徳川大坂城模型制作(仏具山づくり)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。本丸北東面周辺にかかっています。月見櫓、糒櫓台にかかる部分、仏具山部分ですが地味な写真なので、それよりも極楽橋について少しだけ触れてみます。

 豊臣大坂城には檜皮葺きの屋根付き極楽橋があり、大阪城図屏風にその姿が残されています。徳川期もほぼ同じ場所に同名で橋が掛けられていたわけですが、大坂御城絵図によれば幅は4間(約7.8m、現行の幅は5.4m)長さ26.5間となっています。橋桁は現行3段となっていますが、古図などでは4段、5段と様々な姿があります。
 
 幅は、はっきりしているので模型化するのに支障はありませんが、気になっているのは、山里門への接続角度でして、現行の橋はグーグルアース上空写真を見ると石垣に対して垂直とはなっておらず、やや傾いているのがわかります。当ブログで参考にしている明治23年発行大阪実測図(この時点では橋はありません)にも、山里門の対岸側にやや東に傾いた位置で橋の受け部のような枠が描かれてはいます。この位置からすると現行の橋の角度は徳川大坂城の極楽橋と同じ角度かなとは思いますが、宮内庁蔵大坂城櫓写真種板15/49の写真の極楽橋が、も少し西よりに傾いて見えて石垣面に垂直じゃないのかと感じてるところです。まあ橋途中の擬宝珠の数(橋桁の数)もよくわからないところですが、極楽橋制作は徳川大坂城模型の最終局面でのことなので当分考える必要はなさそうです。次の写真は山里門側の極楽橋接続左右部分、旧橋の受ける場所の石が削られているのが確認できます。

 さて現状写真ですが、本丸北東にある仏具山をタミヤスチレンボード1mm厚を積み重ねてプラパテで斜面をならしています。 月見櫓両横の雁木と石塁はプラ板の積み重ねで、5段としています。1段目の基礎の段は50センチ程度の高さとし、2段目以上は27㎝の高さとしています。まだまだ作業は続きます。

徳川大坂城模型制作(桝形づくり2)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。前回に続き山里出桝形周辺にかかっています。
 まずは、国会図書館蔵「大坂御城絵図」の該当部分から見てください。山里出桝形は、グーグルアースの上空写真や現行の国土地理院地図からもほぼ台形ですが、江戸時代の御城絵図では直角の長方形となっています。「ここは直角なのだ」というお約束でもあったかのように、年代を経た後の図面もこれを踏襲していくので、図面を1/350にしたときにいろいろと長さの矛盾がでてきます。
 また、古図では矩形に描かれていても、東菱櫓、西片菱櫓、数寄屋前櫓の三櫓以外にも櫓台が長方形でなく、ひょっとして片菱の櫓ではないのかと疑ってしまう櫓もあります。(櫓制作のときに考察してみることにします。)

 まずは、山里出桝形へ登る雁木です。これも・・・自分で測ってきた奥行となぜかズレなども発生して苦労しました。結局グーグルアース上空写真に合わせてみたところです。左の地上面に黒い線が引いてありますが、この線が私の測った線でして、困ったものです。高さは約10.7mmってとこです。

 次の雁木は、出桝形内部に埋まっているもので、実物の高さは1.4mです。1/350にするためには、0.5㎜プラ板、0.1㎜プラペーパーの組み合わせで調整しました。

 次のものは姫門入口の雁木10段と左に本丸へ登る雁木14段となっており、これも高さの調整は難しいものとなりました。ここの雁木は、本丸土台高に関連するため段数は合っているものの、それぞれの高さが正しいのかどうか自信がありません。

 前回あんけんさんのコメントでご指摘いただいた隠し曲輪の門の雁木についてですが、まずは現地写真ですが、隠し曲輪から撮影したものです。雁木が現状二段残っていて、上の雁木には両側に柱を差し込んだほぞ穴が残っています。

 隠し曲輪の地面から見て、手前にもう1段雁木があったのではと解釈しているところです。

 横から撮影したのが次の写真でして、石塁上部の鉄砲狭間の石からやや内側に門柱があったことが確認できます。従って石塁の土塀と同一平面の埋門ではなく、独立した門であったと解釈しております。

徳川大坂城模型制作(桝形づくり)

