模型の範囲を拡大したので、今まで図面を作成していなかった山里丸、本丸東側を調べています。
最初の図面は、大阪市立中央図書館蔵「明治22年内務省作成大阪實測圖」の大阪城部分の一部でして、この模型に取り掛かるときに模型のベース図面に使う資料として私がコピーしてきたものです。明治初期の測量のもので、細かくみると、石垣角の角度に誤差などが認められたので結局ベースとしては使用していませんが、小天守西側(図の下側)に「御門」の跡が残っていたり、山里出桝形内に雁木が残っていたり、幕末時の大坂城に近い状態がわかるものとなっています。(もちろん、この時点では、お城ファンとしては好ましからざる英国人技師パーマー設計の配水池もありません。)
範囲を広げると右図のオレンジの枠が対象となります。まず、山里丸東菱櫓の櫓台の形状ですが、なんと前回桔梗閣さんに情報提供いただいた図面のとおりで、菱型になっておりません。別に公園にするなどの目的がない明治初期に積みなおしする理由もわかりませんし、この形状に入る菱型(おそらく正確にいうと平行四辺形ですが)となると、大坂御城絵図にあるような寸法では収まらなくなります。(ふー、いろいろでてきますねえ。)
次に本丸北東の糒櫓付近ですが、「仏具山」(松岡利郎著「大坂城の歴史と構造」p150)の形状が描かれており、石垣東面の天端とほぼ同じ高さでフラットになっています。「山」は下にある月見櫓跡の手前までとなっているようです。前回の現地調査で、配水池の工事土砂を積んだのだろうなどと、勝手に怒ってみましたが、元々、石塁がなくフラットであったようです。(反省します・・・)
現在、模型の土台を作成しているのですが、最終の各櫓の土台の高さ、多聞櫓の土台の高さを確定させようと四苦八苦しているのです。糒櫓跡(右中央)で、標高約33mにすると月見櫓と連なる多聞櫓台の標高は31.2m、そこから、この図の右下の雁木(現地調査で5段×24㎝)1.2mで、本丸平面は30.0mとなります。
しかし・・・です。基本的に、城跡ですから、元の地上面は埋もれているわけでして、例えば天守北にある姫門から東へ続く石塁の雁木は、今は9段しか露出していませんが、2007年の大阪市文化財協会の発掘報告によれば、11段であることが判明しており、徳川期の地表は現在より2段分以上(約50㎝以上)低いところにあった訳です。ちなみに徳川期の地表面が出ている現存金蔵周辺と現在の地表面との差は約48㎝でした。
石垣高は変わることはありませんので、各段を減算して合わせていく、かつ、模型は内堀の水面から作っているので、それでちょっと整理がつかなくて、だらだら状態となっています。(ちょっと疲れも出たかなあ)
話題を少し変えます。先週大阪城天守閣で特別展「幕末大坂城と徳川将軍」を見てきたのですが、いつも参考にしている宮内庁蔵「大坂城櫓写真種板」の現物が展示されていました。これが15センチ程度の木枠に収まったガラス板で、その小さいこと、驚きました。もちろん拡大された写真も掲げてあり、あらためて大坂城の三重櫓の姿に感激したところです。
私にとって初見だったのは、金沢美術工芸大学蔵のイギリス軍人ウイリアム・サットン撮影の写真でして、まず桜門付近を撮影したもので、本丸南西の鉄砲奉行預櫓に本丸南面の多門櫓、桜門、霞んではいますが、南の手御櫓も写っています。さらに本丸内の大広間と白書院が写る本丸御殿の写真は、ため息がでるほど感動しました。「こんな写真があったのか」ってね。(小さい画像のものが、大阪城のHPに掲載されていますので興味のある方はご覧ください。)
ここ1週間、この図録をずっと眺めているのですが、掲載されている写真に触発されて、ちょっとした発見もありまして、以下の元の写真を閲覧できるリンクを貼っておきます。
〇 長崎大学ボードウィンコレクション 写真番号6188
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/jp/21.php?mode=0&page=2
大坂城京橋口をのぞむもので、写真左、橋の上のこちらを向く男の頭上、松林の間に三重櫓(東西棟)が写っています。こ、こ、これは!
〇 宮内庁蔵「大坂城櫓写真種板」 写真番号35
http://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000520960000/30e4efb5b2a14da4b6f87ef890a53813
特別展では、この写真の展示、掲載はなかったのですが、写真右、最初に石垣が折れ曲がった場所の上部、松林の間に同じく三重櫓(東西棟)が写っています。こ、これもか!
地図や図面などと突き合わせますと両方とも、天守・姫門西にある「武具奉行預櫓」の北西からの姿であると考えられます。(知りたがっている南に続く多聞櫓との屋根接続は、惜しいかな確認できせん。)
しかし、松岡利郎先生の「大坂城の歴史と構造」の中でも、「西面の初層に千鳥破風か切妻破風の張出型石落としをつけていたらしい」とされていた破風の形が確定できます。大坂城の櫓の切妻破風の場合、壁面の半分程度の高さに棟があるので、この櫓はそうなっておらず、千鳥破風であると断言できます。
(やったー、発見したー、嬉しいー、なにゆえこんな喜ぶかというと、大阪城に展示していある1/350徳川大坂城模型では、切妻破風と解釈されているためで、独自考証で別案が出せると思ったからです。まあ、誰か他の方がもう既に見つけられているかも知れませんけどね・・・)