徳川大坂城模型制作(山里曲輪の砂留)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。以前からですが、ブラウザがSSLで保護されていないサイト表示に注意書きを入れるようになってきました。「このサイトへの接続は保護されていません。」と表示されちゃうんですよねえ…無料ブログサービスなどの利用ではサーバー側が対応してくれますが、わたしのようなレンタルサーバーでブログを立てていると自分で変更しなければなりません。(いろいろ面倒そうで少しブルーになってしまっています。まあ、ぼちぼち用意してアナウンスします。見ていただいている方からのURLは変更する必要は無いようにしますので、ご迷惑はおかけしないつもりです。)

 制作のほうは本丸西側の雁木や櫓台を終了させ、山里曲輪の雁木にかかろうかとしていました。山里曲輪の東側は大阪文化研究所が2011年に行った発掘調査で排水施設が見つかっています。現地説明会資料
 砂留(集水桝)があって、ちょうどこの東面外側の石垣には本丸堀に排水用の石樋が見て取れます。図面を1/350に変換して正確に写し取って模型化しようとしている訳です。大阪城所蔵の絵図には、他の箇所にも「砂留」が描かれています。

 ただし、この図面からは本丸北面の石垣からの距離がわかりません。2間の土塀が掛けられていたのですが、まだ石垣面を作っていないので分らんのです。グーグルアースの上空写真などでいろいろ調べていましたら、「あれ?本丸糒櫓の向きって、こうだったっけ?うわわわ・・・」やっと気づいたのでした。

 松岡利郎先生もその著書「大坂城の歴史と構造」の中で、わざわざ「大坂御城御本丸並御殿絵図」の糒櫓は、「桁行と梁行の方位をまちがえて色紙を貼りつけているので、注意しておきたい」と書かれているのに、なんにも考えず同図面を使ってしまっているのです。まるで自分で落とし穴を掘ってそこに落ちるみたいなマヌケなことをしています。(はあー落ち込みますねえ、作業を急ぐとこんなことをしてしまうのですよ。私は・・・)修正するのに2時間程度かかりました。

 そんな訳で、まだ山里曲輪の雁木にかかっていません。こんなことがあったので、「大坂城の歴史と構造」をもう一度最初から読み返しました。
 見落としていたのが、以前の記事で触れた例の根拠を知らないとしていた「仏具山」でして、P165に由来が書かれています。「一同所北之方ニ大的参尺弐的場在り右を矢面山を佛具山と云昔元和の頃佛具を埋ミ候場所の地と伝ふ」(大坂錦城記)と引用がありました。元和6年(1620年)から徳川大坂城の普請(土木工事)が始っていますから、豊臣大坂城の焼けた残骸に仏具などが多くあって、このあたりに集めて埋めたのかも知れません。徳川期には、3尺(約90㎝)の的のある的場(弓の射的場)が2か所あったと読めるので、これも再現したいところです。広い空き地になっているのもこれで理由がわかるところです。

徳川大坂城模型制作(山里曲輪の砂留)” への2件のフィードバック

  1. こんばんは、あんけんです。
    たしか岡山大学所蔵の大坂城絵図も糒櫓が90度曲がってましたと思いますが、正方形で描かれたり、実物があったのにちょっと不思議ですね。

    砂留ではないと思うのですが寛政5年の図で糠櫓西続多門櫓の切れる辺りの北側にも四角い何か書かれてるのって何かなぁと考えてしまいます。

  2. ひゃー、あんけんさん、コメントありがとうございました。またまた遅い返事でごめんなさい。大阪城天守閣蔵の寛政5年の大坂城絵図には、おっしゃる位置に砂溜が描かれています。ちょうど昭和の追加階段の下に隠れる位置と思います。また山里丸西側にもありまして、反対の堀側の石垣には石樋もありますので、まちがいないでしょう。

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