 徳川大坂城模型制作の記事の続きです。山里丸から山里出桝形に作業は移っています。現地で測った高さで合わせていましたが、山里丸から斜め通路が増設されており、出桝形の地面はずいぶん土盛りされてもいます。大阪文化財研究所の現地説明会資料の掲載写真など見てみますと、元の地面はかなり下となるようです。

〇大阪文化財研究所の特別史跡大坂城発掘調査(OS05-1次)

 こういった資料が、私の模型作りにとって非常に重要でして、もっと発掘調査してくれればなあと思います。そういえば、現行小天守台に残る金明水井戸は、かつて、豊臣大坂城の井戸であったと信じられており、調査まで行われてもいます。もちろん徳川大坂城のものであることは言うまでもありません。

 豊臣大坂城の図面を見ていると山里丸に井戸がありますが、徳川大坂城図面の山里にも近い位置に井戸が描かれています。ひょっとして、同一の井戸ではないのか、発掘してみれば豊臣大坂城に関連したものが出るのではないかと思ったところです。

 徳川大坂城模型の作業のほうですが、途中まで作っていた山里出桝形を作り直し、高さについては隠し曲輪も含め、一応解決とします。模型を作っているとどうも自分の感覚での話ですが、自分の思っている高さと模型での高さが違うように感じて少し不安になることもあります。(なんか、えらいミスをしてるんじゃないかと)

 本丸地上面から石塁までの高さは1/350では6㎜程度となるので、それを置いてみると、ああこんな感じかなと納得もできたところです。

あけましておめでとうございます

 本年も、お城プラモ築城の道のりをよろしくおねがいいたします。

 徳川大坂城模型のほうは、土台の作り直しを正月休みの時間の多くを使いました。テレビの見ながらのダラダラ作業ではありましたが、一応納得したのでスピードアップをはかりたいと思います。

 山里丸に加番屋敷を転写したり、山里門の高さを確定して雁木などを作っておりました。

 もくもくと作業を続けたいと思います。

 

徳川大坂城模型制作(ぐるぐると考証ばかり3)

    今年も押し迫ってきました。大掃除やら年賀状作成やら取り込んできて、ゆっくりと徳川大坂城模型にかかる時間が取れていません。本丸地表面の高さ関係でまだ混乱しているところです。(「いいかげん決めてしまえよ」とのお叱りをいただきそうではあります。)

自分の問題点の整理のために、またまた図面で紹介しておきます。
    まず、石垣を積んであるところは基本的に標高は変化なしとしておきます。徳川大坂城の標高(天守台、貯水池を除き)の最高点は、①32.9mとなっています。この高さに三重櫓、多聞櫓などが建っています。もちろん段が下がって建てられているものもあります。

 さらに、月見櫓の段は、その32.9mから1.8m低い段に建てられていて②31.1m。そして、そこから雁木が24㎝が5段で1.2m下に現行の地表があり③29.9m。この地表からさらに約48㎝下に、今に残る金蔵の地表面④があり、周辺の徳川期の地表面は29.42mとなります。

 天守北側の⑤の雁木は、現行9段ですが、発掘調査により11段と分っており、1段が24㎝から27㎝程度ですから、ここは①の32.9mから差し引いて約30mの標高となります。ただし、11段の初段は、かなり高いので、少し幅があるかもしれません。天守西側については、現行8段の雁木ですが、⑤と同程度に埋まっていて10段(24㎝×10=2.4m)と解釈すれば、地表面は30.5mかと・・・

 ここらで妥協しようとしましたが、「ああ、そうだ念の為、大坂諸絵図に天守の石垣高の記述があったから確認しておこう」と読んでみますと、東方高七間壱尺弐寸(約14.15m)西方高八間五寸(約15.9m)北方高七間弐尺五寸(約14.54m)とあるではありませんか。(げええ!西面と北面との差が大きすぎる!)

