徳川大坂城模型制作(本丸北側櫓台づくり)

 徳川大坂城模型作りの続きです。本丸北側の櫓台、石塁づくりを行っています。またまた地味な写真となりますので、極楽橋について触れておきます。最初の写真は、先月大坂城に訪問したときの写真で、極楽橋から北側二の丸方向を撮ったものです。内堀側の石垣下部に橋の幅ぐらいになる穴が二つありまして、もしここに橋げたの支持材が入っていたなら、橋はもう少し西側に繋がっていたのではないかと考えるところです。

 次の写真は、古いもので申し訳ないですが、擬宝珠の数がぜんぜん足りませんが拙作駿府城の橋でして、作品数が少ないので旧作でも紹介しておかないと、ブログがもたないわけです。

 強度をかせぐためであるとは思いますが、古い日本の橋の多くがアーチ状になっており、これも少しだけ太鼓状に膨らませたつもりですが、いまいちのところでして、徳川大坂城の極楽橋をつくる際にはもう少し膨らんだ形状にするつもりではあります。橋を架ける土木技術体系が当時の一部の技術者に保持されていたのだと思います。現在はどうなっているのでしょうか、宮大工の方が継承されているのかも知れません。

 さて、徳川大坂城模型の方ですが、以下の写真のとおりでして、本丸北側の雁木を作ろうとしています。

 写真上部にある発掘資料に基づく雁木を11段にしたので、斜面になっている地面をあわせにくいところでして、手前から11段、中ほどで10段、奥で9段にするつもりです。

 北ノ手櫓台と糒櫓台の間の石塁、雁木があるところです。豊臣大坂城時代には天守があった場所で徳川大坂城においてもその部分の石垣をなぞるように北側に突き出しています。ここは太平洋戦争時、米軍のB29の直撃弾を受けて一部石垣が崩れた場所でもあります。惜しいのは戦後修復されてはいるのですが、当時は豊臣大坂城天守台跡が埋もれていることは知られておらず、調査もされていないようです。修復工事の記録写真などあれば、豊臣大坂城の天守石垣の一部ぐらい写っているかも知れません。(公表されている写真については目を皿のようにして探しましたが、私には見つけられなかったです。)

 手前仏具山から見た写真になりますが、右側の雁木の地面が少し高くなっているように作っています。天守北側の雁木は11段であるもののこの周辺については明治の図面では仏具山の続きになっているように見えるためです。正確な高さを示した図面もないので、ここは推測での高さとなります。ちなみにここの雁木の段数は8段から5段とみています。今回はここまでです。

駿府城復元記(天守の姿を確定させるのは難しい)

     駿府城復元記の続きです。今回はいよいよ天守作成について書いてみます。私のお城プラモ作成は、壁面などはプラ板から作っていますが、屋根については市販お城プラモデルキットの部品を加工しています。目標とさせていただいている城王(JoO)の部屋の城王(http://members2.jcom.home.ne.jp/taka5/)さんや旧ブログではいろいろアドバイスをいただいた桔梗閣(http://balloonflower.hannnari.com/index.htm)さんは、屋根自体も丸瓦から自作されていて、いつか自分もと思ってはおりますが、駿府城作成の段階では、まだその境地に至っていなかったところです。

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  一体どんな天守であったのか、旧ブログでも一応の考察をいたしましたので、その再録となります。駿府城天守について記述されている史料は、当代記、慶長見聞録、慶長日記、増補慶長日記、武徳編年集成などがあるらしいのですが、少しづつ内容が異なっています。当代記と慶長日記をイラストにしてみますと以上のとおりです。それぞれの記述は各層の間数などはほぼ一致しており、七重の天守であることは一致しています。ただ、屋根の形状では破風の記載はあるもの、例えば比翼千鳥破風などとの細かい記載はありません。

  3つ目の天守イラストは、文書ではなく日光東照宮縁起絵巻の天守でして、七重目屋根には大きな唐破風があり、五重目に欄干が描かれています。絵巻では下から一重目から四重目までは描かれていませんが、遠望したときの外見的特徴(下見板張り、真壁造り)を捉えているものと考えています。

  他の駿府城の絵図、天守焼失後にもかかわらず東海道図屏風など描かれているものはあります。これも下見板張りらしく描かれており、最上階平側は柱4本で3間、妻側は2間となっていますが、いずれも正確に描いてはいないでしょう。また、天守六重目には向唐破風が妻側、平側の両方にあります。そして、三重の小天守も描かれており同じく下見板張りで、真壁造りであることも確認できるもので、天守と距離が少しあるように描かれています。画像は禁転載とあるので東海道図屏風リンクでごらんください。

