徳川大坂城模型制作(仏具山の形)

 本丸天守東側にあった仏具山についていろいろ史料がないかあたっていました。昭和53年に大阪城天守閣で実施された「大阪城古絵図展」(大阪市、日本古城友の会)の図録を持っているのですが、その中に個人蔵の(32)77.0×55.0及び(52)64.8×64.5の2枚の大阪城図が掲載されています。ここに実物の仏具山をスケッチしたと思われる姿が描かれています。もちろんコピーして掲載できませんし、図録ですからあまり詳しく読み取れないものです。いきなり下手な絵で申し訳ないですが、形状を私なりに、フリーハンドで写してみました。左の四角が糒櫓、右のものが月見櫓となり、その下に稲荷社の鳥居が描かれているようです。仏具山らしき山は、かなり大きく描かれており、以前紹介した「大坂錦城之図」のものは単に山の記号みたいなものだったなと思われるところです。

 背後に三角に描かれているのが樹木で手前の盛り土のようなところが、言わば稜線ということでしょうか、実物には文字なども書き入れられているようですが、図録の小さなものでは判明しないです。これに合わせて自分の徳川大坂城模型の仏具山も少し盛ってみました。プラパテだらけのものなので写真の掲載はまたの機会にさせていただきます。実物の絵図か、もう少し精細な図を拝見したいところです。大阪城天守閣さんも、またがんばって、いろいろお声がけしていただき、古絵図展などを開催してほしいところです。

 ところで、先日、大阪城の石垣から人が内堀に転落して亡くなったとの報道がありました。テレビなどを見てると山里出桝形の天端石からのようですね、あそこは柵がなくて、石垣頂点に腰掛けることができる場所となっています。(もはや、城内のほかの石垣では、そんな場所はなかったと思います。)たいてい海外からの観光客が鈴なりになって腰かけていますね・・・写真参照

 ご心配していただいたのか、この日のブログへのアクセスが大きく上がっていました。わたしは高所恐怖症でして、撮影の必要がある以外あそこには座りません。

春の和歌山城訪問(桜はほぼ終わっていた・・)

 ブログ更新を1週間とばしてしまいました。申し訳なかったです。3月末から急に暖かくなって、桜前線も素早く駆け抜けてしまって、ゆっくり見る機会を持てませんでしたねえ。お城でお花見というのは、静かにお城を眺めたいというのがあるので、自分の中では好ましい組み合わせになっていません。(拒否するほどではないですが、人が少ない方がいいですから)

 そんなことを言いながら、桜が残っていることも期待して和歌山城に行ってきました。残念ながら、多くは葉桜になっていて、ほぼ散ってしまっていました。本当の目的は、徳川大坂城の小天守台に本丸御殿から多聞櫓か橋廊下がつながっていたようで、橋廊下であるとすれば、実物は和歌山城に復元されているので、一度それを詳しく見たかったからです。(次の図は橋廊下近くに掲示してあったパネルのもの)

 気になっていたのは、瓦の葺き方でして、橋廊下は傾斜して架けられていますから、屋根瓦を地面に対して垂直方向に葺いているのか、大棟に対して直角に葺いているのかを見ておきたかったのです。説明パネルに図面が掲載されていたので載せておきます。うーん図面では、瓦の葺き方は描かれていないです。

 橋廊下の内部をのぞいてみますと、けっこう傾斜のある廊下となっています。

もちろん内部にも入れるのです。おもしろいのは、床が階段状になっているのかと思いきや、逆のこぎりの歯状というのか、やすり状というのか強力な滑り止めがかけられていました。土足厳禁なので足の裏に食い込みましたね。

