりまして、しばらく休止状態にならざるをえないところです。
引き続き、加番について、いろいろ調べています。大坂城加番に関する研究もされている学習院女子大学名誉教授の松尾美恵子氏の論文にようやく出合ったところです。「大坂加番の一年 -「豊城加番手挫」より-」 非常に参考になるところですが、いろいろと追加で知りたくなるところも出てきます。この論文には、年間行事「二月から三月にかけて、主に山里の馬場でしばしば※打毬(だきゅう)が催されている。」と記されてあります。
なんと山里丸に馬場ですか、ど、どこにあったんだろ?・・・加番小屋の位置などから、本丸北石垣の東半分、加番大名屋敷の南側しかないでしょう。少し広場にしてある理由もこれで納得というところですかね。youtubeに今も伝えられている「八戸三社大祭・騎馬打毬」が上げられていますが、競技場を見る限りそれほど幅をとっていないようです。江戸時代の絵図などにある本格的な馬場はものすごく広いようですが、山里丸騎馬打毬専用馬場でなら、小さめに模型に再現できます。下の図は国会図書館蔵大坂御城絵図に山里加番小屋絵図を重ねてみたもの(縮尺はほぼそろえたけれども位置がずれてしまいます)
※打毬(だきゅう):馬術競技の「ポロ」とその起源を同じくし,白・赤2組(各4騎~10騎)の間で行われる団体戦で,乗馬して,地上に置かれた自組の色の毬(たま)を,先に網の付いた棒で掬すくい,ゴールに投げ入れる競技、八代将軍吉宗が騎戦を練習する武技としてこれを推奨(宮内庁の解説より)
話は変わりますが、先日訪問した現大坂城天守閣の1階には「大阪城の伝説と謎」というパネルが展示してあり、そこには27項目の伝説などが掲げられています。例えば「豊公手植えの樟」「秀頼生害の松」「人面石」「かえる石」「千貫櫓」など、あまり差し障りのない項目にしてあります。私にとって、むしろ興味が注がれるのは、これらの伝説以外の本丸北の奥御番所にあったといわれる「婆ア畳」や口大番所の「ジジイ雪隠」などで、「婆ア畳」については、金城聞見録の御番所泊所之図の挿絵中に「此の屏風の中婆ア畳在り〆切」などと記してあります。
この金城聞見録は、一部が図録などに掲載されていますが、大阪市立図書館にある貴重書である実物を一度閲覧したいと思っています。また、それ以外で松岡利郎先生の大坂城の歴史と構造の中にもいろいろな伝説が掲載されていますので、ひとつだけ引用させていただきます。「大坂御城由来」に「奥御番所前に小牛井戸と云いし井戸も今はつふれてなし この井戸より牛出たりという」とあるそうです。牛が出てくる井戸ですよ。なんかわからんが、うーん凄い。
爽やかな季節となりました。企画展示「復活の大坂城史」というのを見るために大阪城天守閣にいってきました。西片菱櫓台のサイズを測る目的もあったところです。
いつもは、JR大阪城公園駅の方向から訪問するのですが、今回は大手門を通って行くことにしました。大手門桝形内の土塀などを測って、山里口出桝形の参考にしようと思ったところです。(大手門周辺図面などは持っているんですけどね)
大手桝形の右奥の雁木を登って土塀を見ていると、ボランティアガイドのおじさんが近づいて来られました。(私は引っ込み思案なほうで、あまり人との会話を楽しめないというウィークポイントを持ってて、私の方から話かけたりはいたしません。)
おじさん「ここの下に石が並んでいますけどなんのためかご存知ですか?」
わたくし「多聞櫓の礎石かなんかですかねえ」(それはいくらなんでも知ってるよ・・・)
おじさん「お詳しそうですね、その通りなんですが、ここにはお城の侍たちのための市(市場)が設けられていたのです。」
わたくし「ほおお・・・そうなんですか」(これは知らんかったぞ)
おじさん「侍たちは、諸国から単身赴任でやって来ていましたから、買い物するのに、商人が入ってきてここで必要なものを売っていました。」
わたくし「そうなんですか、城のどこまで商人は入れたんでしょうか、二の丸とかですか?」
おじさん「それは・・・」
わたくし「大番とか加番とか、旗本、大名自身も単身赴任だったのでしょうか?奥方とかは連れてこなかったんですかねえ?」
おじさん「城代ぐらいは連れてこれたんではないですかねえ」(矢継ぎ早に質問して、ちょっとイジワルだったか・・・)