  ここの解説にもあるように、現実に建っていた駿府城天守を描いたのではなく、なんらかの史料や口伝などから再現したのでしょうから、江戸時代においても駿府城天守は憧憬を抱かせる「御天守」だったと言えます。まずは外見が下見板張り、真壁造りであることの論拠にはなりそうですが、当時どんな根拠をもってこの絵を描いたのでしょうか・・・知りたいです。この絵の他の駿府城の絵は、ひょっとするとこの東海道図屏風を見て、真似て描いたか、それとも絵師たちのいわゆるお約束である粉本(ふんぽん:画家の技術を一定に保つため作られた摸写用の本)に従った天守像が描かれたと考えています。(一度粉本のお城の絵を見てみたいものです・・・)

  ところで、第一期駿府城の築城風景を描いたとされる名古屋市博物館所蔵の「築城図屏風」ですが、私はあったとされる幻の天守を含めた金沢城の築城風景であろうと思っています。天守一重目に描かれている唐破風出窓、本丸門の右側に描かれている大きな鏡石なども家康公の「お好み」ではないような気がします。下見板張りですが後に海鼠壁に変更されたと考えれば、金沢城の仕様に見えてくるのです。

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駿府城天守の制作ですが、実際は天守丸多聞櫓などと同時に作り上げています。それは、天守南東櫓と通路で接続されているためで、写真は一重目を天守台に入れてみて、その接続通路が合うよう調整しているものです。北東側に広間を作っていますが、天守の中にこんな柱のない広間は無理でしょう。二重目を乗せる段階で柱を入れました。

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二重目は舞良戸で閉じた状態、慶長日記の記述にある「四方縁あり」となっており、ここに前々回に紹介した7尺間(1間が7尺)の欄干を付けました。三重目にも「各四面に欄干あり」とあるのに従って、熊本城天守最上階の仕様を参考にしています。一重目にも二重目にも腰屋根はありませんが、当代記にも慶長日記にも記述がないためです。

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六重目まで組み上げた写真です一重目中央の向唐破風の出窓のような建物は、ちょうど天守台のこの位置に井戸があるので、それを囲むものです。天守の出入り口は左側に接続している橋でして、この上に通路となる二重櫓があるという想定です。

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七重目まで組み上げた写真です。最上部の屋根と六重目の妻側に大きな唐破風を取り付けています。これは童友社江戸城の四重目の唐破風を使っています。少し分厚い感じですが、自分で作る技術がないので仕方ありません。各重の屋根の色は、それぞれの素材の色にしています。最上階の屋根は、銅板張瓦ですから銅色で、やがて緑青のさびが出ますが、新築時は輝いていたでしょうね。(緑青色を塗るときは下地にこの銅色をいつも塗っています。)それぞれのには千鳥破風などを追加せねばなりません。

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五重目屋根に千鳥破風を加えています。この屋根は童友社姫路城のパーツの切り貼りで、既に比翼千鳥破風(千鳥破風が二つ並ぶもの)にしてありますが、妻側に千鳥破風を付ける作業です。姫路城キットの櫓の入母屋屋根を角度を合せて斜めにカットし、三角にカットした妻側に取り付けます。このとき、切った双方がどれだけ隙間なくピッタリ合うかどうかが仕上がりに影響します。隙間は後ほどプラパテで埋めるのですが、一番神経を使うところです。
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四重目屋根から六重目屋根は白ろう(錫か錫と鉛の合金)張の瓦なので、白っぽい銀色にして、一応天守は完成しています。その他、番所、橋、庭園と作成して全体の完成にもっていきました。2011/5/5-2013/2/24、1年10カ月かかってしまいましたが、達成感は非常に大きなものがあります。もちろん手元にありますので、たまに細かいところを眺めては悦に入ってます。すこしはしょりましたが、次回からは広島城プラモデル作成記事のまとめをはじめます。%e9%a7%bf%e5%ba%9c%e5%9f%8e%e5%ba%ad%e5%9c%92

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駿府城復元記(小天守台には多聞櫓が建っていた)