 瓦葺きのほうですが、実物はというと、写真から確認できるように、平瓦と丸瓦を一つにまとめた桟瓦(さんがわら)を大棟に対して直角方向に葺いているようですね。発掘では本瓦も出土しているようですが、専用の桟瓦(左右それぞれのもの)が用意されて葺かれていたようです。桟瓦の発明は延宝2年(1674)と伝えられていますので、それ以降となるのでしょうか。発掘されたものを見ると「蝋燭桟瓦」ではなく、完成形のほうなので時代的には、もっと下っているのかも知れません。

 徳川大坂城小天守に斜め橋廊下が屋根付きで架かっていたのならば、時代的には桟瓦はなく本瓦となりますが、葺きにくいものになっていたであろうなと思います。

徳川大坂城模型制作(仏具山の現状)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。国会図書館蔵の明治38年の「大阪市圖」の大阪城部分の画像からご覧いただきましょう。あまり精細に描かれてはおりませんが、明治38年ですから既に配水池は設置されています。少し天守側に近すぎるように思います、注目すべきは配水池東側の仏具山と周辺の土盛部分が残った状態で描かれております。配水池の周囲は現在は急な斜面となる土盛りがされていますが、こういう状態が一時期でもあったのでしょうか、配水池の完成時の写真でも残っていれば判明するんでしょうけど、わかりません。

   この地図の山里丸東菱櫓台は、櫓台になっておらず多聞櫓台の幅が、そのまま延長されたものになっています。明確に櫓台と分かるようになっていなかったということでしょうか。天守台西側の御成門之内御櫓の櫓台も描かれていません。当時は櫓台などに関心がないのも仕方の無いことかもしれません。
 ところで、前々回の記事で仏具山の位置はどこだったのかなどと書いておきながら、現状の写真も載せておりませんでした。このあたりであろうという写真も撮影してきているのですが、ぜんぜん当時をイメージできるものとなっていなかったためです。仕方なくグーグルアースの画像でその場所を示しておきます。右の建物は、配水池の管理事務所と思われます。写真は南から北側を見ており、左の傾斜が配水池の土盛りです。仏具山は、この斜面に埋もれていて、これを見ると冒頭紹介した「大阪市圖」の描かれ方は少し不思議なのがお分かりになると思います。

 徳川大坂城模型の進行状況ですが、山里丸北東側の雁木、東菱櫓台を作りました。東菱櫓台はどうしたんだって?もう解釈するしかないですから、現状のものは「積み直しされたもの」としました。かつては、あと1m広い幅があったと解釈です。形は菱型ではなく、「く」の字型としました。

 ついでに周囲より少し高くなるよう仏具山を追加してみました。これは高さなど一切史料はありませんが、「山」と認識される程度の土盛りがあっただろうという形状にしています。

南條亮ジオラマ記念館に行ってきました

 今回は徳川大坂城制作記事から少し離れて、気になっていたジオラマ展を見てきたので、その感想の記事といたします。

 通天閣3階に展示してあるルナパーク(旧通天閣の周辺の公園)ジオラマなどの作者南條亮氏の作品で、2001年から全国各地で展覧会を開催された「人間、この愚かですばらしきもの展」とタイトルされていた作品群(当時テレビなどでも紹介されたかと思います。)が、現在、大阪府泉佐野市にある「いこらもーる泉佐野」というショッピングモールに設けられた「南條亮ジオラマ記念館」に常設展示(入館無料)されているのです。

 懐かしの昭和というタイトルが付けられていますが、作者が「ごあいさつ」の中で、二十世紀「私たちが歩んできた時代と生きてきた姿をもう一度見つめ直すことは決して無駄ではない」との思いから、庶民の生きざまを人形の姿を通してドキュメントジオラマとして制作したと書かれています。

 ただ、明治から戦後高度成長期までの100年を作る予定を持っておられたものの、「体力年齢から作品を構想通り完成させることが難しくなりました」とされています。

 この方のジオラマの人形は、喧嘩をしていたり、仕事をさぼったり、怒鳴ったり、なにか昔へのノスタルジーだけでない、生身の生態で表現されています。

 また、顔立ちもお上品なものばかりでなく、近所や身近にいそうな、やや面白い顔立ち、さらにそれぞれの表情を豊かにするよう約5頭身程度のデフォルメが加えられていて、人間の「愚かですばらしき」姿を表現されています。