 つまり、天守台の天端は同一の高さなので、各面の石垣高で石垣下の地表面の高さの差が分るものとなっているのです。それが1.36mも違う、それも西側の地表面が北よりも低いと記されているのです。これをどう解釈すればいいのか頭をかかえてしまっています。ふー、紅白でも見ながら考えてみることにいたしましょう。

今年も本ブログにお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。ごらんいただいた皆さまが良い年を迎えられるようお祈り申しあげます。

徳川大坂城模型制作(ぐるぐると考証ばかり2)

 先週の記事をとばしてしまいました。すみませんでした。徳川大坂城模型作成記事の続きですが、思い込みというか、予断というのはだめだなあと反省していたところでして、制作中の大坂城模型については、本丸部分を作って、あとで内堀水面をつくって、そこにのせるつもりでいました。問題は内堀水面標高で、国土地理院地図では、最低が6m最高が10mと大きな差がでているところです。(これはしかたないことらしいですが)単純に中をとって8mで模型を作り出したのが、私のマヌケなところでして、糒櫓台標高32.9mであれば、石垣高が24mとして、水面高9mじゃやないかと、いまごろ気づいたのでした。そのため、今の土台を1m分水面に沈めなければならなくなったところです。(ふー、樹脂水面って、表面張力で石垣に接しているところが盛り上がるんですよ。これが許せなくて、上にのせるつもりだったのに・・・不要だった工夫が必要になりました。)

 前回、ぐるぐるになった本丸、山里丸、仏具山、各面の石塁の高さ、現金蔵地表面高との差など、整理する必要があったので「大阪実測図」に雁木の段数などを記入した図を作りました。あわせて、「大坂御城絵図」の一部(小天守台は薄茶色、その他は茶色、長屋建物の天守台接続部分は私の書き足し)も重ねてみました。ピッタリ合いませんねえ、図中天守台左下の御成門之内櫓と小天守台及び新金蔵と長屋建物を合わせると、天守台右下の元金蔵(茶色)と月見櫓がズレます。建物規模などは精緻に描かれていても江戸時代の図面なので、建物間の距離や石垣面の角度は正確には取れていないためだと思います。

 高さのほうについては、国土地理院地図で標高を調べ、天守台を除き、本丸の最高点になる本丸北面の櫓台を黄土色で着色しています。本丸東の糒櫓から北ノ手櫓、姫門、埋御門向櫓、御成門之内櫓までが標高32.9mで同じ高さとしています。薄い黄土色の糒櫓の南側、仏具山と多聞櫓、月見櫓台の高さは、糒櫓との石垣高差が1.8m(自分で測ったのも、松岡利郎先生の図面も同じ)低くなっているので31.1mとなりますが、この高さは天守台西側の現在の地表面の高さとほぼ変わりません。以前に記していましたが、私は本丸西側平面より東側平面の方が1mぐらい高いのではないかと先入観を持っていたので、ここでとても混乱した訳です。

 天守台西側地表面を約31mとしていたので、これが東側平面と同じだと仏具山に高さが無しになるためです。先入観を捨て無ければなりません。どうやら天守台周辺が少し高くて、東側の平面は全体的に低いのであろうと。あと、諸絵図の右下の階段は東に向かって降りていくものと解釈できます。2段あるので50㎝ほど下がるのでしょう。

 図中の青い線は、「大坂諸絵図廿九御天守台図」に記載のある「溝」でして、「大坂御城絵図」にもこの線はあり、一致するので天守の雨水の排水路なのでしょう。国立公文書館か東京都立図書館のどちらの所蔵資料か忘れましたが、江戸城の排水路を入れた図面を見たことがあり、大坂城でも集水桝や石垣に突き出た石樋が複数あるようなので都市計画のように考えられた排水路配置があったものと考えられます。

 結論的に言えば、現在の地表面は、江戸時代に比して平均40㎝から1m程度高くなっていて、石垣高は変わらないので、地表面のみ現在の標高から低くしなければならないということです。これを確定させるのに悩んで作業ストップしているところです。 

徳川大坂城模型制作(ぐるぐると考証ばかり)

 模型の範囲を拡大したので、今まで図面を作成していなかった山里丸、本丸東側を調べています。

 最初の図面は、大阪市立中央図書館蔵「明治22年内務省作成大阪實測圖」の大阪城部分の一部でして、この模型に取り掛かるときに模型のベース図面に使う資料として私がコピーしてきたものです。明治初期の測量のもので、細かくみると、石垣角の角度に誤差などが認められたので結局ベースとしては使用していませんが、小天守西側(図の下側)に「御門」の跡が残っていたり、山里出桝形内に雁木が残っていたり、幕末時の大坂城に近い状態がわかるものとなっています。(もちろん、この時点では、お城ファンとしては好ましからざる英国人技師パーマー設計の配水池もありません。)