最近、わたしは、山里加番の屋敷のことばかり考えておりまして、加番は小大名が任ぜられるのですが、微妙な大きさの屋敷が山里丸東側にあり、その他は狭い長屋(2戸1)になっています。どんな生活をしていたんでしょうか、いろいろと書物などで調べてはいますが分らないことが多いです。そんな疑問をおじさんに聞いてみようかなどと考えました。例えば、江戸の糞尿処理は近隣の農家が肥料にするために買い取っていたのですが、大坂城はどうだったんでしょうか、本丸御殿の便所とか誰が処理していたんでしょうかなどです。
聞こうかなと思いながら、私が笠石の銃眼幅を測り出したりしたので、おじさん少しずつ離れちゃったです。(糞尿処理のことを聞く奴はあんまりいないと思います。残念ながら、おじさんに何か察せられてしまったようです。)
測った結果を次の写真にメモがわりに記載しておくことととします。
大手門の桝形を離れて、大阪城天守閣の期待していた企画展示「復活の大坂城史」を見てきましたが、私の知らない史料などは無かったのでした。また、勝手に図録などが作られているのかと思いきや、常設展示なのでないとのことでした。早々に天守閣から出て、仕方なく西片菱櫓の櫓台を測りに行きました。南辺と東辺を測りました。南辺が13m14cm、東辺18m75cmとなりました。どきどきしながら先日作った櫓台と比べてみますと「おおお、一致する!」感動してしまいましたねえ、グーグルアースおそるべし。
大阪城天守閣の展示は、私にとってはいまいちだったのですが、もと大阪市立博物館のMIRAIZAの展示コーナーに石山本願寺から豊臣大坂城、徳川大坂城の年表パネル、徳川大坂城天守の巨大な「鬼瓦」が展示してありました。特段撮影禁止では無いので写真をのせておきます。
あと、これは宮内庁的には、いいのかなあ・・・宮内庁所蔵の幕末大坂城写真を加工してつなげてありました。
ひさしぶりに大坂歴史博物館にも立ち寄ってきたのですが、ここの情景模型は最高ですねえ、撮影は可能で次回以降に大阪城の伝説などとともにご紹介することとします。
徳川大坂城模型制作記事の続きです。山里出桝形の雁木を作り出しました。盛時には土塀で囲まれており、本丸北側の姫門を強固に守っていた桝形です。また、ここは発掘調査も行われているので詳細な資料となり、再現に力が入るところです。
作業の都合上、隠し曲輪と出桝形の土台は本体に接着していません、図面の切れ端は、2006年特別史跡大坂城跡発掘調査現地説明会史料に掲載の調査区配置図を1/350にして、切り取ったものです。
雁木の1段の奥行は0.5mm程度となっているます。
一応各段を積み上げたところです。ややこしいのは、桝形入口付近の高さが中ほど以降と違うので、桝形内に雁木があり、その端との接続部分がどうなっているのかということです。
写真を見ていただけば、雁木の段数が変わっているのがわかると思います。3段追加されてると考えられます。
こんな小さな部分で、複雑な構造にしてあるので、逆に感心してしまうところです。
徳川大坂城模型制作記事の続きです。今日は、山里丸東菱櫓の櫓台の形状がどうももやもやしていて、スッキリ作業に入れないので、大阪城に行ってきました。春めいた日差しもあって気持ちよかったです。もちろん菱櫓台跡だけを見に行くのでなく、気になっている箇所の確認も目的にあります。
例えば本丸北東の「仏具山」など一体どういう形の山だったのか、現状からはどの位置になるのであろうかなどです。以前城内のパネルで紹介されていた「浪華城全図」には地面の盛り上がった部分で描かれていましたが、「大坂錦城之図」には山の形に「仏具山」との文字が書き込まれ、「ケサ掛松」(蓮如袈裟掛松)「生害松」(秀頼生害ノ松)の文字もあります。いつも使っている大坂実測図に写し取ってみたのが以下の図です。宮内庁の幕末大坂城写真(43/49)にも糒櫓の左の近くと、さらに左に並んで大きな松の木が写っていますが、これらがケサ掛松と生害松なのでしょう。
さて、菱櫓台ですが、7間(約13.7m)の辺と6間(約11.8m)の辺が鈍角約120度の平行四辺形になっていれば、菱櫓は入ることとなります。現地で現状の櫓台の端から東側石垣天端石まで(平行四辺形の高さ)を測りますと8m90㎝でした。
やっぱり足りません。10mは必要でして・・・やれやれです。
私が使っている、この模型用の図面でしめしてみると、ちょうど菱櫓の左上がはみ出ているのがお分かりになると思います。図面のマルBの面は、戦時中に爆撃を受けた近くなので積み直しの可能性がありますが、マルAの面は見た限りでは従前のままの石垣に見えるところです。菱櫓の短辺が実は6間でない可能性もあると見るべきでしょう。(謎になってしまいました。)
