駿府城復元記(小天守台には多聞櫓が建っていた)

    駿府城復元記の続きです。早いもので、今年もあと2カ月余りとなったところです。旧ブログはあと3か月となり、旧ブログへの記事にもここへきてもらうようリンクも数箇所張ってみましたが、なかなかここの閲覧数は延びないようです。少し急いで旧記事のまとめをしなければ、旧ブログが閉鎖するまでに過去記事のポイントがまとめられなくなってしまいます。(ちょっとあせっています。)
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    そんなところで、今回は駿府城模型の「小天守台」(しつこいようですが、ここには小天守は無かったと思っているので、仮にそう呼んでおきます。)の櫓の組み上げと、土塀制作の紹介をしておきます。1枚目の写真は、土塀に控柱をつけているところです。童友社のお城プラモでは省略されてはおりますが、風などに耐えれるよう大抵の土塀にはつっかえ棒の役割となる控柱が取り付けてあります。これを再現しておくとお城プラモ的にはディティールアップでより精密感があがるというものです。土塀の屋根パーツは童友社デラックス名古屋城のものでして、軒下から棟までが高すぎ、角度も急すぎるため、精度はあまりよくありません。軒先の下半分を漆喰色で塗装していますが、土塀の軒も漆喰で塗られている仕様としたためです。ただし垂木は再現していません。また塀の部分は0.5ミリプラ板で、矢狭間、鉄砲狭間を開けて表側は漆喰ぬりこめ、裏側は下見板張りとしています。
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     次の写真は「小天守台」に土塀を取り付けたところです。天守丸への石段の下には埋門を付けています。漆喰部分を作ってしまいましたが、ここは鉄板を張ったものだったでしょうね。
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     次の写真は、「小天守台」の多聞櫓の壁を組み上げたものです。左側の多門櫓は掛け造りとしています。(根拠は薄く、前々回に紹介した大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」での天守丸多聞櫓の幅と整合をとると掛け造りにするしかなかったのです。)また、右にみえる天守丸への石段の下の門は、埋門としたので、その上は土塀とならず、防御のための細い多聞櫓であろうとしました。(これは想像となります。考証が大事などとエラソーに書いておりますが、どうしても想像や他の城の事例で補うしかないところもあるのです。)それぞれの多聞櫓には通路に向かって出格子(壁に付いているこげ茶と細い瓦部分)が設けてある想定です。
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     それぞれの多聞櫓に屋根をとりつけて、小天守台の完成となります。土塀のある石塁に行くために櫓に小さな出入口も設けました。(まあ、辻褄あわせですな。)
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     高麗門もこの模型では多用しておりまして、名古屋城に残る土塀より屋根が低い仕様の高麗門よりも、時代的には後の仕様のものとなっていますが、そこはご勘弁をいただきます。今回はここまでです。%e9%a7%bf%e5%ba%9c%e5%9f%8e%e5%a4%a9%e5%ae%88%e5%8d%97%e6%9d%b1%e3%82%88%e3%82%8a

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