徳川大坂城模型制作(敷石の史料の不存在)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。小天守台については、現行天守閣が再興される前の数少ない古写真で、金明水の段を除き、やはり敷石らしきものは確認できませんでした。先日行った大阪市立中央図書館でも、大阪城の天守閣復興記念誌など建設前の小天守台を撮影した写真はないか、いろいろ探してみたんですよ。しかし、もう、決めなければ作業が進められないのです。

 次の写真は、天守復興記念誌に掲載されていた「古写真 豊公館(写真パネル)」の引用です。大正14年(1925)に開催された大大阪記念博覧会で特設会場として大坂城天守台に建てられたものです。日に1万人を超える入場者が来るほどの大好評で、後に現行天守閣再興のきっかけにもなった建物です。この写真の時点では天守入口付近の地面には敷石はないようです。(他の写真のすずなりの入場客の足元の地面で確認しました。)

 大坂城小天守台の各段の地表面が敷石で覆われたのは現行天守閣が復興された時であって、それ以前にはなかったと結論づけようと思っています。根拠として最大のものは、早稲田大学所蔵「大坂城本丸之図」で、この図は、天守が焼けた後、石垣に対する被害状況を精査したものと考えられ、「地表焼ケル」と読めるところがあるのですが、積んだ石垣や岩岐などの横に記載されており、天守入口地面について、そういった記述はありません。もし、地表面が敷石に覆われているのであれば、焼けていたであろうし、「〇〇尺、敷キ石焼ケル」とかなんらかの記述があるはずだと思うのです。

 また、故大類伸氏撮影の大天守台南面写真(大阪城天守閣発行「描かれた大坂城・写された大阪城」p92)の右下端に、現状は敷石が張ってある天守登口の踊場が写っていますが、この写真では露出した土で草も生えています。

 ちなみに、現在敷石張になっていませんが、姫門下の曲輪は、天守閣再興後、昭和42年ごろの写真には敷石が施してあったことが確認(大阪城天守閣発行「大阪城はこの姿」p29)できます。戦前、旧帝国陸軍第四師団に気を使いながら天守閣を復興するためには、いろいろと通路など整備もし、陸軍関係施設整備にも費用を使ったのだろうと思います。

 大坂城建設当時、いろんな神社、寺院など通路や門前には、通路も含めて敷石が施されてはいますが、大坂城関連史料で確認できないのでここには、無かったと結論づけるしかないようです。(どなたか、敷石があったと分る史料をご存じの方がおられれば、ご教示いただければ感謝いたします。)

徳川大坂城模型制作(敷石の史料の不存在)” への2件のフィードバック

  1. 大坂城小天守入口前の長方形の敷石が当時からの物かは判断に迷いますが、
    井戸館のスペースにある正方形の敷石は名古屋城子天守入口前にもありますね。
    http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/20_etsuran/cat08/B1020100.html

    故大類伸氏撮影の大天守台南面写真は敷石は無いように見えますが、
    右から5番目と6番目の石垣の根元付近に、なんとなく敷石の継ぎ目の影が、
    うっすらと見えるような、見えないような・・・

    天守現存時には長方形の小さい敷石は無く、天守消失後に、
    天守台に土塀を復興するときに、何か改変されたのだとしたら、
    長方形の小さい敷石の記録は無かったので記録されなかったような気もします。

    1. 桔梗閣さん コメントありがとうございます。
       名古屋城の図面の御教示ありがとうございます。大坂城は、徳川にとって西の守りとなる重要拠点のお城ですから、敷石ぐらいあってあたりまえのところなんで迷うところです。大阪城3階に展示してある例の徳川大坂城模型の小天守台にも一面に現状と同様の敷石が張ってありますが、それが目地が目立たないように作っていて、制作者に迷いがあったのではないかと思うところです。別に新説を立てるとか、奇をてらうつもりはないのですが、天守閣復興前のもので確認ができない・・・それに尽きるのです。

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