徳川大坂城模型作りの続きです。本丸北側の櫓台、石塁づくりを行っています。またまた地味な写真となりますので、極楽橋について触れておきます。最初の写真は、先月大坂城に訪問したときの写真で、極楽橋から北側二の丸方向を撮ったものです。内堀側の石垣下部に橋の幅ぐらいになる穴が二つありまして、もしここに橋げたの支持材が入っていたなら、橋はもう少し西側に繋がっていたのではないかと考えるところです。
次の写真は、古いもので申し訳ないですが、擬宝珠の数がぜんぜん足りませんが拙作駿府城の橋でして、作品数が少ないので旧作でも紹介しておかないと、ブログがもたないわけです。
強度をかせぐためであるとは思いますが、古い日本の橋の多くがアーチ状になっており、これも少しだけ太鼓状に膨らませたつもりですが、いまいちのところでして、徳川大坂城の極楽橋をつくる際にはもう少し膨らんだ形状にするつもりではあります。橋を架ける土木技術体系が当時の一部の技術者に保持されていたのだと思います。現在はどうなっているのでしょうか、宮大工の方が継承されているのかも知れません。
さて、徳川大坂城模型の方ですが、以下の写真のとおりでして、本丸北側の雁木を作ろうとしています。
写真上部にある発掘資料に基づく雁木を11段にしたので、斜面になっている地面をあわせにくいところでして、手前から11段、中ほどで10段、奥で9段にするつもりです。
北ノ手櫓台と糒櫓台の間の石塁、雁木があるところです。豊臣大坂城時代には天守があった場所で徳川大坂城においてもその部分の石垣をなぞるように北側に突き出しています。ここは太平洋戦争時、米軍のB29の直撃弾を受けて一部石垣が崩れた場所でもあります。惜しいのは戦後修復されてはいるのですが、当時は豊臣大坂城天守台跡が埋もれていることは知られておらず、調査もされていないようです。修復工事の記録写真などあれば、豊臣大坂城の天守石垣の一部ぐらい写っているかも知れません。(公表されている写真については目を皿のようにして探しましたが、私には見つけられなかったです。)
手前仏具山から見た写真になりますが、右側の雁木の地面が少し高くなっているように作っています。天守北側の雁木は11段であるもののこの周辺については明治の図面では仏具山の続きになっているように見えるためです。正確な高さを示した図面もないので、ここは推測での高さとなります。ちなみにここの雁木の段数は8段から5段とみています。今回はここまでです。