大坂城を離れて関ケ原へ

 徳川大坂城制作作業は、ノロノロと進行してはいますが、見ていただいる方々にとっては退屈もするでしょうから、今回は、昨日訪問した関ケ原訪問の記事にいたします。関ケ原までは車で私のところからだと2時間半ほどかかりますが、天気も良く風も爽やかで、遠出するには最高の日となりました。向かうのは笹尾山の石田三成陣跡で、関ケ原を一望できる場所にあります。展望台も整備されていて解説音声が流れるようになっていました。

 戦国時代ファンの方であれば、見飽きた布陣図ですが、石田陣地から見た図で、オレンジ色の寝返り大名達が、石田方として働けば、完璧な鶴翼の陣で徳川方を包囲殲滅することは容易だったでしょう。小早川が動かず、脇坂、朽木、小川、赤座が裏切らずに福島正則の側面と背後を攻めさせすればなあ・・・この陣跡から関ケ原を望むと三成の無念さもわかるようです。 展望台には、景色に重ねた布陣状況のわかる写真も掲示してありました。(横長なので、写真3枚をつないでいます。)松尾山の小早川の旗が動いたとき三成はどう思ったのでしょうか、写真でもわかるようにかなり距離があり、裏切るにせよ、徳川方を攻撃するにせよ、石田陣からは手前に降りてくるように見えたはずです。「これで勝った」と一瞬喜んだのではないかと思いました。
 石田陣跡を見学したあとは、関ケ原古戦場見物のお約束「関ケ原ウォーランド」にも行ってきました。ここは初めての訪問でして、事前で写真など見て期待していなかったのですが、そこかしこに立っているコンクリートの武将像がユーモラスで独特の雰囲気を醸し出していて、懐かしいような笑みが出てきてしまい、すっかり楽しみました。ここにあるコンクリート像は、長い間無名で、近年テレビなどでも紹介されるようになったコンクリート造形師浅野祥雲の作品群で、実物大ではなく、やや大きめにつくられています。それもあって迫力はあります。

 特に徳川家康の首実検の情景など、その中央へ行って周りを見渡すと妙な感覚にとらわれてしまいます。なんだろうなと思いあぐねていると「そうか、1/35フィギュアのジオラマの中にいる感覚か」と思いいたりました。それもタミヤのものでなく、アオシマの「戦国合戦ジオラマ」ですね、これは。(古いモデラーの方ならご存じであろうかと思います。)たまにはこういった見学もいいものですよ。

 

徳川大坂城模型制作(大阪城の石垣をもっと大切にしてほしいです)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。1年でもっともバイクツーリングに適した季節でして、ついつい朝から出かけてしまって、お城プラモ作りがお休みになってしまっています。

 今回は、以前も紹介した天守復興記念誌に掲載されていたもので、大阪城天守閣復興記念の絵葉書の引用です。戦前の天守閣写真に着色したものと思われます。

 注目すべきは、太平洋戦争で爆弾が直撃した姫門周辺が元の姿で写っていることです。手前の石垣は無事だったようですが、奥にみえる石段はかなり破壊されたようで、戦後まもなく撮られたアメリカのLIFE蔵の写真で確認できます。次の写真は、私が撮影した写真(右)と並べて比較したものです。とにかく姫門に登る石段と入って左に上る石段の段数が分ってよかったです。10段と14段となりますねえ。

 あと、元の姫門の左側の石塁の石垣のパターンがよくわかります。右の写真の置き換えられた整形石が元の石をある程度はなぞっているものの、やはり「復元」とはなっていません。

 大阪城の場合、こういったケースが数多く見られます。他のお城であれば、元の石を再利用するとか、ここはかなりこだわるところでしょうけど、大阪城の場合、さばさばしたものです。徳川大坂城への愛着のなさというか、なぜなんでしょうねえ?
「天守閣が豊臣、徳川のハイブリッドなんで、べつにええやんか」って感じでしょうか。

 おまけとして、この写真の右側にあたる、ちょうど姫門の番所跡の現状写真をのせておきます。敷石が残っていますが、これは天守閣復興時に整備されたものだと考えられます。

徳川大坂城模型制作(昭和天皇大阪城天守閣御登臨)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。前々回小天守台入口周辺の考察を行ったところです。大坂城の古図ではほとんどが小天守台南辺から東に延びる形で、塀が掛けられているように描かれています。小天守台の東側に四角い段があったのではないかとも見えるところです。次の写真は、前回と同様記念誌からの引用ですが、以前から参考にしている「大阪城址写真帳」の天守台写真です。明治28(1895)年に竣工した大阪最古の配水池の階段が右端に写っていて、天守台ふもとには雑草が茂っています。昭和6(1931)年11月7日に復興天守閣が竣工しているので、その間の写真となります。しかし、この写真からは私が求めている徳川大坂城天守が建設された当時を推測できるものはないです。