 各シーンを切り取って、じっくり見てみると、それぞれ、なんらかのドラマが考えられていて、思わずニヤリとさせてくれます。

 八百屋の店先に並んだ野菜や果物も良く作り込まれています。

 左の建物が銭湯で、右がかき氷屋です。風呂屋に燃料となる木炭を馬で運び入れています。もはや懐かしい風景というよりかは昔の生活風景はこうだったという歴史資料となりますね。作者はかなりのリサーチをされて風景の再現をされています。

そして、銭湯から出てくるオッサンの表情が味のあるこれですから、たまりませんねえ。大阪人はこういう感じの人を面白いと思う感性を持っています、私なんぞにもよく分かります。

 これは、明治の道頓堀の風景を再現されています。

 右は道頓堀の料理屋に、魚が仕入れられ、なにやら盆栽も運ばれてきたシーンでしょうか。

 隣の料亭の2階では昼間から酔ったのか踊る客もいて、騒がしいようです。とにかく凄まじく作り込まれています。

 私の感想ですが、ジオラマという名称でこの作品は説明されてしまいますが、例えば、切り取られた歴史的事件の再現(勝手な思い込みや想像)シーンで作られたジオラマなどではなく、明治からの街と人間の営みの風景を、人間の普遍性をも表現する壮大な歴史叙事詩作品として残そうと南條亮氏は思い描いておられるのだろうと思います。そういう意味では、絵画や音楽などの芸術と同じ高みに至った作品群であると感じたところです。

 これらの作品はいずれも撮影可とされており、また、SNSなどでの拡散希望とされており、今回、自分で撮影した写真で紹介させていただきました。近くにお立ち寄りの際は是非とも見学されるべきかと思います。また、よくよく観察して人形達の個性とそのドラマを見つけてみるのは楽しいと思いますよ。

徳川大坂城模型制作(菱櫓の幅2)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。今日は、山里丸東菱櫓の櫓台の形状がどうももやもやしていて、スッキリ作業に入れないので、大阪城に行ってきました。春めいた日差しもあって気持ちよかったです。もちろん菱櫓台跡だけを見に行くのでなく、気になっている箇所の確認も目的にあります。

 例えば本丸北東の「仏具山」など一体どういう形の山だったのか、現状からはどの位置になるのであろうかなどです。以前城内のパネルで紹介されていた「浪華城全図」には地面の盛り上がった部分で描かれていましたが、「大坂錦城之図」には山の形に「仏具山」との文字が書き込まれ、「ケサ掛松」(蓮如袈裟掛松)「生害松」(秀頼生害ノ松)の文字もあります。いつも使っている大坂実測図に写し取ってみたのが以下の図です。宮内庁の幕末大坂城写真(43/49)にも糒櫓の左の近くと、さらに左に並んで大きな松の木が写っていますが、これらがケサ掛松と生害松なのでしょう。

 さて、菱櫓台ですが、7間(約13.7m)の辺と6間(約11.8m)の辺が鈍角約120度の平行四辺形になっていれば、菱櫓は入ることとなります。現地で現状の櫓台の端から東側石垣天端石まで(平行四辺形の高さ)を測りますと8m90㎝でした。

   やっぱり足りません。10mは必要でして・・・やれやれです。

   私が使っている、この模型用の図面でしめしてみると、ちょうど菱櫓の左上がはみ出ているのがお分かりになると思います。図面のマルBの面は、戦時中に爆撃を受けた近くなので積み直しの可能性がありますが、マルAの面は見た限りでは従前のままの石垣に見えるところです。菱櫓の短辺が実は6間でない可能性もあると見るべきでしょう。(謎になってしまいました。)

