大阪城学芸員の方を訪ねる

 前回書いたように、大阪城の学芸員の方にお伺いしようということで、先日行ってきました。もちろん電話でお願いしてアポイントメントをとって行ったのです。(6/25の記事で紹介した大坂城址写真帖の金明水井戸のはがき1枚を寄贈する要件もあったので、すんなり会っていただけたのかも知れません。)

 大阪城は快晴の午後です。入館証をいただいて、天守隠し部屋みたいな学芸員室でどこなのか迷いましたね。部屋に入れていただくと、応対用の机とその背後には、向かい合わせの学芸員だけの席、各机の上には書類が積み重なっており、入って右側には書庫、とにかく史料やらでいっぱいのようでした。城郭模型を作ってる旨の自己紹介して席について要件に入りました。

 最も聞きたかった、小天守台の地面については、「あれは、市電の敷石を敷き詰めたものだと伝え聞いています。地面は土で正しいでしょう」(市電とは、いまはなき大阪市営のチンチン電車)とのことでした。本当は、金明水井戸周りにある古い石畳も引き合いに出した上で聞けばよかったのですが、なにせ、主任学芸員の跡部信先生にご対応いただいたので、私は見た目と違って小心者でして、しつこく聞くことができませんでした。(著名な専門家の方に嫌われたくないじゃないですか)

 次に伺ったのは、旧ブログで紹介した小天守台西面の多聞櫓への接続口でして、ここの石垣は縦の入口状のところを後に下半分程度を石垣を積んで埋めてあるのではないのか、小天守台の段に上るための雁木があったんではないでしょうかと聞くと「うーん、それは違うと思います」とのお答えでした。名古屋城天守台の埋められた入口、早稲田大学図書館蔵の大坂城天守台図面を引き合いにして、ここは食い下がってしまいましたねえ・・・大人げない話ではあります・・・学芸員の方々も、たまにこういった「大阪城を研究しているとか言ううるさいおっさん」を相手にされているのかも知れないなあと思い至って、すぐに気が萎えてしまいました。

 お城のドンと呼ばれる大砲は、現在の車いす用エレベータが設置されているこの小天守台西出入口に置かれていたので、そのころの写真を見せていただきましたが、地面の石の置き方は確認できるものではありませんでした。(おそらく史料はないでしょう、なにせここに多聞が接続しているだろうと確認できるのは、古い本丸図面が数点あるだけで、明瞭なものでもないですから)まあ、ひとり色々調べていると、誰かに聞いて欲しくなるという欲求が私の中に起っただけのことです。

 ただし、こんな機会はめったにないので、もうひとつ聞いておこうと山里丸から山里出桝形へ上がる雁木について伺いました。例のピラミッドみたいになっている珍しい形状の石段で、写真にあるように、整形された雁木で積んだ段とたぶん栗石と同じ小石を並べて三和土仕上げで積んだ段が交互に積み重なっているのです。他のお城で見かけない仕様で、駆け上がりにくくする意図なのか、それとも当初は整形された雁木のみで1段が高い石段だったのを、例えば陸軍がいた昭和の時代なりに、のぼり易くするために追加したのか知りたかったのです。(もちろん徳川天守存在時の模型でここを再現するのに必要な情報ですから)これも不明とのことでした。今後なにか史料でもあれば、メールでご連絡いただきたいとお願いして帰りました。

 先生は、豊臣大坂城の御専門の方ではあるので、徳川大坂城の細かい仕様など私のようなトリビア的な質問は失礼にあたったのかも知れません。ともかく、徳川大坂城模型の小天守台地面の仕様を確定させるのに貴重なお時間をいただけたということで、跡部先生にはご迷惑をおかけしたところです。もしこのブログをみていただいているのであれば、ご容赦くださるようお願いします。

 せっかくなので、跡部先生の本を紹介させていただきます。吉川弘文館「豊臣秀吉と大坂城」(ISBN978-4-642-06784-3)です。1秀吉の履歴書では秀吉の神仏観などにも触れら、近年見直しがされつつある豊臣秀吉の個性が浮かび上がってくるように描かれています。前段で触れられていますが、戦後歴史学の主流だった観点については、その正論がまちがいないのと同程度に「いつでも個人が歴史に作用する窓が開かれているという命題は真実」と述べられており、こういった歴史へのアプローチは、私は大賛成してしまいます。

 (ちなみにもう長い間会っていませんが、私の友人には某国立大学の近現代を専門にする教授がいて、このメインストリームの人でして私とは話は合わなかったです。私はお城関係しか歴史書籍は読まないので分りませんが、まだまだ歴史学の雰囲気はこんな感じなのかと慮ることができてしまいました。)

 Ⅱ豊臣大坂城の光芒では、文禄・慶長の役での明皇帝からの冊封文への対応や、酷評されてきた大野治長など今まで信じていた事柄の見方が変わると思います。Ⅲ秀吉の大坂城をあるくでは、豊臣大坂城の三重構造か四重構造かの混乱について、詰の丸を本丸とカウントした当時からの思い違いであると指摘されています。また、豊臣大坂城が描かれた各種屏風の解説がとても興味をそそるものとなっており、さすが学芸員の方だと思いました。全体として重々しい歴史書籍ではなく、歴史への深い考察が含まれつつ豊臣秀吉と大坂城の入門書ともなる軽い筆致で書かれたお勧めの本です。

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