引き続き、加番について、いろいろ調べています。大坂城加番に関する研究もされている学習院女子大学名誉教授の松尾美恵子氏の論文にようやく出合ったところです。「大坂加番の一年 -「豊城加番手挫」より-」 非常に参考になるところですが、いろいろと追加で知りたくなるところも出てきます。この論文には、年間行事「二月から三月にかけて、主に山里の馬場でしばしば※打毬(だきゅう)が催されている。」と記されてあります。
なんと山里丸に馬場ですか、ど、どこにあったんだろ?・・・加番小屋の位置などから、本丸北石垣の東半分、加番大名屋敷の南側しかないでしょう。少し広場にしてある理由もこれで納得というところですかね。youtubeに今も伝えられている「八戸三社大祭・騎馬打毬」が上げられていますが、競技場を見る限りそれほど幅をとっていないようです。江戸時代の絵図などにある本格的な馬場はものすごく広いようですが、山里丸騎馬打毬専用馬場でなら、小さめに模型に再現できます。下の図は国会図書館蔵大坂御城絵図に山里加番小屋絵図を重ねてみたもの(縮尺はほぼそろえたけれども位置がずれてしまいます)
※打毬(だきゅう):馬術競技の「ポロ」とその起源を同じくし,白・赤2組(各4騎~10騎)の間で行われる団体戦で,乗馬して,地上に置かれた自組の色の毬(たま)を,先に網の付いた棒で掬すくい,ゴールに投げ入れる競技、八代将軍吉宗が騎戦を練習する武技としてこれを推奨(宮内庁の解説より)
話は変わりますが、先日訪問した現大坂城天守閣の1階には「大阪城の伝説と謎」というパネルが展示してあり、そこには27項目の伝説などが掲げられています。例えば「豊公手植えの樟」「秀頼生害の松」「人面石」「かえる石」「千貫櫓」など、あまり差し障りのない項目にしてあります。私にとって、むしろ興味が注がれるのは、これらの伝説以外の本丸北の奥御番所にあったといわれる「婆ア畳」や口大番所の「ジジイ雪隠」などで、「婆ア畳」については、金城聞見録の御番所泊所之図の挿絵中に「此の屏風の中婆ア畳在り〆切」などと記してあります。
この金城聞見録は、一部が図録などに掲載されていますが、大阪市立図書館にある貴重書である実物を一度閲覧したいと思っています。また、それ以外で松岡利郎先生の大坂城の歴史と構造の中にもいろいろな伝説が掲載されていますので、ひとつだけ引用させていただきます。「大坂御城由来」に「奥御番所前に小牛井戸と云いし井戸も今はつふれてなし この井戸より牛出たりという」とあるそうです。牛が出てくる井戸ですよ。なんかわからんが、うーん凄い。
馬場を推定して黄線で囲った場所ですが、
桜井成広先生の著書『豊臣秀吉の居城〈大阪城編〉』によると、
この場所には戦前に山里に公園を造る前までは、高さ三尺の段差が残っていたそうです。
その場所からは実際に豊国廟の社殿や鳥居の跡などが発見されたようです。
この跡は埋め戻したのか、公園化で更地にしてしまったのかは分かりませんが。
戦前まで残っていたということは、この地形は破壊されずに、
秀頼時代から江戸時代まで、地表面に晒されて残っていたようです。
この三尺の段差が加番大名屋敷の屋敷平面に、干渉しないかどうかという問題はありますが・・・
http://balloonflower.hannnari.com/Photo/osakacastle-7.jpg
桔梗閣さん いつも情報ありがとうございます。
桜井先生そう書いておられましたか、うーん3尺か、まあまあ高い。豊国廟跡ということですね、どこまで徳川大坂城本丸北石垣が被さっていたのかというところでしょうか。周囲より1m近く高い場所が馬場ということになると、馬が落っこちて危険で問題ありです。しかしここぐらいしか、空き地がないのも苦しいところです。中小屋加番には中央に空き地があります。青屋口は少し苦しいが南端かな、雁木坂は北の端となりましょうか。大坂城古図面で馬場を描いたものがあればいいのですが、いろいろ眺めていますが見つからないです。ちなみにNHK大阪があるところは馬場町(ばんばちょう)といい大きな馬場があったのでしょう。