駿府城復元記(天守の姿を確定させるのは難しい)

     駿府城復元記の続きです。今回はいよいよ天守作成について書いてみます。私のお城プラモ作成は、壁面などはプラ板から作っていますが、屋根については市販お城プラモデルキットの部品を加工しています。目標とさせていただいている城王(JoO)の部屋の城王(http://members2.jcom.home.ne.jp/taka5/)さんや旧ブログではいろいろアドバイスをいただいた桔梗閣(http://balloonflower.hannnari.com/index.htm)さんは、屋根自体も丸瓦から自作されていて、いつか自分もと思ってはおりますが、駿府城作成の段階では、まだその境地に至っていなかったところです。

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  一体どんな天守であったのか、旧ブログでも一応の考察をいたしましたので、その再録となります。駿府城天守について記述されている史料は、当代記、慶長見聞録、慶長日記、増補慶長日記、武徳編年集成などがあるらしいのですが、少しづつ内容が異なっています。当代記と慶長日記をイラストにしてみますと以上のとおりです。それぞれの記述は各層の間数などはほぼ一致しており、七重の天守であることは一致しています。ただ、屋根の形状では破風の記載はあるもの、例えば比翼千鳥破風などとの細かい記載はありません。

  3つ目の天守イラストは、文書ではなく日光東照宮縁起絵巻の天守でして、七重目屋根には大きな唐破風があり、五重目に欄干が描かれています。絵巻では下から一重目から四重目までは描かれていませんが、遠望したときの外見的特徴(下見板張り、真壁造り)を捉えているものと考えています。

  他の駿府城の絵図、天守焼失後にもかかわらず東海道図屏風など描かれているものはあります。これも下見板張りらしく描かれており、最上階平側は柱4本で3間、妻側は2間となっていますが、いずれも正確に描いてはいないでしょう。また、天守六重目には向唐破風が妻側、平側の両方にあります。そして、三重の小天守も描かれており同じく下見板張りで、真壁造りであることも確認できるもので、天守と距離が少しあるように描かれています。画像は禁転載とあるので東海道図屏風リンクでごらんください。

  ここの解説にもあるように、現実に建っていた駿府城天守を描いたのではなく、なんらかの史料や口伝などから再現したのでしょうから、江戸時代においても駿府城天守は憧憬を抱かせる「御天守」だったと言えます。まずは外見が下見板張り、真壁造りであることの論拠にはなりそうですが、当時どんな根拠をもってこの絵を描いたのでしょうか・・・知りたいです。この絵の他の駿府城の絵は、ひょっとするとこの東海道図屏風を見て、真似て描いたか、それとも絵師たちのいわゆるお約束である粉本(ふんぽん:画家の技術を一定に保つため作られた摸写用の本)に従った天守像が描かれたと考えています。(一度粉本のお城の絵を見てみたいものです・・・)

  ところで、第一期駿府城の築城風景を描いたとされる名古屋市博物館所蔵の「築城図屏風」ですが、私はあったとされる幻の天守を含めた金沢城の築城風景であろうと思っています。天守一重目に描かれている唐破風出窓、本丸門の右側に描かれている大きな鏡石なども家康公の「お好み」ではないような気がします。下見板張りですが後に海鼠壁に変更されたと考えれば、金沢城の仕様に見えてくるのです。

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駿府城天守の制作ですが、実際は天守丸多聞櫓などと同時に作り上げています。それは、天守南東櫓と通路で接続されているためで、写真は一重目を天守台に入れてみて、その接続通路が合うよう調整しているものです。北東側に広間を作っていますが、天守の中にこんな柱のない広間は無理でしょう。二重目を乗せる段階で柱を入れました。

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二重目は舞良戸で閉じた状態、慶長日記の記述にある「四方縁あり」となっており、ここに前々回に紹介した7尺間(1間が7尺)の欄干を付けました。三重目にも「各四面に欄干あり」とあるのに従って、熊本城天守最上階の仕様を参考にしています。一重目にも二重目にも腰屋根はありませんが、当代記にも慶長日記にも記述がないためです。

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六重目まで組み上げた写真です一重目中央の向唐破風の出窓のような建物は、ちょうど天守台のこの位置に井戸があるので、それを囲むものです。天守の出入り口は左側に接続している橋でして、この上に通路となる二重櫓があるという想定です。