 範囲を広げると右図のオレンジの枠が対象となります。まず、山里丸東菱櫓の櫓台の形状ですが、なんと前回桔梗閣さんに情報提供いただいた図面のとおりで、菱型になっておりません。別に公園にするなどの目的がない明治初期に積みなおしする理由もわかりませんし、この形状に入る菱型(おそらく正確にいうと平行四辺形ですが)となると、大坂御城絵図にあるような寸法では収まらなくなります。(ふー、いろいろでてきますねえ。)

 次に本丸北東の糒櫓付近ですが、「仏具山」(松岡利郎著「大坂城の歴史と構造」p150)の形状が描かれており、石垣東面の天端とほぼ同じ高さでフラットになっています。「山」は下にある月見櫓跡の手前までとなっているようです。前回の現地調査で、配水池の工事土砂を積んだのだろうなどと、勝手に怒ってみましたが、元々、石塁がなくフラットであったようです。(反省します・・・)

 現在、模型の土台を作成しているのですが、最終の各櫓の土台の高さ、多聞櫓の土台の高さを確定させようと四苦八苦しているのです。糒櫓跡(右中央)で、標高約33mにすると月見櫓と連なる多聞櫓台の標高は31.2m、そこから、この図の右下の雁木(現地調査で5段×24㎝)1.2mで、本丸平面は30.0mとなります。

 しかし・・・です。基本的に、城跡ですから、元の地上面は埋もれているわけでして、例えば天守北にある姫門から東へ続く石塁の雁木は、今は9段しか露出していませんが、2007年の大阪市文化財協会の発掘報告によれば、11段であることが判明しており、徳川期の地表は現在より2段分以上(約50㎝以上)低いところにあった訳です。ちなみに徳川期の地表面が出ている現存金蔵周辺と現在の地表面との差は約48㎝でした。

 石垣高は変わることはありませんので、各段を減算して合わせていく、かつ、模型は内堀の水面から作っているので、それでちょっと整理がつかなくて、だらだら状態となっています。(ちょっと疲れも出たかなあ)

 話題を少し変えます。先週大阪城天守閣で特別展「幕末大坂城と徳川将軍」を見てきたのですが、いつも参考にしている宮内庁蔵「大坂城櫓写真種板」の現物が展示されていました。これが15センチ程度の木枠に収まったガラス板で、その小さいこと、驚きました。もちろん拡大された写真も掲げてあり、あらためて大坂城の三重櫓の姿に感激したところです。

 私にとって初見だったのは、金沢美術工芸大学蔵のイギリス軍人ウイリアム・サットン撮影の写真でして、まず桜門付近を撮影したもので、本丸南西の鉄砲奉行預櫓に本丸南面の多門櫓、桜門、霞んではいますが、南の手御櫓も写っています。さらに本丸内の大広間と白書院が写る本丸御殿の写真は、ため息がでるほど感動しました。「こんな写真があったのか」ってね。(小さい画像のものが、大阪城のHPに掲載されていますので興味のある方はご覧ください。)

 ここ1週間、この図録をずっと眺めているのですが、掲載されている写真に触発されて、ちょっとした発見もありまして、以下の元の写真を閲覧できるリンクを貼っておきます。

〇 長崎大学ボードウィンコレクション 写真番号6188
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/jp/21.php?mode=0&page=2
  大坂城京橋口をのぞむもので、写真左、橋の上のこちらを向く男の頭上、松林の間に三重櫓(東西棟)が写っています。こ、こ、これは!

〇 宮内庁蔵「大坂城櫓写真種板」 写真番号35 
http://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000520960000/30e4efb5b2a14da4b6f87ef890a53813
  特別展では、この写真の展示、掲載はなかったのですが、写真右、最初に石垣が折れ曲がった場所の上部、松林の間に同じく三重櫓(東西棟)が写っています。こ、これもか!

