駿府城復元記(天守丸櫓作成) 2016年10月15日2017年7月23日 投稿者: リハビリモデラー 引き続き駿府城復元記ということで、天守丸多門櫓についてですが、前回紹介した大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」の黒塗り部分をどう読み取ったかを説明させていただきます。(説明のために少し画像を加工いたします。) 黒い部分は、住居などの御殿でない建物を示していると考えられます。それがなにであるかは太さで解釈するしかないところです。まず中央の天守と四方に位置する北東、北西櫓などは疑義はないところです。(それぞれ棟の向きはのちに触れます。)北面の橋につながる門の両横の黒い部分は、名古屋城の本丸不明門の仕様に準じて土塀であると解釈できます。そしてこの太線を土塀とすると「小天守台」(説明の都合上そう呼んでおきます。)にある鍵の字に曲がったところなど土塀であると解釈できます。(「小天守台」西面に太線が描かれず、ここは?です。土塀だと解釈しました。) ちなみに、北側の橋に接続する門は、太線が描かれずオープンなので埋門ではなく、高麗門と解釈、そしてその右に続くのは多聞櫓と考えられます。⑤には本丸平面から石段が接続しているので、これも多聞櫓と解釈しました。この太さを多聞櫓とすれば、①②③④も多聞櫓であると解釈したものです。 そして⑥ですが、これは多くの復元図などには描かれていません。蔵の可能性もありますが、城門の近くにあることから、天守周辺の門を警備する番所であろうと解釈しました。もし番所が描かれているのなら、ある意味この絵図の信憑性が高いと考えられます。 次の絵図は、日光東照宮縁起絵巻(家康公の伝記絵巻)の一部で、下見板張り、真壁づくりの天守が描かれております。絵巻に駿府城天守であると記されていませんが、他の文書記録における天守各階の間数や、神君家康公を顕彰する絵巻ですから、当然家康公が好んだ終焉の城である駿府城天守であることは、常識的な解釈と考えるところです。 問題は、どの方向から描いたものなのかということになります。これが南側からの絵図となると天守の棟が東西になりますが、北東側から見たものと解釈しています。理由として、天守屋根は上から四重目まで描かれていますが、その四重目屋根に手前に向かって接続している屋根があります。細いので土塀にも見えますが、よく見ると四角い窓があり、櫓であって、左手前の2重の櫓から天守に接続していると解釈できます。(前図「駿州府中御城図」の南東櫓から天守へ接続している部分) この絵が北東からのものであるとすれば、ここに描かれている3つの櫓の棟の向きが分ります。北東櫓は東西棟、南東櫓は南北棟、南西櫓は東西棟となります。しかし、北西櫓は描かれていませんので不明です。(私は「駿州府中御城図」の長さから、むりやり東西棟と解釈しています。)この絵がどれほどの写実性をもっているのかは議論の余地はありますが、現状で与えられた史料に誠実に従うべきだと考えています。 これら史料の解釈を済ませ、いよいよ天守丸櫓の制作にとりかかりました。ただし、これら櫓の図面があるわけでもなく、多聞櫓の幅などは、前回紹介した故内藤昌先生の図面を参考にしています。(大天守台喰い違い虎口天守側の石塁に多聞櫓を乗せているのは独自解釈です。)壁面はタミヤの0.5ミリプラ板で作成し、屋根は自作ではなく、童友社の姫路城、江戸城、名古屋城などのパーツの流用をしています。屋根パーツは櫓に合わせてカット、拡大してつなぎ直したりしています。それでもぜんぜん足りなくなってしまうので、最後は櫓に合わせて作った屋根パーツをレジンキャストで、複製して全体の屋根を作り上げております。 四方の櫓は、内藤先生の図面では2階(実は3階)逓減しておりませんが、当時の櫓も、ひとつひとつが異なる形状で作られていたことから、入母屋破風にしたり、唐破風をつけたりしています。(この部分は全く史料なしの私の想像部分です。) 全部そろえるのにかなりの時間がかかっています。写真をみると流用した屋根部分はほとんどなく、大部分は白いレジンキャストのものですね。 屋根の軒があまり突き出さない雰囲気は、江戸城古写真でみることができる巨大な三重櫓を意識しています。徳川のお城の櫓って迫力のある立派なものですからね。今回はここまでとさせていただきます。 おまけに、日光東照宮縁起絵巻天守像と同じ角度からみた私の駿府城模型の写真をのせておきます、上の天守像と見比べていただければと思います。