徳川大坂城模型作成記事の続きです。土台について拡大することにしたので、さっそく現地を調べに行きました。山里口門の各石段の高さ、奥行などです。山里丸地上面からマイナスしていき、桝形内の高さを算出する算段です。また東菱櫓や糒櫓、月見櫓の土台の現状を確かめる目的もあります。配水池の北側、東側は、木々が鬱蒼として観光客も立ち入らない場所になっています。(静かでいいんですけどね)
以前金明水井戸の古写真をヤフオクで落札したのですが、山里丸の古写真を探していると大阪城再興時の公園整備されたものを見つけ、落札したので、それからご覧いただきましょう。たいていは、天守閣と紀州御殿が中心の観光写真ですが、たまに史料とも言えるものが出るので、けっこうチェックしているのです。写真は、天守閣高覧から山里丸北東方向を見下ろしたものになっております。右下に配水池が写り、本丸北側の雁木が鮮明に確認できます。右端には、現在は閉鎖されている山里丸への階段口があります。(この門は昭和期に通路確保のため作られたもので本丸北面石垣に穴を開けるというとんでもないことをしています。)
東菱櫓跡はといえば、白い折れ曲がった屋根の東屋が建っているようです。土台は・・・樹木でよくわかりません。現在の写真を見てみますと、通路にあわせてへこんでいます。私が模型のために作成している平面図では、この写真の通路のまんなかあたりまで、石垣が鈍角に突き出ていなければならないところです。写真石垣の右側と左側では積み方が異なるようで、左側は公園整備時の積み直しだと思われます。(模型では、この土台石垣パターンを飛び出した形で使うこととします。)
西片菱櫓跡ですが、古写真では藤棚のある休憩場所にしてあるようです。現在は、豊臣落城の際、秀頼、淀君に殉死した人たちを弔う仏像が祀ってあります。(ちなみにこの仏像は、仏像自身が必死に祈っているお姿をされていて、非常に印象深いです。)土台などは、あまり変化はないようです。雁木は写真よりも1段分埋もれているぐらいです。
本丸北側から糒櫓跡へ向かう通路の写真が次のものです。画像を少し明るくしていますが、暗い雰囲気の漂う場所になっています。山里丸への通路口が残っていますが、手前左側の雁木は旧状を保っていません。太平洋戦争時に米軍の直撃弾にあって破壊されたためです。
さらに東へ進んでいくと、糒櫓跡に到達します。こちらも、お祀りしてあるのですが、疲れた私は、石垣幅などの計測のみで確認しておりません。「長辺が約16m40㎝、短辺約14m80㎝!ふー、8間×7間の建物サイズに合ってる、合ってる」って感じです。(手は合わせてますが、お稲荷さんかな、ばちあたりです。)
ここからは、本丸東側の高石垣に沿って、月見櫓の方向へ行きました。台風の影響で配水池の木が倒れており、進入禁止部分もあったところですが、とにかく測りに行きました。
しかし、櫓があったことを思い起こさせるものが何もないのです。写真でもおわかりになるかと思いますが、多聞櫓が続いていたはずですが、雁木もなく、まったくの平面で、写真奥、柵のつきあたりが、月見櫓跡となります。
やれやれ、もともと高かった地面高に明治の配水池工事の土を盛って、石塁と同じ高さに合わせたのでしょう。模型のこのあたりは、古図面での推測で作るしかないようです。一応、例の金蔵の近くに来ていたので、金蔵の地面高から、月見櫓の地面高までの高さは、測っておきました。それでも約160㎝も差があるんですよ。
帰りに大阪城の特別展「幕末大坂城と徳川将軍」を見てきました。図録も購入しましたが、見たことがない写真など、私にとって狂喜乱舞の内容でした。内容は転載できませんが、感想は次回にするとして、今回はここまでです。
この図面、http://balloonflower.hannnari.com/Photo/osakacastle-6.JPG
は、『 大阪城 (1983年) (岩波グラフィックス〈18〉) 』に掲載されている 大坂城普請丁馬割図ですが、
リハビリモデラーさんが撮影した写真と同じでL字型の多門櫓のような感じで描かれています。
戦国時代初期とかなら突貫工事で櫓平面と基壇平面を、違う平面で造る事もあったでしょうが、
これは謎ですね…
桔梗閣さん、コメントありがとうございます。これは貴重な情報をいただきました。図面を見させていただきますと、こりゃ、東菱櫓の現状の土台は、形状自体は当時と変わっていないようにみえますね。ひえー、こんな図面があったんですね。国会図書館蔵の2つの図面でも菱型の内側鈍角は、多聞櫓幅よりも内側に入りこんでいる訳で、まさか掛け造りでもあるまいし、当初、菱櫓を作るつもりがなかったんでしょうか。現状がこれになっているというのが、なによりも驚きです。ありがとうございました。