今年も押し迫ってきました。大掃除やら年賀状作成やら取り込んできて、ゆっくりと徳川大坂城模型にかかる時間が取れていません。本丸地表面の高さ関係でまだ混乱しているところです。(「いいかげん決めてしまえよ」とのお叱りをいただきそうではあります。)
自分の問題点の整理のために、またまた図面で紹介しておきます。
まず、石垣を積んであるところは基本的に標高は変化なしとしておきます。徳川大坂城の標高(天守台、貯水池を除き)の最高点は、①32.9mとなっています。この高さに三重櫓、多聞櫓などが建っています。もちろん段が下がって建てられているものもあります。
さらに、月見櫓の段は、その32.9mから1.8m低い段に建てられていて②31.1m。そして、そこから雁木が24㎝が5段で1.2m下に現行の地表があり③29.9m。この地表からさらに約48㎝下に、今に残る金蔵の地表面④があり、周辺の徳川期の地表面は29.42mとなります。
天守北側の⑤の雁木は、現行9段ですが、発掘調査により11段と分っており、1段が24㎝から27㎝程度ですから、ここは①の32.9mから差し引いて約30mの標高となります。ただし、11段の初段は、かなり高いので、少し幅があるかもしれません。天守西側については、現行8段の雁木ですが、⑤と同程度に埋まっていて10段(24㎝×10=2.4m)と解釈すれば、地表面は30.5mかと・・・
ここらで妥協しようとしましたが、「ああ、そうだ念の為、大坂諸絵図に天守の石垣高の記述があったから確認しておこう」と読んでみますと、東方高七間壱尺弐寸(約14.15m)西方高八間五寸(約15.9m)北方高七間弐尺五寸(約14.54m)とあるではありませんか。(げええ!西面と北面との差が大きすぎる!)
つまり、天守台の天端は同一の高さなので、各面の石垣高で石垣下の地表面の高さの差が分るものとなっているのです。それが1.36mも違う、それも西側の地表面が北よりも低いと記されているのです。これをどう解釈すればいいのか頭をかかえてしまっています。ふー、紅白でも見ながら考えてみることにいたしましょう。
今年も本ブログにお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。ごらんいただいた皆さまが良い年を迎えられるようお祈り申しあげます。