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七重目まで組み上げた写真です。最上部の屋根と六重目の妻側に大きな唐破風を取り付けています。これは童友社江戸城の四重目の唐破風を使っています。少し分厚い感じですが、自分で作る技術がないので仕方ありません。各重の屋根の色は、それぞれの素材の色にしています。最上階の屋根は、銅板張瓦ですから銅色で、やがて緑青のさびが出ますが、新築時は輝いていたでしょうね。(緑青色を塗るときは下地にこの銅色をいつも塗っています。)それぞれのには千鳥破風などを追加せねばなりません。

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五重目屋根に千鳥破風を加えています。この屋根は童友社姫路城のパーツの切り貼りで、既に比翼千鳥破風(千鳥破風が二つ並ぶもの)にしてありますが、妻側に千鳥破風を付ける作業です。姫路城キットの櫓の入母屋屋根を角度を合せて斜めにカットし、三角にカットした妻側に取り付けます。このとき、切った双方がどれだけ隙間なくピッタリ合うかどうかが仕上がりに影響します。隙間は後ほどプラパテで埋めるのですが、一番神経を使うところです。
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四重目屋根から六重目屋根は白ろう(錫か錫と鉛の合金)張の瓦なので、白っぽい銀色にして、一応天守は完成しています。その他、番所、橋、庭園と作成して全体の完成にもっていきました。2011/5/5-2013/2/24、1年10カ月かかってしまいましたが、達成感は非常に大きなものがあります。もちろん手元にありますので、たまに細かいところを眺めては悦に入ってます。すこしはしょりましたが、次回からは広島城プラモデル作成記事のまとめをはじめます。%e9%a7%bf%e5%ba%9c%e5%9f%8e%e5%ba%ad%e5%9c%92

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駿府城復元記(櫓の作り方について)

 駿府城復元記の続きです。旧ブログと違い、滞っていたところに触れていないので、なにかサクサクと築城しているかのようにみえますが、屋根パーツ以外はプラ板からの制作ですからいろいろ苦労はしています。それらの難所ポイントなども紹介してみたいところですが、レジンキャストの屋根とか壁面づくりとか必死に作業しているので当時「写真」を残す余裕がなかったのです。

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 旧ブログでは、集合写真で紹介していましたが、できるかぎり作り方が分るよう説明してみます。1枚目の写真は、作成中の天守丸北東櫓を内側から見たものです。故内藤先生の駿府城天守は、天守丸多聞櫓の内側は御殿仕様とされており、私もこれに倣っています。この櫓は掛け造の三重とし、二重目には欄干を付け三重目の窓を華頭窓としています。写真左側に続く多聞櫓の内側も掛け造で舞良戸と欄干の組み合わせとしています。
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 2枚目は、壁面を作成しているところで、0.5ミリプラ板で上部、窓の高さの部分、下部と3段になっているのです。窓の部分をくり抜くという方法もありますが、シャープな窓枠に切り抜くのは難しいでしょう。ピンセットでつまんでいるのは格子で、三浦正幸先生の「城の作り方図典」によれば、窓の半分が半間で3本が標準とされています。お城プラモ広島城の御殿では、石屋模型店さんの「汎用格子セット」を使いましたが、駿府城作成時は100円ショップで買ったナイロンブラシの毛を使っていました。(なので緑色です。)
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   3枚目は、北面と西面の欄干(6.5尺間の欄干)の取り付け後の画像、画面中央は、7尺間の欄干(天守用)を作る冶具で、0.3×0.5ミリプラ棒をここに合わせて欄干を作るようにしています。
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    次の写真は、南西櫓でして、故内藤先生の図面では南北棟の長方形の櫓で、他の復元模型もそうなっていますが、私は前回紹介した東照宮縁起絵巻天守像の南西櫓の棟に合わせるため、現駿府城にある巽櫓のように「く」の字になった櫓と解釈し、そのように作っています。また、大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」では確認できませんが、喰い違い虎口の石塁に多聞櫓をのせています。問題は、この南西櫓の1階から石段がこの石塁まで接続していて、どうもしっくりこないところです。 今回はここまでといたします。
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駿府城復元記(天守丸櫓作成)

