徳川大坂城模型制作記事の続きです。前回に続き山里出桝形周辺にかかっています。
まずは、国会図書館蔵「大坂御城絵図」の該当部分から見てください。山里出桝形は、グーグルアースの上空写真や現行の国土地理院地図からもほぼ台形ですが、江戸時代の御城絵図では直角の長方形となっています。「ここは直角なのだ」というお約束でもあったかのように、年代を経た後の図面もこれを踏襲していくので、図面を1/350にしたときにいろいろと長さの矛盾がでてきます。
また、古図では矩形に描かれていても、東菱櫓、西片菱櫓、数寄屋前櫓の三櫓以外にも櫓台が長方形でなく、ひょっとして片菱の櫓ではないのかと疑ってしまう櫓もあります。(櫓制作のときに考察してみることにします。)
まずは、山里出桝形へ登る雁木です。これも・・・自分で測ってきた奥行となぜかズレなども発生して苦労しました。結局グーグルアース上空写真に合わせてみたところです。左の地上面に黒い線が引いてありますが、この線が私の測った線でして、困ったものです。高さは約10.7mmってとこです。
次の雁木は、出桝形内部に埋まっているもので、実物の高さは1.4mです。1/350にするためには、0.5㎜プラ板、0.1㎜プラペーパーの組み合わせで調整しました。
次のものは姫門入口の雁木10段と左に本丸へ登る雁木14段となっており、これも高さの調整は難しいものとなりました。ここの雁木は、本丸土台高に関連するため段数は合っているものの、それぞれの高さが正しいのかどうか自信がありません。
前回あんけんさんのコメントでご指摘いただいた隠し曲輪の門の雁木についてですが、まずは現地写真ですが、隠し曲輪から撮影したものです。雁木が現状二段残っていて、上の雁木には両側に柱を差し込んだほぞ穴が残っています。
隠し曲輪の地面から見て、手前にもう1段雁木があったのではと解釈しているところです。
横から撮影したのが次の写真でして、石塁上部の鉄砲狭間の石からやや内側に門柱があったことが確認できます。従って石塁の土塀と同一平面の埋門ではなく、独立した門であったと解釈しております。
こんばんは、あんけんです。
詳細の画像付きで解説ありがとうございます。自分は左右の石の埋まり具合からもう数段埋もれてるのかとも考えてましたが、そこにほぞ穴があるとは全く気付いてませんでした。御城絵図でもちょこっとはみ出てるのも理由ではあったのですが、これを見てスッキリしました。
と同時に四人の男女は何に注目してるのかが気になってしまいました。
大阪城天守閣に展示してある大きな1/350徳川期大坂城模型では、この門は、北側から続く石塁の土塀屋根が直線で被さっていて、埋門と解釈再現されています。私は、当時の土塀が石塁端で少し内側に曲がって、この門の屋根に接続するのかなと考えます。より正確に解釈再現することが、今回の大坂城模型制作の目標ですので、こっちの解釈が正しいといったこんなことがないと、私のモチベーションが維持できないところです。(博物館展示物である正確な城郭模型をわざわざ模型化した「劣化した模型」に意味はないと思っています。)
あと、この4人の男女ですが、この日は大阪城で謎解き的なイベント(私は無視してましたが)が行われていて、あちらこちらのグループが石垣に見入っていました。(刻印探しゲームかも知れません。)
最近の大阪城は、すごい来場数で外国人観光客が多くて、いつもざわざわしてますねえ、ほんの数年前はこんなのではなかったです。