 おそらく、明治の配水池建設時の大量の土が天守台東面にならされていて、江戸時代の地表面に被さっているのでしょう。天守台登口の石垣がほぼ垂直に立っていて、石樋が確認できると思います。その下には石造りの砂溜もあったはずですが、この写真からは確認できません。配水池の階段の手前に石段のようなものがあるようで、石樋の右下から繋がっているようにも見えます。

 次の図は大阪市立中央図書館蔵の旧陸軍の行幸記念誌から見つけた復興天守閣を昭和天皇が行幸されたときの順路図です。天守台周囲の概略図が入っています。配水池をまくように小天守台登口から右に2段石段があり、北へ行くと4段ほどの石段があります。しかしまあ、昭和天皇がお城を好まれたという話は伝わっていますが、御見学順路がここまで決められていたとは、御不自由なことであったと推察するところではあります。

 話を天守台作成のほうに戻します。天守台の岩岐も作りましたので、次の問題は天端石の銃眼でして、岡山城などにも一部据えられていますが、徳川大坂城ではほぼ全面的に施されています。この上に土塀が掛けられ、櫓も外側の壁をこの上に設けています。図面で大手門に施されているものは高さ84センチになっていますが、私が天守台で測ったものは70センチ強でした。今回のお城プラモは、フルスクラッチにするつもりでしたが、これは正確には彫れないです。そんな訳で、せんどくさした童友社大坂城パーツを切り取って流用することにしました。銃眼内側の微妙なラインは再現されていませんが、ヤスリで整えるつもりです。銃眼ごとの距離も違うので、間にプラ棒をはさんで、原型を作り、あまり好きではないレジンキャスト複製となる予定です。

徳川大坂城模型制作(敷石の史料の不存在)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。小天守台については、現行天守閣が再興される前の数少ない古写真で、金明水の段を除き、やはり敷石らしきものは確認できませんでした。先日行った大阪市立中央図書館でも、大阪城の天守閣復興記念誌など建設前の小天守台を撮影した写真はないか、いろいろ探してみたんですよ。しかし、もう、決めなければ作業が進められないのです。

 次の写真は、天守復興記念誌に掲載されていた「古写真 豊公館(写真パネル)」の引用です。大正14年(1925)に開催された大大阪記念博覧会で特設会場として大坂城天守台に建てられたものです。日に1万人を超える入場者が来るほどの大好評で、後に現行天守閣再興のきっかけにもなった建物です。この写真の時点では天守入口付近の地面には敷石はないようです。(他の写真のすずなりの入場客の足元の地面で確認しました。)

 大坂城小天守台の各段の地表面が敷石で覆われたのは現行天守閣が復興された時であって、それ以前にはなかったと結論づけようと思っています。根拠として最大のものは、早稲田大学所蔵「大坂城本丸之図」で、この図は、天守が焼けた後、石垣に対する被害状況を精査したものと考えられ、「地表焼ケル」と読めるところがあるのですが、積んだ石垣や岩岐などの横に記載されており、天守入口地面について、そういった記述はありません。もし、地表面が敷石に覆われているのであれば、焼けていたであろうし、「〇〇尺、敷キ石焼ケル」とかなんらかの記述があるはずだと思うのです。

 また、故大類伸氏撮影の大天守台南面写真(大阪城天守閣発行「描かれた大坂城・写された大阪城」p92)の右下端に、現状は敷石が張ってある天守登口の踊場が写っていますが、この写真では露出した土で草も生えています。

 ちなみに、現在敷石張になっていませんが、姫門下の曲輪は、天守閣再興後、昭和42年ごろの写真には敷石が施してあったことが確認(大阪城天守閣発行「大阪城はこの姿」p29)できます。戦前、旧帝国陸軍第四師団に気を使いながら天守閣を復興するためには、いろいろと通路など整備もし、陸軍関係施設整備にも費用を使ったのだろうと思います。