 引き続き駿府城復元記ということで、天守丸多門櫓についてですが、前回紹介した大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」の黒塗り部分をどう読み取ったかを説明させていただきます。(説明のために少し画像を加工いたします。)
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 黒い部分は、住居などの御殿でない建物を示していると考えられます。それがなにであるかは太さで解釈するしかないところです。まず中央の天守と四方に位置する北東、北西櫓などは疑義はないところです。(それぞれ棟の向きはのちに触れます。)北面の橋につながる門の両横の黒い部分は、名古屋城の本丸不明門の仕様に準じて土塀であると解釈できます。そしてこの太線を土塀とすると「小天守台」(説明の都合上そう呼んでおきます。)にある鍵の字に曲がったところなど土塀であると解釈できます。(「小天守台」西面に太線が描かれず、ここは?です。土塀だと解釈しました。)
 ちなみに、北側の橋に接続する門は、太線が描かれずオープンなので埋門ではなく、高麗門と解釈、そしてその右に続くのは多聞櫓と考えられます。⑤には本丸平面から石段が接続しているので、これも多聞櫓と解釈しました。この太さを多聞櫓とすれば、①②③④も多聞櫓であると解釈したものです。
 そして⑥ですが、これは多くの復元図などには描かれていません。蔵の可能性もありますが、城門の近くにあることから、天守周辺の門を警備する番所であろうと解釈しました。もし番所が描かれているのなら、ある意味この絵図の信憑性が高いと考えられます。
 次の絵図は、日光東照宮縁起絵巻(家康公の伝記絵巻)の一部で、下見板張り、真壁づくりの天守が描かれております。絵巻に駿府城天守であると記されていませんが、他の文書記録における天守各階の間数や、神君家康公を顕彰する絵巻ですから、当然家康公が好んだ終焉の城である駿府城天守であることは、常識的な解釈と考えるところです。

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 問題は、どの方向から描いたものなのかということになります。これが南側からの絵図となると天守の棟が東西になりますが、北東側から見たものと解釈しています。理由として、天守屋根は上から四重目まで描かれていますが、その四重目屋根に手前に向かって接続している屋根があります。細いので土塀にも見えますが、よく見ると四角い窓があり、櫓であって、左手前の2重の櫓から天守に接続していると解釈できます。(前図「駿州府中御城図」の南東櫓から天守へ接続している部分)
 この絵が北東からのものであるとすれば、ここに描かれている3つの櫓の棟の向きが分ります。北東櫓は東西棟、南東櫓は南北棟、南西櫓は東西棟となります。しかし、北西櫓は描かれていませんので不明です。(私は「駿州府中御城図」の長さから、むりやり東西棟と解釈しています。)この絵がどれほどの写実性をもっているのかは議論の余地はありますが、現状で与えられた史料に誠実に従うべきだと考えています。%e6%ab%93%e3%81%ae%e8%a3%bd%e4%bd%9c01
 これら史料の解釈を済ませ、いよいよ天守丸櫓の制作にとりかかりました。ただし、これら櫓の図面があるわけでもなく、多聞櫓の幅などは、前回紹介した故内藤昌先生の図面を参考にしています。(大天守台喰い違い虎口天守側の石塁に多聞櫓を乗せているのは独自解釈です。)壁面はタミヤの0.5ミリプラ板で作成し、屋根は自作ではなく、童友社の姫路城、江戸城、名古屋城などのパーツの流用をしています。屋根パーツは櫓に合わせてカット、拡大してつなぎ直したりしています。それでもぜんぜん足りなくなってしまうので、最後は櫓に合わせて作った屋根パーツをレジンキャストで、複製して全体の屋根を作り上げております。
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 四方の櫓は、内藤先生の図面では2階(実は3階)逓減しておりませんが、当時の櫓も、ひとつひとつが異なる形状で作られていたことから、入母屋破風にしたり、唐破風をつけたりしています。(この部分は全く史料なしの私の想像部分です。)
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 全部そろえるのにかなりの時間がかかっています。写真をみると流用した屋根部分はほとんどなく、大部分は白いレジンキャストのものですね。
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 屋根の軒があまり突き出さない雰囲気は、江戸城古写真でみることができる巨大な三重櫓を意識しています。徳川のお城の櫓って迫力のある立派なものですからね。今回はここまでとさせていただきます。
 おまけに、日光東照宮縁起絵巻天守像と同じ角度からみた私の駿府城模型の写真をのせておきます、上の天守像と見比べていただければと思います。%e6%9d%b1%e7%85%a7%e5%ae%ae%e7%b8%81%e8%b5%b7%e7%b5%b5%e5%b7%bb%e5%90%8c%e8%a7%92%e5%ba%a6