徳川大坂城模型制作記事の続きです。
山里丸の雁木を作っているのですが、東菱櫓櫓台の形状について決着をつけなければならない段階です。最初の写真は左に山里門を内側から見たものです。中央の折れ曲がった新しく積まれた雁木は、平成23年に大阪市教育委員会等が発掘調査して判明した旧状に復元されたものです。(素晴らしいではありませんか。)
大坂城を訪問するたびに雁木の高さを測るクセがついてしまっていて、駅や、家の階段を上がるだけで「ここは1段25cmぐらいかなあ」と思うようになってしまいました。
ここの雁木は1段27㎝程度でして、写真からは10段積に見えますが地面に1段埋もれています。なので基本が11段(高さ2m97cm)で本丸石垣に近づくにつれて徐々に埋もれていくようになっています。現状石垣のふもとでは7段になっています。(写真中央に女性が写っていて、なんで私を撮るのって顔をされています。「別にあなたを撮りたいんじゃなくて、あなたの横の菱櫓の石垣パターンと雁木の埋もれ具合をとりたいのですー」とは言わず、顔をボカシてます)
前回、山里丸東面の建物長さを国会図書館蔵「大坂御城絵図」から27間(約53.17m)と割り出してみましたが、実は「大坂御城御本丸并御殿絵図」の方では25.5間と見えるところでして、すると約50.2mでずいぶん差があります。こうなると現地調査に行きたくなります。グーグルアースで計測してみると50.23mなどの結果が得られるところです。グーグルの計測は、まあまあ正しい数値が出てくるのでこちらでいくべきなのでしょう。
さてさて、菱型になっていない菱櫓台の問題ですが、「大坂御城絵図」では東西面7間、南北面6.5間と、「大坂御城御本丸并御殿絵図」のほうでは、東西面7間、南北面6間と見えますね。もちろん菱型(平行四辺形)なので、建物の短い方の幅は、図面上で作図してみると約10mとなるところです。
現状残っている櫓台にこの幅があれば、そのまま菱櫓が入るのですが、私の持っている図面で8m60cmで幅が足りません。グーグルアースでは約9mと出てきます。(惜しいです。やっぱり櫓台を膨らませるしかないのでしょうか)
逆方向からの写真ですが、先ほどの女性はどいてくれないようですね。
徳川大坂城模型制作記事の続きです。作業をどんどん進めていきたいところですが、そろそろ多聞櫓なども意識しなきゃいけないなと思っています。作業的には本丸の雁木などを作り上げれば、いよいよ石垣にかからねばなりません。
まず、各面を作り上げて、その面に合せて石垣の写真からパターンを写しとり再現したいと思っています。(城王さんがカーボンコピーで写されているのを記事で紹介されていたので、私もその手法を使わせていただこうと決めています。)多聞櫓、三重櫓などは、その後となるので、遠い道のりとはなります。
前回、その位置決めに四苦八苦していた砂留ですが、まだ引きずっているところです。写真は、私が本丸北東の糒櫓跡から手を伸ばして撮影した山里曲輪の石塁を見下ろしたものです。いろいろと不明なところも出てくるところですが、まず、右端の青白矢印の先に石樋があります。そして石塁の上の赤白矢印は笠型の鉄砲狭間に小さな三角の欠け部分があり、前回紹介した現地説明会資料の平面図に写真の欠けた部分が描かれています。ちょうど小さな丸い樹木の右となっており、この欠けた部分からちょうど西側に砂留があったことになります。図面の縮尺は割り出せるので一応位置は確定です。良くわからないのは、銃眼石にほぞ穴がありまして、当初これは柱のほぞ穴と解釈していました。つまり1間(6.5尺幅)で、これを基準にすれば実に便利と思っておりましたが、違いました・・・約1間半で、銃眼の幅と同じようです。(ほとんどの銃眼石に入っているので、もう少し調べるつもりです。)
ついでに、多聞櫓もチェックしておくかということで、先週記事トップに載せた山里曲輪東面石垣の写真と宮内庁蔵の菱櫓の写真を照合してみました。古写真の石垣の石はそのまま残っていますから、現在の写真から同じ石を探し出し、その上の菱櫓の石落しの位置、窓の位置も割り出せます。写真ですので両端には歪があるでしょうが、こんな感じとなります。