徳川大坂城模型制作(菱櫓の幅)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。

 山里丸の雁木を作っているのですが、東菱櫓櫓台の形状について決着をつけなければならない段階です。最初の写真は左に山里門を内側から見たものです。中央の折れ曲がった新しく積まれた雁木は、平成23年に大阪市教育委員会等が発掘調査して判明した旧状に復元されたものです。(素晴らしいではありませんか。)

 大坂城を訪問するたびに雁木の高さを測るクセがついてしまっていて、駅や、家の階段を上がるだけで「ここは1段25cmぐらいかなあ」と思うようになってしまいました。

 ここの雁木は1段27㎝程度でして、写真からは10段積に見えますが地面に1段埋もれています。なので基本が11段(高さ2m97cm)で本丸石垣に近づくにつれて徐々に埋もれていくようになっています。現状石垣のふもとでは7段になっています。(写真中央に女性が写っていて、なんで私を撮るのって顔をされています。「別にあなたを撮りたいんじゃなくて、あなたの横の菱櫓の石垣パターンと雁木の埋もれ具合をとりたいのですー」とは言わず、顔をボカシてます)

 前回、山里丸東面の建物長さを国会図書館蔵「大坂御城絵図」から27間(約53.17m)と割り出してみましたが、実は「大坂御城御本丸并御殿絵図」の方では25.5間と見えるところでして、すると約50.2mでずいぶん差があります。こうなると現地調査に行きたくなります。グーグルアースで計測してみると50.23mなどの結果が得られるところです。グーグルの計測は、まあまあ正しい数値が出てくるのでこちらでいくべきなのでしょう。

 さてさて、菱型になっていない菱櫓台の問題ですが、「大坂御城絵図」では東西面7間、南北面6.5間と、「大坂御城御本丸并御殿絵図」のほうでは、東西面7間、南北面6間と見えますね。もちろん菱型(平行四辺形)なので、建物の短い方の幅は、図面上で作図してみると約10mとなるところです。

 現状残っている櫓台にこの幅があれば、そのまま菱櫓が入るのですが、私の持っている図面で8m60cmで幅が足りません。グーグルアースでは約9mと出てきます。(惜しいです。やっぱり櫓台を膨らませるしかないのでしょうか) 

 逆方向からの写真ですが、先ほどの女性はどいてくれないようですね。

徳川大坂城模型制作(山里曲輪東面)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。作業をどんどん進めていきたいところですが、そろそろ多聞櫓なども意識しなきゃいけないなと思っています。作業的には本丸の雁木などを作り上げれば、いよいよ石垣にかからねばなりません。

 まず、各面を作り上げて、その面に合せて石垣の写真からパターンを写しとり再現したいと思っています。(城王さんがカーボンコピーで写されているのを記事で紹介されていたので、私もその手法を使わせていただこうと決めています。)多聞櫓、三重櫓などは、その後となるので、遠い道のりとはなります。

 前回、その位置決めに四苦八苦していた砂留ですが、まだ引きずっているところです。写真は、私が本丸北東の糒櫓跡から手を伸ばして撮影した山里曲輪の石塁を見下ろしたものです。いろいろと不明なところも出てくるところですが、まず、右端の青白矢印の先に石樋があります。そして石塁の上の赤白矢印は笠型の鉄砲狭間に小さな三角の欠け部分があり、前回紹介した現地説明会資料の平面図に写真の欠けた部分が描かれています。ちょうど小さな丸い樹木の右となっており、この欠けた部分からちょうど西側に砂留があったことになります。図面の縮尺は割り出せるので一応位置は確定です。良くわからないのは、銃眼石にほぞ穴がありまして、当初これは柱のほぞ穴と解釈していました。つまり1間(6.5尺幅)で、これを基準にすれば実に便利と思っておりましたが、違いました・・・約1間半で、銃眼の幅と同じようです。(ほとんどの銃眼石に入っているので、もう少し調べるつもりです。)