駿府城復元記(天守丸構造について)

 駿府城復元記の続きということで、ようやく天守台が完成し、次は天守丸を構成する多門櫓づくりとなるところです。その内容に入る前に少し、天守台形状について触れてみることにします。旧ブログでも触れておりましたが、明治期の測量図での天守台形状は北辺が南辺に比べて長く、東西辺が北に向かって広がっているものとなっています。頂上部はフラットに描かれていて、安政大地震の被災後の姿で元の形状とは異なると記しましたが、実際は、どうなのでしょう。現在静岡市で行われている天守台発掘調査の注目点は、その天守台底辺の形状がいよいよ正確な姿で明らかになることです。

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 下の図は、静岡県立中央図書館蔵の「駿府城御本丸御天主台跡之図」(webで拡大して見ることができます。)旧ブログ記事に記載しましたが、天守上端東側(182尺:約55m)上端北側(158尺:約47.8m)上端西側(179尺:約54m)南側(虎口の両側で分かれていてそれぞれ71.5尺/約21.6m、73.5尺/22.3m)(いずれも故内藤昌先生による数値)となっています。webでの下の図をよく見ると、虎口通路の巾が壱間?尺七寸と記されていて,(?の数字読めません4か5かと思ってます。6ってことはないでしょう。2間になりますので)3.4m~3.7mってとこでしょう。すると北辺が47.8m、南辺が47.3m~47.6mでほぼ同じ長さで、天守台の天頂部は長方形になるわけです。(南辺はぐいちになっていますが)

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 この「駿府城御本丸御天主台跡之図」は、天守台復元のための最も信頼できる確実な史料となっています。(天守台底辺の長さも記載されているのですが、私には読めません。)結論として、明治の測量図で見て取れる不等辺四辺形の天守台底辺が発掘されたとしても、その相似形のまま、天守台上部にもってくるのは間違いとなります。いろいろな城の天守台には、底辺の各頂点が鋭角で飛び出しているのは多くあり、広島城天守台も然りです。
 さて、駿府城天守丸多門櫓の話に移ります。駿府城天守は、徳川家康の隠居城として、慶長12年の完成後すぐに焼失した天守(Ⅰ期)と翌年にすぐに再建された天守(Ⅱ期)があります。Ⅰ期の天守の史料は、未だ発見されておらず、まったくの幻の天守(ひょっとして、天守台いっぱいに建てられた超巨大天守?)となっています。(写真は私のおふざけの超巨大天守:根拠なし)
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  Ⅱ期については、次の絵図(大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」(「葵~徳川三代」記念出版 駿府城(内藤昌株式会社文化環境計画研究所)に掲載のもの)により、環立式天守(天守丸)であることが判明したのです。
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  概念図で長さなど正確なものではないようですが、これ以外の平面図に天守が描かれているものはなく、第1級の史料です。これにより、世にいろいろな天守丸構造の駿府城復元図が存在するのですが、必ずといっていいほど小天守が描かれています。Ⅰ期の築城の記録になっている「家忠日記」に小天守手伝普請の記録はありますが、Ⅱ期には小天守の再建の記録はあるのでしょうか?小天守については私は、大いに疑問をもっております。(前出「駿府城御本丸御天主台跡之図」には「御天守台」は記してありますが、小天守台という文字は記されておりません。)という訳で、多くの天守復元図画にある小天守は模型化しないことにしました。史料の小天守台とおぼしき場所には、大きな屋根はなく、多聞櫓と思われる細長い屋根が描かれています。
 私の駿府城模型は、「駿府城御本丸御天主台跡之図」と大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」を根拠にしました。あと日光東照宮縁起絵巻の天守像ということになりますが、そのお話は次回以降ということで・・・(模型製作の記事に入らなかったです。反省)
  追記 現在行われている駿府城天守台発掘状況については、以下のブログと写真がご紹介されています。これからしばらくの間、ブログを拝見させていただくという楽しみができました。中でも天守台西面石垣下の水面が出ている写真は、まさにお堀と天守台を思い起こさせてくれます。いいですよね、駿府城公園の散歩ついでに、だんだんと出てくる天守石垣が見ることができるなんて、羨ましい!

