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駿府城復元記(天守丸構造について)
駿府城復元記の続きということで、ようやく天守台が完成し、次は天守丸を構成する多門櫓づくりとなるところです。その内容に入る前に少し、天守台形状について触れてみることにします。旧ブログでも触れておりましたが、明治期の測量図での天守台形状は北辺が南辺に比べて長く、東西辺が北に向かって広がっているものとなっています。頂上部はフラットに描かれていて、安政大地震の被災後の姿で元の形状とは異なると記しましたが、実際は、どうなのでしょう。現在静岡市で行われている天守台発掘調査の注目点は、その天守台底辺の形状がいよいよ正確な姿で明らかになることです。
下の図は、静岡県立中央図書館蔵の「駿府城御本丸御天主台跡之図」(webで拡大して見ることができます。)旧ブログ記事に記載しましたが、天守上端東側(182尺:約55m)上端北側(158尺:約47.8m)上端西側(179尺:約54m)南側(虎口の両側で分かれていてそれぞれ71.5尺/約21.6m、73.5尺/22.3m)(いずれも故内藤昌先生による数値)となっています。webでの下の図をよく見ると、虎口通路の巾が壱間?尺七寸と記されていて,(?の数字読めません4か5かと思ってます。6ってことはないでしょう。2間になりますので)3.4m~3.7mってとこでしょう。すると北辺が47.8m、南辺が47.3m~47.6mでほぼ同じ長さで、天守台の天頂部は長方形になるわけです。(南辺はぐいちになっていますが)
この「駿府城御本丸御天主台跡之図」は、天守台復元のための最も信頼できる確実な史料となっています。(天守台底辺の長さも記載されているのですが、私には読めません。)結論として、明治の測量図で見て取れる不等辺四辺形の天守台底辺が発掘されたとしても、その相似形のまま、天守台上部にもってくるのは間違いとなります。いろいろな城の天守台には、底辺の各頂点が鋭角で飛び出しているのは多くあり、広島城天守台も然りです。
さて、駿府城天守丸多門櫓の話に移ります。駿府城天守は、徳川家康の隠居城として、慶長12年の完成後すぐに焼失した天守(Ⅰ期)と翌年にすぐに再建された天守(Ⅱ期)があります。Ⅰ期の天守の史料は、未だ発見されておらず、まったくの幻の天守(ひょっとして、天守台いっぱいに建てられた超巨大天守?)となっています。(写真は私のおふざけの超巨大天守:根拠なし)
Ⅱ期については、次の絵図(大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」(「葵~徳川三代」記念出版 駿府城(内藤昌株式会社文化環境計画研究所)に掲載のもの)により、環立式天守(天守丸)であることが判明したのです。
概念図で長さなど正確なものではないようですが、これ以外の平面図に天守が描かれているものはなく、第1級の史料です。これにより、世にいろいろな天守丸構造の駿府城復元図が存在するのですが、必ずといっていいほど小天守が描かれています。Ⅰ期の築城の記録になっている「家忠日記」に小天守手伝普請の記録はありますが、Ⅱ期には小天守の再建の記録はあるのでしょうか?小天守については私は、大いに疑問をもっております。(前出「駿府城御本丸御天主台跡之図」には「御天守台」は記してありますが、小天守台という文字は記されておりません。)という訳で、多くの天守復元図画にある小天守は模型化しないことにしました。史料の小天守台とおぼしき場所には、大きな屋根はなく、多聞櫓と思われる細長い屋根が描かれています。
私の駿府城模型は、「駿府城御本丸御天主台跡之図」と大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」を根拠にしました。あと日光東照宮縁起絵巻の天守像ということになりますが、そのお話は次回以降ということで・・・(模型製作の記事に入らなかったです。反省)
追記 現在行われている駿府城天守台発掘状況については、以下のブログと写真がご紹介されています。これからしばらくの間、ブログを拝見させていただくという楽しみができました。中でも天守台西面石垣下の水面が出ている写真は、まさにお堀と天守台を思い起こさせてくれます。いいですよね、駿府城公園の散歩ついでに、だんだんと出てくる天守石垣が見ることができるなんて、羨ましい!
〇東 啓次郎の琴・三味線馬鹿一代 http://ameblo.jp/koto-shamiman/entry-12204830398.html
〇さらの往訪記録 http://akiusagi-apple.seesaa.net/category/25540787-1.html
〇備忘録旅人さんの写真 http://photozou.jp/photo/list/1785042/5782461