ただし、大坂御城絵図は糒櫓側の石垣の奥行が入っていませんから、誤差が出てくると考えられます。菱櫓近くの窓の位置は、ほぼ確定ですが左半分の窓の位置は、すこし怪しいところです。大坂御城絵図に窓の数など文字で記入があるもののネットの画像は不明瞭で窓の正確な位置が分かりにくいのです。今回はここまでです。
徳川大坂城模型制作記事の続きです。以前からですが、ブラウザがSSLで保護されていないサイト表示に注意書きを入れるようになってきました。「このサイトへの接続は保護されていません。」と表示されちゃうんですよねえ…無料ブログサービスなどの利用ではサーバー側が対応してくれますが、わたしのようなレンタルサーバーでブログを立てていると自分で変更しなければなりません。(いろいろ面倒そうで少しブルーになってしまっています。まあ、ぼちぼち用意してアナウンスします。見ていただいている方からのURLは変更する必要は無いようにしますので、ご迷惑はおかけしないつもりです。)
制作のほうは本丸西側の雁木や櫓台を終了させ、山里曲輪の雁木にかかろうかとしていました。山里曲輪の東側は大阪文化研究所が2011年に行った発掘調査で排水施設が見つかっています。現地説明会資料
砂留(集水桝)があって、ちょうどこの東面外側の石垣には本丸堀に排水用の石樋が見て取れます。図面を1/350に変換して正確に写し取って模型化しようとしている訳です。大阪城所蔵の絵図には、他の箇所にも「砂留」が描かれています。
ただし、この図面からは本丸北面の石垣からの距離がわかりません。2間の土塀が掛けられていたのですが、まだ石垣面を作っていないので分らんのです。グーグルアースの上空写真などでいろいろ調べていましたら、「あれ?本丸糒櫓の向きって、こうだったっけ?うわわわ・・・」やっと気づいたのでした。
松岡利郎先生もその著書「大坂城の歴史と構造」の中で、わざわざ「大坂御城御本丸並御殿絵図」の糒櫓は、「桁行と梁行の方位をまちがえて色紙を貼りつけているので、注意しておきたい」と書かれているのに、なんにも考えず同図面を使ってしまっているのです。まるで自分で落とし穴を掘ってそこに落ちるみたいなマヌケなことをしています。(はあー落ち込みますねえ、作業を急ぐとこんなことをしてしまうのですよ。私は・・・)修正するのに2時間程度かかりました。
そんな訳で、まだ山里曲輪の雁木にかかっていません。こんなことがあったので、「大坂城の歴史と構造」をもう一度最初から読み返しました。
見落としていたのが、以前の記事で触れた例の根拠を知らないとしていた「仏具山」でして、P165に由来が書かれています。「一同所北之方ニ大的参尺弐的場在り右を矢面山を佛具山と云昔元和の頃佛具を埋ミ候場所の地と伝ふ」(大坂錦城記)と引用がありました。元和6年(1620年)から徳川大坂城の普請(土木工事)が始っていますから、豊臣大坂城の焼けた残骸に仏具などが多くあって、このあたりに集めて埋めたのかも知れません。徳川期には、3尺(約90㎝)の的のある的場(弓の射的場)が2か所あったと読めるので、これも再現したいところです。広い空き地になっているのもこれで理由がわかるところです。
徳川大坂城模型制作記事の続きです。旧ブログでは作成進行状況が芳しくないときには旧作のお城プラモ写真でお茶を濁したものでした。いい写真が撮れればいいのですが、照明の準備とかいろいろと手間のかかり、そのくせ出来がいまいちだと、なかなか次のチャレンジをしなくなってしまいます。愛機DMC-LX9も飾ったままとなっていました。ひさしぶりに広島城を撮ってみたのが次の写真です。
広島城南小天守でして、史料がほぼ残っていないので、建物としてのバランスというか、なんというか雰囲気で作ってしまっています。現在の徳川大坂城作成のスタンスからだと、作れなくなってしまいますね。
次は東小天守です。これも私の感覚でのバランスで作ってしまっていますが、岡山城の櫓とか熊本城の櫓とか個性的な姿を持っており、案外キットの形状が実物に近いという可能性もあるなあと思い直しているところです。(根拠はありませんけど)
これを見ていると細かいところで「下手だなあ」と自己嫌悪を感じてしまうところです。もっと正確に塗装もしたいし、柱などでももっと精密に組み上げたくなりますね。
徳川大坂城模型の現状ですが、本丸北側の雁木などを作り上げたところです。奥御番所の土台部分も描いてありますが、これの位置も図面が変わると少しづつずれているところで、も少し西よりにするかもしれません。(この位置は「大坂御城絵図」によるものです。)