東 啓次郎の琴・三味線馬鹿一代 http://ameblo.jp/koto-shamiman/entry-12204830398.html

さらの往訪記録 http://akiusagi-apple.seesaa.net/category/25540787-1.html

備忘録旅人さんの写真 http://photozou.jp/photo/list/1785042/5782461

駿府城復元記(大天守台を築く)

 私のプラモ作成というのは、飛行機プラモもそうでしたが、まずは資料集めから始めるようにしています。誰もやっていない模型を作りたいというのが、モチベーションの底辺にありまして、こつこつ調べるのです。(これが実は楽しいです。)ネットで検索して、図面があるかどうかなど情報収集、ネットで図面がそのまま手に入ることはありません。著作名を見つけて蔵書がある図書館に出かけてコピーしてきます。まあ、近所の図書館にはたいしたお城関連資料はありませんけどね。(下の写真は駿府城東御門・巽櫓にある1/30天守模型)
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 内容は駿府城公園東御門・巽櫓に展示してある1/30駿府城天守模型の平面図、側面図、伏図、天守台図面などなど、内藤先生の駿府城天守案についての考証に関する著作で、興奮して息が早くなるほどでしたね。(記念誌ですからページ数は知れているのですが、完コピしました。)他の有名な城郭研究者の駿府城復元案の図面は手に入っていません。
%e9%a7%bf%e5%ba%9c%e5%9f%8e%e3%83%88%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%82%b9   これで天守台などは模型化できると思いました。その後同じく内藤先生の「城の日本史」(角川書店)に本丸の平面図も掲載されていたので、これと合わせて天守周辺の図面ができたのでした。
 この時点での問題は、1/350図面にすることで、内藤先生の図面には縮尺は入っておりません。ただ、尺間法でのスケールが入っていましたので、1尺0.303mでの換算で、図面が何分の1になるか計算し、それを350分の1になるように縮小して合わせました。(もちろんパソコン上での作業)
sunpudodai3 その図面を、プラ板(タミヤの)に移し取ってようやくお城プラモにしていきます。当時のお城と同じく、まず土台となる石垣づくりから始まります。駿府城の場合は、プラ板にプラ棒(これもタミヤ)で枠を作って、プラ板の石垣面を張り付けていく、はりぼてでの制作です。0.5ミリプラ板ですが、まあまあの強度は持っています。
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 石垣面については、はりぼてする前にプラ板に直接彫り込んでいます。(この時、人差し指に力を入れすぎて、爪が剥がれかけて、それ以降すぐ剥がれてしまうクセがついてしまっています。orz)深く彫り込めればよかったんですが、剥がれる爪とのバランスでいまいちです。
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 塗装は実際の駿府城の写真を見て、色具合を作っていったんですが、どうしても自分の頭の中にある色が影響してしまうのです。私の頭の中でのお城の石垣色は、九州方面・・・暗いグレー、四国、中国、近畿・・・明るいタン、中部・・・カラフル、関東以北・・・明るいグレーってな感じで先入観に支配されています。

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 うーん東海地方はどうなるんだってところで、ややタンの混じったグレーが基本になってしまっています。(土の色などは西日本と東日本では明確に違いがあると思いますというか、一応調べています。)
%e9%a7%bf%e5%ba%9c%e5%9f%8e%e7%9f%b3%e5%9e%a3%ef%bc%99 ようやく、駿府城天守台が出来上がったところですが、本ブログの「うり」の考察を加えておかなければなりません。
駿府城天守台は現在、発掘調査をされています。(隣県ぐらいだったら発掘ボランティアにぜひぜひ参加したかったです。)途中経過の写真などを見て感じたのは、あくまで江戸城、名古屋城、大坂城などとの比較ですが、徳川の天守台にしては、角石(隅石)があまり大きくなかったのではないかということです。
 なにが言いたいのかというと、天守台を築く土木技術的な話として、当初天守台いっぱいに巨大天守を建てる予定だったが、天守台自体がその重量に耐えられないことが建築途中で判明して、天守丸づくりに変更したのではないのかと思い至りました。駿府城天守ののちに建てられた大天守では、その重量に耐えられるよう、技術的発展があり、大坂城天守台で斜めのクサビのような巨大な角石が生まれたのであろうと考えられます。(下の図は大阪城天守台北面)
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 天守を支えるべき天守台の土木技術の確立途上に駿府城はあったのでしょう。(土木技術史などでは、自明の話なのかも知れません。関連の書籍などにはあたっていませんので、「素人のたわごと」ということでご勘弁を)