 地図や図面などと突き合わせますと両方とも、天守・姫門西にある「武具奉行預櫓」の北西からの姿であると考えられます。(知りたがっている南に続く多聞櫓との屋根接続は、惜しいかな確認できせん。)
 しかし、松岡利郎先生の「大坂城の歴史と構造」の中でも、「西面の初層に千鳥破風か切妻破風の張出型石落としをつけていたらしい」とされていた破風の形が確定できます。大坂城の櫓の切妻破風の場合、壁面の半分程度の高さに棟があるので、この櫓はそうなっておらず、千鳥破風であると断言できます。

 (やったー、発見したー、嬉しいー、なにゆえこんな喜ぶかというと、大阪城に展示していある1/350徳川大坂城模型では、切妻破風と解釈されているためで、独自考証で別案が出せると思ったからです。まあ、誰か他の方がもう既に見つけられているかも知れませんけどね・・・)

徳川大坂城模型制作(またまた大坂城訪問)

 徳川大坂城模型作成記事の続きです。土台について拡大することにしたので、さっそく現地を調べに行きました。山里口門の各石段の高さ、奥行などです。山里丸地上面からマイナスしていき、桝形内の高さを算出する算段です。また東菱櫓や糒櫓、月見櫓の土台の現状を確かめる目的もあります。配水池の北側、東側は、木々が鬱蒼として観光客も立ち入らない場所になっています。(静かでいいんですけどね)

 以前金明水井戸の古写真をヤフオクで落札したのですが、山里丸の古写真を探していると大阪城再興時の公園整備されたものを見つけ、落札したので、それからご覧いただきましょう。たいていは、天守閣と紀州御殿が中心の観光写真ですが、たまに史料とも言えるものが出るので、けっこうチェックしているのです。写真は、天守閣高覧から山里丸北東方向を見下ろしたものになっております。右下に配水池が写り、本丸北側の雁木が鮮明に確認できます。右端には、現在は閉鎖されている山里丸への階段口があります。(この門は昭和期に通路確保のため作られたもので本丸北面石垣に穴を開けるというとんでもないことをしています。)

 東菱櫓跡はといえば、白い折れ曲がった屋根の東屋が建っているようです。土台は・・・樹木でよくわかりません。現在の写真を見てみますと、通路にあわせてへこんでいます。私が模型のために作成している平面図では、この写真の通路のまんなかあたりまで、石垣が鈍角に突き出ていなければならないところです。写真石垣の右側と左側では積み方が異なるようで、左側は公園整備時の積み直しだと思われます。(模型では、この土台石垣パターンを飛び出した形で使うこととします。)

 西片菱櫓跡ですが、古写真では藤棚のある休憩場所にしてあるようです。現在は、豊臣落城の際、秀頼、淀君に殉死した人たちを弔う仏像が祀ってあります。(ちなみにこの仏像は、仏像自身が必死に祈っているお姿をされていて、非常に印象深いです。)土台などは、あまり変化はないようです。雁木は写真よりも1段分埋もれているぐらいです。

 本丸北側から糒櫓跡へ向かう通路の写真が次のものです。画像を少し明るくしていますが、暗い雰囲気の漂う場所になっています。山里丸への通路口が残っていますが、手前左側の雁木は旧状を保っていません。太平洋戦争時に米軍の直撃弾にあって破壊されたためです。

 さらに東へ進んでいくと、糒櫓跡に到達します。こちらも、お祀りしてあるのですが、疲れた私は、石垣幅などの計測のみで確認しておりません。「長辺が約16m40㎝、短辺約14m80㎝!ふー、8間×7間の建物サイズに合ってる、合ってる」って感じです。(手は合わせてますが、お稲荷さんかな、ばちあたりです。)

 ここからは、本丸東側の高石垣に沿って、月見櫓の方向へ行きました。台風の影響で配水池の木が倒れており、進入禁止部分もあったところですが、とにかく測りに行きました。
 しかし、櫓があったことを思い起こさせるものが何もないのです。写真でもおわかりになるかと思いますが、多聞櫓が続いていたはずですが、雁木もなく、まったくの平面で、写真奥、柵のつきあたりが、月見櫓跡となります。

 やれやれ、もともと高かった地面高に明治の配水池工事の土を盛って、石塁と同じ高さに合わせたのでしょう。模型のこのあたりは、古図面での推測で作るしかないようです。一応、例の金蔵の近くに来ていたので、金蔵の地面高から、月見櫓の地面高までの高さは、測っておきました。それでも約160㎝も差があるんですよ。