 大坂城建設当時、いろんな神社、寺院など通路や門前には、通路も含めて敷石が施されてはいますが、大坂城関連史料で確認できないのでここには、無かったと結論づけるしかないようです。(どなたか、敷石があったと分る史料をご存じの方がおられれば、ご教示いただければ感謝いたします。)

徳川大坂城模型制作(大坂諸絵図はおもしろい)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。せっかくのゴールデンウィークでもあるので、先に進まねばなりません。迷っている天守台敷石問題ですが、以前から参考にしている大坂諸絵図廿九御天守台図の実物を閲覧するために大阪市立中央図書館にいってきました。

 自宅から高速で1時間強というところで、図書館の駐車場も空いていて、スムーズに閲覧することができました。もちろん貴重図書ですから、書類での申請が必要です。ところで以前引用させていただいた松岡利郎先生の「大阪城の歴史と構造」掲載の絵図とは、同じ内容ですがどちらかが写しであるようです。中央図書館蔵の絵図は、くずし字でなく読みやすいもので確認できなかった文字も判読できました。

 ただし、ひょっとしたらなにか地面に関する記述でないかと期待していた文字は「小天守」とあるのみでした。着色部分は大天守内、天守登口石段横と同様の水色で、「芝」と記載とあるところと同じ色ではあるのですが・・・表面は土のままで雑草がはえていたのか?うーんやっぱり解けないですね。

 もちろん、いろいろと興味深い点も見つけています。私は天守台東側地表面(この絵図の下側)は、西側よりも1メートル程度高いのではないかと考えていますが、天守台から東へカギの字に「溝」が記載されています。入口手前に「橋」まであるのですから、この溝、ある程度幅もあったのでしょう。天守台に降った雨水は、小天守登口石段の踊場下に石樋があり、図の「砂溜」に水が落ちて、埋設の水路を通って、この溝に流れ込むようになっていたものと考えられます。しかし、地面高が高いのにこの東方向へ流すとすれば、深く溝が掘ってあったと考えられます。

 それとも、この「芝」と記載のある水色部分も含め天守入口までの四角い部分が周囲より地表面が高くなっていて、南辺に柵をかけて仕切り、周囲を回り込むように溝が掘られていたのかもしれません。ちょうど、上りか下りか不明ですが、左下に石段らしきものも描かれています。このあたりを模型化しないと値打ちが無い訳です。あれこれ考えているとおもしろいのですが・・・模型制作作業は進みません。(これも楽しみなので、あしからず)

徳川大坂城模型制作(雁木の段数)

    徳川大坂城模型製作記事の続きです。前回に引き続き小天守台の雁木(岩岐)作りをしています。

   1段が1/350で奥行0.82㎜ぐらいなので、なかなか上手くつくれないところです。もちろん以前に紹介したように、0.5㎜プラ板と0.2㎜プラ紙の組み合わせで厚みを作り、それを重ねてつくるのです。 実物写真は、以前は自分で撮影に行ってましたが、Googleアースが更新されて小天守台も細かく見ることができるようになり、おかげで助かっています。この写真は自分で撮影したものですけどね・・・小天守台の金明水の段への雁木は、写真では2段としか言いようが無いですよねえ、しかし、早稲田大学図書館蔵「大坂城本丸之図」には「岩岐三段」と記してあります。ふー、なので手前の踊り場の敷石は無かったのではないかと疑っているところです。

写真は、小天守台に雁木を取り付け途中のものです。小天守台のそれぞれの段を現状のように、敷石仕様にするのか、ひょっとしてと考えている三和土仕様にするのかで、表面のスジ彫りが変わってしまいます。固定してしまうと作業が難しいので、接着できないでいます。(困ったものです。大坂諸絵図廿九を閲覧させてもらって、確認するしかないかとまで考えています)

 片方で、天守や櫓などの屋根、特に瓦をどう作成するかで準備も始めなければならないので、瓦について資料を集めだしています。写真は鹿島出版会「物語 もの建築史 和瓦のはなし」という本です。全体を読み終えておりませんが、本の中で紹介されていましたが、東大寺大仏殿屋根の軒丸瓦の直径が27センチで、平瓦の幅が47センチというのは驚きました。じゃあ、お城の本瓦葺きの幅について記されてるかというと・・・その内容は「無いよう」です。(しょーもないダジャレでおわります。)

徳川大坂城模型制作(がんぎは雁木か岩岐か)

