徳川大坂城模型制作(ぐるぐると考証ばかり2)

 先週の記事をとばしてしまいました。すみませんでした。徳川大坂城模型作成記事の続きですが、思い込みというか、予断というのはだめだなあと反省していたところでして、制作中の大坂城模型については、本丸部分を作って、あとで内堀水面をつくって、そこにのせるつもりでいました。問題は内堀水面標高で、国土地理院地図では、最低が6m最高が10mと大きな差がでているところです。(これはしかたないことらしいですが)単純に中をとって8mで模型を作り出したのが、私のマヌケなところでして、糒櫓台標高32.9mであれば、石垣高が24mとして、水面高9mじゃやないかと、いまごろ気づいたのでした。そのため、今の土台を1m分水面に沈めなければならなくなったところです。(ふー、樹脂水面って、表面張力で石垣に接しているところが盛り上がるんですよ。これが許せなくて、上にのせるつもりだったのに・・・不要だった工夫が必要になりました。)

 前回、ぐるぐるになった本丸、山里丸、仏具山、各面の石塁の高さ、現金蔵地表面高との差など、整理する必要があったので「大阪実測図」に雁木の段数などを記入した図を作りました。あわせて、「大坂御城絵図」の一部(小天守台は薄茶色、その他は茶色、長屋建物の天守台接続部分は私の書き足し)も重ねてみました。ピッタリ合いませんねえ、図中天守台左下の御成門之内櫓と小天守台及び新金蔵と長屋建物を合わせると、天守台右下の元金蔵(茶色)と月見櫓がズレます。建物規模などは精緻に描かれていても江戸時代の図面なので、建物間の距離や石垣面の角度は正確には取れていないためだと思います。

 高さのほうについては、国土地理院地図で標高を調べ、天守台を除き、本丸の最高点になる本丸北面の櫓台を黄土色で着色しています。本丸東の糒櫓から北ノ手櫓、姫門、埋御門向櫓、御成門之内櫓までが標高32.9mで同じ高さとしています。薄い黄土色の糒櫓の南側、仏具山と多聞櫓、月見櫓台の高さは、糒櫓との石垣高差が1.8m(自分で測ったのも、松岡利郎先生の図面も同じ)低くなっているので31.1mとなりますが、この高さは天守台西側の現在の地表面の高さとほぼ変わりません。以前に記していましたが、私は本丸西側平面より東側平面の方が1mぐらい高いのではないかと先入観を持っていたので、ここでとても混乱した訳です。

 天守台西側地表面を約31mとしていたので、これが東側平面と同じだと仏具山に高さが無しになるためです。先入観を捨て無ければなりません。どうやら天守台周辺が少し高くて、東側の平面は全体的に低いのであろうと。あと、諸絵図の右下の階段は東に向かって降りていくものと解釈できます。2段あるので50㎝ほど下がるのでしょう。

 図中の青い線は、「大坂諸絵図廿九御天守台図」に記載のある「溝」でして、「大坂御城絵図」にもこの線はあり、一致するので天守の雨水の排水路なのでしょう。国立公文書館か東京都立図書館のどちらの所蔵資料か忘れましたが、江戸城の排水路を入れた図面を見たことがあり、大坂城でも集水桝や石垣に突き出た石樋が複数あるようなので都市計画のように考えられた排水路配置があったものと考えられます。

 結論的に言えば、現在の地表面は、江戸時代に比して平均40㎝から1m程度高くなっていて、石垣高は変わらないので、地表面のみ現在の標高から低くしなければならないということです。これを確定させるのに悩んで作業ストップしているところです。 

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