爽やかな季節となりました。企画展示「復活の大坂城史」というのを見るために大阪城天守閣にいってきました。西片菱櫓台のサイズを測る目的もあったところです。
いつもは、JR大阪城公園駅の方向から訪問するのですが、今回は大手門を通って行くことにしました。大手門桝形内の土塀などを測って、山里口出桝形の参考にしようと思ったところです。(大手門周辺図面などは持っているんですけどね)
大手桝形の右奥の雁木を登って土塀を見ていると、ボランティアガイドのおじさんが近づいて来られました。(私は引っ込み思案なほうで、あまり人との会話を楽しめないというウィークポイントを持ってて、私の方から話かけたりはいたしません。)
おじさん「ここの下に石が並んでいますけどなんのためかご存知ですか?」
わたくし「多聞櫓の礎石かなんかですかねえ」(それはいくらなんでも知ってるよ・・・)
おじさん「お詳しそうですね、その通りなんですが、ここにはお城の侍たちのための市(市場)が設けられていたのです。」
わたくし「ほおお・・・そうなんですか」(これは知らんかったぞ)
おじさん「侍たちは、諸国から単身赴任でやって来ていましたから、買い物するのに、商人が入ってきてここで必要なものを売っていました。」
わたくし「そうなんですか、城のどこまで商人は入れたんでしょうか、二の丸とかですか?」
おじさん「それは・・・」
わたくし「大番とか加番とか、旗本、大名自身も単身赴任だったのでしょうか?奥方とかは連れてこなかったんですかねえ?」
おじさん「城代ぐらいは連れてこれたんではないですかねえ」(矢継ぎ早に質問して、ちょっとイジワルだったか・・・)
最近、わたしは、山里加番の屋敷のことばかり考えておりまして、加番は小大名が任ぜられるのですが、微妙な大きさの屋敷が山里丸東側にあり、その他は狭い長屋(2戸1)になっています。どんな生活をしていたんでしょうか、いろいろと書物などで調べてはいますが分らないことが多いです。そんな疑問をおじさんに聞いてみようかなどと考えました。例えば、江戸の糞尿処理は近隣の農家が肥料にするために買い取っていたのですが、大坂城はどうだったんでしょうか、本丸御殿の便所とか誰が処理していたんでしょうかなどです。
聞こうかなと思いながら、私が笠石の銃眼幅を測り出したりしたので、おじさん少しずつ離れちゃったです。(糞尿処理のことを聞く奴はあんまりいないと思います。残念ながら、おじさんに何か察せられてしまったようです。)
測った結果を次の写真にメモがわりに記載しておくことととします。
大手門の桝形を離れて、大阪城天守閣の期待していた企画展示「復活の大坂城史」を見てきましたが、私の知らない史料などは無かったのでした。また、勝手に図録などが作られているのかと思いきや、常設展示なのでないとのことでした。早々に天守閣から出て、仕方なく西片菱櫓の櫓台を測りに行きました。南辺と東辺を測りました。南辺が13m14cm、東辺18m75cmとなりました。どきどきしながら先日作った櫓台と比べてみますと「おおお、一致する!」感動してしまいましたねえ、グーグルアースおそるべし。
大阪城天守閣の展示は、私にとってはいまいちだったのですが、もと大阪市立博物館のMIRAIZAの展示コーナーに石山本願寺から豊臣大坂城、徳川大坂城の年表パネル、徳川大坂城天守の巨大な「鬼瓦」が展示してありました。特段撮影禁止では無いので写真をのせておきます。
あと、これは宮内庁的には、いいのかなあ・・・宮内庁所蔵の幕末大坂城写真を加工してつなげてありました。
ひさしぶりに大坂歴史博物館にも立ち寄ってきたのですが、ここの情景模型は最高ですねえ、撮影は可能で次回以降に大阪城の伝説などとともにご紹介することとします。