 前回に引き続き徳川大坂城制作記事の続きです。まずは、お恥ずかしい話をひとつ、私は、お城の古図面を眺めて、いろいろとお城プラモ制作に取り入れているのですが、古図面の文字は、もちろん「くずし字」でして、文系の学部はでたものの、古文書の勉強などはいたしておりませんので、くずし字辞典などを引きながら四苦八苦しながら読んでいるところです。

 写真は、「大坂諸絵図」中の「廿九御天守台絵図」の一部(松岡利郎先生の「大阪城の歴史と構造」掲載)ですが、この赤丸の「岩岐」がなんのことか分っていなかったのです。お城を研究などされている方から見ると、「こいつ気づいてないなあ」と思われていたかもしれません。まあ石段のことであろうとほぼ考えず解釈していました。大坂城小天守台の地面は石が張っていたのかどうか、この絵図を見ながら考えてるときに、あれ?と気づいたのでした。

 「がんぎ」と読むべきでして、つまり雁木(石垣や土塁に昇降するために付設された石階段:wikiによる)のことでした。weblioの日中対約辞典では、岩岐石:(ガンギイシ)安山岩などを原料として四角い棒形に切った石材と出ています。いっそこっちのほうが正しそうですけどね。日ごろよく知っているふりをしてますから、なにか恥ずかしい感じがします。

 すらすらとくずし字が読めるようになりたいものです。

 

 天守台の制作状況のほうですが、入口の雁木(岩岐?)もこれでいこうと決めて、下の段から作り上げていこうとしています。

 一つ目の踊り場から左に曲がる次の雁木の左側には排水のための石造りの溝があります。お城プラモキットで再現しているものはないでしょうが、「あるものは、再現する」というスタンスですので作り込みます。昨年訪問したときの実物の写真をのせておきます。
 あまり上手くはできていないですが、この程度のものですわ・・・

徳川大坂城模型制作(春雨の大阪城)

 今回の記事は、昨日、お花見がてらに大阪城に行ってきたので、その写真を紹介しておきます。もっとも、あいにくのお天気で春雨に霞んだ大阪城天守。大阪城天守北西の青屋口から周辺の桜並木をながめながら二の丸梅園を通って、桜をめでてきたのでした。

 二の丸から眺める本丸東側の石垣は、ほんとに高いことが実感できます。この上に多聞櫓と三重櫓が並んでいたのですから、さぞや壮観な情景であったろうと思います。
 次の写真は、本丸北東端の糒櫓跡でして、宮内庁書陵部所蔵の写真(10番目の写真)で、その姿が残されています。

 

 あんまり進んでいませんが、徳川期大坂城模型の進行具合のほうも、紹介しておきましょう。

 天守台四隅には、プラ板面のスキマがありましたので、どろどろの塗料をのせているところです。
 
 石段横の石垣パータンを彫り込む準備もしています。この部分は古写真からおこしているので、正確には捉えられていないと思っていますが仕方ないところです。

徳川大坂城模型制作(敷瓦じゃなかったか)

 長いことお城プラモ制作から遠ざかっていました。徳川大坂城ですが、ようやく取り掛かるモチベーションが戻ってきました。少し言い訳をさせていただきますと、ちょうど天守台への石段の制作をしているところで、迷宮入りしておりました。

 写真は、大阪城天守閣に展示してある現天守閣工事時の模型です。この模型の周囲には、上階にある徳川大坂城天守模型の横にある「撮影禁止」が掲示されていません。(ということは、紹介してもいいか・・・と載せています。)旧ブログで行き詰まっていた各面の天守台の高さの違いは表現されず、同一平面に天守台があるようです。私は、天守台の東面の地面(この写真でいうと右側)は西面の地面より高いと解釈しております。

 確たる根拠は出てこなかったのですが、石段に関しては、旧ブログで紹介した初代は、どうも高さが低くなってしまっていたので、2度作り直して、この写真のは3代目となります。プラパテがついているところは、天守台西側の高さと平面にしないと模型制作しにくいというか無理(そもそも、底面が斜めの模型はよう作れまへん。)なので、かさ上げしているところです。

 次の写真は、金明水井戸の段をとりはずしていますが、この段の斜め敷石についての解釈に触れておきます。

 写真は私が大阪城小天守台石塁の高さを測るのに撮影したもので、敷石が斜めの正方形になっています。旧ブログで紹介した「大坂諸絵図」中の「廿九御天守台絵図」で、江戸時代においても、そうだったのは分かっているところです。