 ついでに、多聞櫓もチェックしておくかということで、先週記事トップに載せた山里曲輪東面石垣の写真と宮内庁蔵の菱櫓の写真を照合してみました。古写真の石垣の石はそのまま残っていますから、現在の写真から同じ石を探し出し、その上の菱櫓の石落しの位置、窓の位置も割り出せます。写真ですので両端には歪があるでしょうが、こんな感じとなります。

 ただし、大坂御城絵図は糒櫓側の石垣の奥行が入っていませんから、誤差が出てくると考えられます。菱櫓近くの窓の位置は、ほぼ確定ですが左半分の窓の位置は、すこし怪しいところです。大坂御城絵図に窓の数など文字で記入があるもののネットの画像は不明瞭で窓の正確な位置が分かりにくいのです。今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(山里曲輪の砂留)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。以前からですが、ブラウザがSSLで保護されていないサイト表示に注意書きを入れるようになってきました。「このサイトへの接続は保護されていません。」と表示されちゃうんですよねえ…無料ブログサービスなどの利用ではサーバー側が対応してくれますが、わたしのようなレンタルサーバーでブログを立てていると自分で変更しなければなりません。(いろいろ面倒そうで少しブルーになってしまっています。まあ、ぼちぼち用意してアナウンスします。見ていただいている方からのURLは変更する必要は無いようにしますので、ご迷惑はおかけしないつもりです。)

 制作のほうは本丸西側の雁木や櫓台を終了させ、山里曲輪の雁木にかかろうかとしていました。山里曲輪の東側は大阪文化研究所が2011年に行った発掘調査で排水施設が見つかっています。現地説明会資料
 砂留(集水桝)があって、ちょうどこの東面外側の石垣には本丸堀に排水用の石樋が見て取れます。図面を1/350に変換して正確に写し取って模型化しようとしている訳です。大阪城所蔵の絵図には、他の箇所にも「砂留」が描かれています。

 ただし、この図面からは本丸北面の石垣からの距離がわかりません。2間の土塀が掛けられていたのですが、まだ石垣面を作っていないので分らんのです。グーグルアースの上空写真などでいろいろ調べていましたら、「あれ?本丸糒櫓の向きって、こうだったっけ?うわわわ・・・」やっと気づいたのでした。

 松岡利郎先生もその著書「大坂城の歴史と構造」の中で、わざわざ「大坂御城御本丸並御殿絵図」の糒櫓は、「桁行と梁行の方位をまちがえて色紙を貼りつけているので、注意しておきたい」と書かれているのに、なんにも考えず同図面を使ってしまっているのです。まるで自分で落とし穴を掘ってそこに落ちるみたいなマヌケなことをしています。(はあー落ち込みますねえ、作業を急ぐとこんなことをしてしまうのですよ。私は・・・)修正するのに2時間程度かかりました。

 そんな訳で、まだ山里曲輪の雁木にかかっていません。こんなことがあったので、「大坂城の歴史と構造」をもう一度最初から読み返しました。
 見落としていたのが、以前の記事で触れた例の根拠を知らないとしていた「仏具山」でして、P165に由来が書かれています。「一同所北之方ニ大的参尺弐的場在り右を矢面山を佛具山と云昔元和の頃佛具を埋ミ候場所の地と伝ふ」(大坂錦城記)と引用がありました。元和6年(1620年)から徳川大坂城の普請(土木工事)が始っていますから、豊臣大坂城の焼けた残骸に仏具などが多くあって、このあたりに集めて埋めたのかも知れません。徳川期には、3尺(約90㎝)の的のある的場(弓の射的場)が2か所あったと読めるので、これも再現したいところです。広い空き地になっているのもこれで理由がわかるところです。