 帰りに大阪城の特別展「幕末大坂城と徳川将軍」を見てきました。図録も購入しましたが、見たことがない写真など、私にとって狂喜乱舞の内容でした。内容は転載できませんが、感想は次回にするとして、今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(土台作成4)

 徳川大坂城模型作成記事の続きです。土台については、一応、西片菱櫓、山里口門、東菱櫓を含め、本丸北東の糒櫓、月見櫓を含める部分までを模型化することにしました。

    もちろん山里丸にあった加番小屋も含めることとなります。下の図は、国立国会図書館蔵「大坂御城御本丸并御殿絵図」で「大坂御城絵図」と同様に建物規模が記載されています。ただし、加番小屋については、両方とも記載されていません。
 加番小屋については、大阪城天守閣蔵の「山里御加番小屋絵図」があり、ここから平面規模などがわかるものとなっています。本家・役宅(加番役大名の屋敷)と同心や与力の長屋が周囲に配置されています。この長屋の仕様、例えば屋根が瓦葺きなのか、板葺きなのか、また悩ましいところではあります。宮内庁蔵の幕末大坂城写真に写っている建物には、瓦をスキマをあけて置いただけの板葺きのものがけっこう多いのです。加番長屋の屋根もそうではないのかと疑っています。
 また、天守台東側は空地が広がっており、さらに糒櫓周辺は高台のようになっています。ちなみに松岡利郎先生の「大阪城の歴史と構造」に掲載されている徳川幕府再築大坂城縄張図には、私は元史料は分からないのですが、この盛り上がったところに「仏具山」と記載されています。
 ここの標高は基準点があって、32.9mとなっていて天守西側よりも1m強高くなっています。
 もうひとつ悩ましいのが、「大坂御城御本丸并御殿絵図」に見られる焔硝蔵(火薬庫)です。現行西の丸に現存している焔硝蔵は、1685年築造で、青屋口にあった焔硝蔵が落雷で大爆発を起こした後に、新たに作った頑丈な石造火薬庫でして、これ以前の仕様が分りません。絵図からは、おそらく周りを古墳のように土盛りで囲んでいるもののように見えますが、屋根はあったのか、半地下としていたのか、分かりません。

上の図面が国立国会図書館蔵「大坂御城絵図」に描かれた焔硝蔵、下が「大坂御城御本丸并御殿絵図」に描かれたものです。上のものは建物を描いたというよりは、中に格納されている「唐銅焔硝箱16こ」を表しただけだと思われます。建物にしては、柱なども描かれていませんし、焔硝箱にしても巨大すぎると思います。この図には本丸南にもう1か所同様な唐銅焔硝箱置き場所が描かれていますが、奇妙な印象で、どういう意図であったのでしょうか。

徳川大坂城模型制作(土台作成3)

     徳川大坂城模型作成記事の続きです。土台について10/22の記事のあんけんさんのコメントで、菱櫓を含めた山里丸全体の追加リクエストをいただいたところです。
 
 菱櫓とは、山里丸にある東菱櫓と西片菱櫓で、特に東菱櫓は平面が菱型の二重櫓で、屋根も北西と南東角が鋭角で「悉皆菱型ヨリ成リ亦奇観ヲ極ム」とされる櫓です。私は根拠史料を知らないのですが、豊臣大坂城の復元イラストなどにも描かれており、徳川大坂城では、2代目になると思いますが、宮内庁蔵の幕末大坂城写真に、なにか錯覚を呼び起こすような、その奇妙な姿を見ることができます。模型としては、非常に作ってみたくなる櫓であることは間違いありません。

 ただし、山里丸全体を追加すると、そこにあった山里加番の建物を復元することにもなります。これがけっこう多いんで、正直避けていたところもあります。なにせのろまなモデラーですので、あまり模型化範囲を広げると時間がかかりすぎてしまうと思ったからです。

 とりあえず、山里丸と本丸東側の石垣を追加できるよう追加土台を作りました。山里口門も再現が必要になります。ここには極楽橋もかかっていたわけで、「橋」好きの私は、これも含めたくなるところです。

 どうしようか・・・迷っております。