 しかし、敷「石」だったのでしょうか?石に変更したのは、昭和の現天守閣復興の時であって、元は、お寺の本堂の床などにある「敷瓦」ではなかったのかと。天守創建時は、ここまで正確な正方形に石を加工しなかったんじゃないのかと疑っております。(ここは、そういう敷瓦解釈で作るつもりです。)

名古屋城天守木造再建が決まりました

 

 今回は、名古屋城についてです。先日名古屋市議会で、名古屋城天守木造再建のための基本設計料約10億円を含む補正予算が可決され、いよいよ木造復元可否の議論も終わって、木造再建に向け、進み出すこととなった訳です。順序とすれば、基本設計→実施設計→工事となるのですが、2022年(元号はまだわかりませんねえ)の完成をめざすとのこと、現行天守閣の解体含めなので、ちょっとキツメの工事なのかもしれません。(生きてる間に見ることができそうです。)

 お城ファンとすれば、とてもわくわくする慶事ではありませんか。お城に思い入れのない方たちには、観光目的という大義名分での説明で、「採算がとれるのか疑問」などの反対意見が出ていました。現行天守閣自体が文化財だという意見もありますし、「木造で天守閣を復元しても、本物ではなく木造のレプリカなのである。このことは、現在一部公開され、建設中のピカピカの本丸御殿で経験済みなのではないだろうか。」とレプリカだから価値なしといったことまで主張されているようです。(自治体問題研究所)

 そもそも、お城は、商業施設ではないですから、建設費から毎年の維持管理費などを考えれば、まず採算度外視の施設でしょう。例えば美術館、博物館で建設費を入場料で賄えている施設はあるのでしょうか?テーマパークのように何千円といった入場料を設定すれば話は別でしょうが・・・お城など歴史的建造物は、歴史・文化を後世に伝えていくためのものだと私は思っています。ただ高さを追及する経済発展を体現するランドマークタワーではなく、自分たちの都市や街の歴史を誇らしく思い起こさせる象徴とでも言うべきでしょう。

 レプリカの反論としては、現存12天守でもそうですが、そもそも屋根瓦、漆喰、柱や梁に至るまで、旧の部材をそのまま残した完全オリジナルの歴史的木造建築物は存在しないでしょう。レプリカ率何パーセントだから本物とは言えないとか、そんな問題ではなく、日本建築では神社など遷宮して完全に建て替える訳で、それこそ営々と維持を続けていることに歴史的価値があると言いうるのです。(姫路城の世界遺産登録ではこの点が争点となったとのことです。)

 なので、木造再建された名古屋城天守も30年もすれば、「戦災により焼失したが、元通りに復元された本物(一時期鉄筋コンクリートの外見復元天守が建っていた)」となることでしょう。さらに年月が経てば国宝にも戻るかな、それは無理か・・・

 ちょっと熱くなりすぎました。話を当ブログの本来のテーマ城郭模型のほうに戻します。写真は、5年前に訪問したときに、撮影してきた名古屋城天守閣の中に展示してある名古屋城模型です。(撮影禁止だったかどうかも忘れてしまいました。怒られるかも・・)木造の内部構造がすごいですねえ、これを復元するなんて、かなりの木材が必要です。この模型の石垣部分の再現度を実際の写真と比較して見てみます。
 右の模型写真の赤線で囲んだ部分が左の写真の部分に該当します。まあ、お城にある城郭模型が不正確ではどうしょうもないところでして、この名古屋城天守模型は、けっこう再現されていて完璧といっていいんじゃないでしょうか。(エラそうにまた批評してしまいました。)

 ところで、またまた話が戻りますが、名古屋城天守木造再建には大賛成なのですが、私の本音としては、同じく戦災で焼失した本丸丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)と明治期に解体された本丸多聞櫓(門を含む)を同時に復元して欲しかったのです。これらを復元すれば名古屋城本丸完全復元となります。ここまでやれば、もう本丸内部を侍テーマパークにみたいにして、職員はすべて当時の衣装、入場するのも制限して衣装に着替え、5千円以上の入場料で江戸庶民文化でない武士社会体験型施設にしてほしいと空想しています。(建物自体は文化財でないので、いろいろ劇場型見世物もできるし・・・)

「こら!お城についてさっき言ってたことと真逆じゃないか」と城男に怒られそうです。
 
株式会社 竹中工務店 名古屋支店 技術提案書(後半図面はお城プラモ作成に役立つかも)

自治体問題研究所(木造再建に反対の意見、でも多聞櫓と丑寅隅櫓を再建との意見)