徳川大坂城模型制作記事の続きです。前々回小天守台入口周辺の考察を行ったところです。大坂城の古図ではほとんどが小天守台南辺から東に延びる形で、塀が掛けられているように描かれています。小天守台の東側に四角い段があったのではないかとも見えるところです。次の写真は、前回と同様記念誌からの引用ですが、以前から参考にしている「大阪城址写真帳」の天守台写真です。明治28(1895)年に竣工した大阪最古の配水池の階段が右端に写っていて、天守台ふもとには雑草が茂っています。昭和6(1931)年11月7日に復興天守閣が竣工しているので、その間の写真となります。しかし、この写真からは私が求めている徳川大坂城天守が建設された当時を推測できるものはないです。
おそらく、明治の配水池建設時の大量の土が天守台東面にならされていて、江戸時代の地表面に被さっているのでしょう。天守台登口の石垣がほぼ垂直に立っていて、石樋が確認できると思います。その下には石造りの砂溜もあったはずですが、この写真からは確認できません。配水池の階段の手前に石段のようなものがあるようで、石樋の右下から繋がっているようにも見えます。
次の図は大阪市立中央図書館蔵の旧陸軍の行幸記念誌から見つけた復興天守閣を昭和天皇が行幸されたときの順路図です。天守台周囲の概略図が入っています。配水池をまくように小天守台登口から右に2段石段があり、北へ行くと4段ほどの石段があります。しかしまあ、昭和天皇がお城を好まれたという話は伝わっていますが、御見学順路がここまで決められていたとは、御不自由なことであったと推察するところではあります。
話を天守台作成のほうに戻します。天守台の岩岐も作りましたので、次の問題は天端石の銃眼でして、岡山城などにも一部据えられていますが、徳川大坂城ではほぼ全面的に施されています。この上に土塀が掛けられ、櫓も外側の壁をこの上に設けています。図面で大手門に施されているものは高さ84センチになっていますが、私が天守台で測ったものは70センチ強でした。今回のお城プラモは、フルスクラッチにするつもりでしたが、これは正確には彫れないです。そんな訳で、せんどくさした童友社大坂城パーツを切り取って流用することにしました。銃眼内側の微妙なラインは再現されていませんが、ヤスリで整えるつもりです。銃眼ごとの距離も違うので、間にプラ棒をはさんで、原型を作り、あまり好きではないレジンキャスト複製となる予定です。