徳川大坂城模型制作(本丸北側櫓台づくり2)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。旧ブログでは作成進行状況が芳しくないときには旧作のお城プラモ写真でお茶を濁したものでした。いい写真が撮れればいいのですが、照明の準備とかいろいろと手間のかかり、そのくせ出来がいまいちだと、なかなか次のチャレンジをしなくなってしまいます。愛機DMC-LX9も飾ったままとなっていました。ひさしぶりに広島城を撮ってみたのが次の写真です。

 広島城南小天守でして、史料がほぼ残っていないので、建物としてのバランスというか、なんというか雰囲気で作ってしまっています。現在の徳川大坂城作成のスタンスからだと、作れなくなってしまいますね。

 次は東小天守です。これも私の感覚でのバランスで作ってしまっていますが、岡山城の櫓とか熊本城の櫓とか個性的な姿を持っており、案外キットの形状が実物に近いという可能性もあるなあと思い直しているところです。(根拠はありませんけど)
 これを見ていると細かいところで「下手だなあ」と自己嫌悪を感じてしまうところです。もっと正確に塗装もしたいし、柱などでももっと精密に組み上げたくなりますね。

 徳川大坂城模型の現状ですが、本丸北側の雁木などを作り上げたところです。奥御番所の土台部分も描いてありますが、これの位置も図面が変わると少しづつずれているところで、も少し西よりにするかもしれません。(この位置は「大坂御城絵図」によるものです。)

徳川大坂城模型制作(本丸北側櫓台づくり)

 徳川大坂城模型作りの続きです。本丸北側の櫓台、石塁づくりを行っています。またまた地味な写真となりますので、極楽橋について触れておきます。最初の写真は、先月大坂城に訪問したときの写真で、極楽橋から北側二の丸方向を撮ったものです。内堀側の石垣下部に橋の幅ぐらいになる穴が二つありまして、もしここに橋げたの支持材が入っていたなら、橋はもう少し西側に繋がっていたのではないかと考えるところです。

 次の写真は、古いもので申し訳ないですが、擬宝珠の数がぜんぜん足りませんが拙作駿府城の橋でして、作品数が少ないので旧作でも紹介しておかないと、ブログがもたないわけです。

 強度をかせぐためであるとは思いますが、古い日本の橋の多くがアーチ状になっており、これも少しだけ太鼓状に膨らませたつもりですが、いまいちのところでして、徳川大坂城の極楽橋をつくる際にはもう少し膨らんだ形状にするつもりではあります。橋を架ける土木技術体系が当時の一部の技術者に保持されていたのだと思います。現在はどうなっているのでしょうか、宮大工の方が継承されているのかも知れません。

 さて、徳川大坂城模型の方ですが、以下の写真のとおりでして、本丸北側の雁木を作ろうとしています。

 写真上部にある発掘資料に基づく雁木を11段にしたので、斜面になっている地面をあわせにくいところでして、手前から11段、中ほどで10段、奥で9段にするつもりです。

 北ノ手櫓台と糒櫓台の間の石塁、雁木があるところです。豊臣大坂城時代には天守があった場所で徳川大坂城においてもその部分の石垣をなぞるように北側に突き出しています。ここは太平洋戦争時、米軍のB29の直撃弾を受けて一部石垣が崩れた場所でもあります。惜しいのは戦後修復されてはいるのですが、当時は豊臣大坂城天守台跡が埋もれていることは知られておらず、調査もされていないようです。修復工事の記録写真などあれば、豊臣大坂城の天守石垣の一部ぐらい写っているかも知れません。(公表されている写真については目を皿のようにして探しましたが、私には見つけられなかったです。)

 手前仏具山から見た写真になりますが、右側の雁木の地面が少し高くなっているように作っています。天守北側の雁木は11段であるもののこの周辺については明治の図面では仏具山の続きになっているように見えるためです。正確な高さを示した図面もないので、ここは推測での高さとなります。ちなみにここの雁木の段数は8段から5段とみています。今回はここまでです。