    駿府城復元記の続きです。早いもので、今年もあと2カ月余りとなったところです。旧ブログはあと3か月となり、旧ブログへの記事にもここへきてもらうようリンクも数箇所張ってみましたが、なかなかここの閲覧数は延びないようです。少し急いで旧記事のまとめをしなければ、旧ブログが閉鎖するまでに過去記事のポイントがまとめられなくなってしまいます。(ちょっとあせっています。)
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    そんなところで、今回は駿府城模型の「小天守台」(しつこいようですが、ここには小天守は無かったと思っているので、仮にそう呼んでおきます。)の櫓の組み上げと、土塀制作の紹介をしておきます。1枚目の写真は、土塀に控柱をつけているところです。童友社のお城プラモでは省略されてはおりますが、風などに耐えれるよう大抵の土塀にはつっかえ棒の役割となる控柱が取り付けてあります。これを再現しておくとお城プラモ的にはディティールアップでより精密感があがるというものです。土塀の屋根パーツは童友社デラックス名古屋城のものでして、軒下から棟までが高すぎ、角度も急すぎるため、精度はあまりよくありません。軒先の下半分を漆喰色で塗装していますが、土塀の軒も漆喰で塗られている仕様としたためです。ただし垂木は再現していません。また塀の部分は0.5ミリプラ板で、矢狭間、鉄砲狭間を開けて表側は漆喰ぬりこめ、裏側は下見板張りとしています。
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     次の写真は「小天守台」に土塀を取り付けたところです。天守丸への石段の下には埋門を付けています。漆喰部分を作ってしまいましたが、ここは鉄板を張ったものだったでしょうね。
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     次の写真は、「小天守台」の多聞櫓の壁を組み上げたものです。左側の多門櫓は掛け造りとしています。(根拠は薄く、前々回に紹介した大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」での天守丸多聞櫓の幅と整合をとると掛け造りにするしかなかったのです。)また、右にみえる天守丸への石段の下の門は、埋門としたので、その上は土塀とならず、防御のための細い多聞櫓であろうとしました。(これは想像となります。考証が大事などとエラソーに書いておりますが、どうしても想像や他の城の事例で補うしかないところもあるのです。)それぞれの多聞櫓には通路に向かって出格子(壁に付いているこげ茶と細い瓦部分)が設けてある想定です。
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     それぞれの多聞櫓に屋根をとりつけて、小天守台の完成となります。土塀のある石塁に行くために櫓に小さな出入口も設けました。(まあ、辻褄あわせですな。)
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     高麗門もこの模型では多用しておりまして、名古屋城に残る土塀より屋根が低い仕様の高麗門よりも、時代的には後の仕様のものとなっていますが、そこはご勘弁をいただきます。今回はここまでです。%e9%a7%bf%e5%ba%9c%e5%9f%8e%e5%a4%a9%e5%ae%88%e5%8d%97%e6%9d%b1%e3%82%88%e3%82%8a

駿府城復元記(櫓の作り方について)

 駿府城復元記の続きです。旧ブログと違い、滞っていたところに触れていないので、なにかサクサクと築城しているかのようにみえますが、屋根パーツ以外はプラ板からの制作ですからいろいろ苦労はしています。それらの難所ポイントなども紹介してみたいところですが、レジンキャストの屋根とか壁面づくりとか必死に作業しているので当時「写真」を残す余裕がなかったのです。

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 旧ブログでは、集合写真で紹介していましたが、できるかぎり作り方が分るよう説明してみます。1枚目の写真は、作成中の天守丸北東櫓を内側から見たものです。故内藤先生の駿府城天守は、天守丸多聞櫓の内側は御殿仕様とされており、私もこれに倣っています。この櫓は掛け造の三重とし、二重目には欄干を付け三重目の窓を華頭窓としています。写真左側に続く多聞櫓の内側も掛け造で舞良戸と欄干の組み合わせとしています。
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 2枚目は、壁面を作成しているところで、0.5ミリプラ板で上部、窓の高さの部分、下部と3段になっているのです。窓の部分をくり抜くという方法もありますが、シャープな窓枠に切り抜くのは難しいでしょう。ピンセットでつまんでいるのは格子で、三浦正幸先生の「城の作り方図典」によれば、窓の半分が半間で3本が標準とされています。お城プラモ広島城の御殿では、石屋模型店さんの「汎用格子セット」を使いましたが、駿府城作成時は100円ショップで買ったナイロンブラシの毛を使っていました。(なので緑色です。)
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   3枚目は、北面と西面の欄干(6.5尺間の欄干)の取り付け後の画像、画面中央は、7尺間の欄干(天守用)を作る冶具で、0.3×0.5ミリプラ棒をここに合わせて欄干を作るようにしています。
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    次の写真は、南西櫓でして、故内藤先生の図面では南北棟の長方形の櫓で、他の復元模型もそうなっていますが、私は前回紹介した東照宮縁起絵巻天守像の南西櫓の棟に合わせるため、現駿府城にある巽櫓のように「く」の字になった櫓と解釈し、そのように作っています。また、大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」では確認できませんが、喰い違い虎口の石塁に多聞櫓をのせています。問題は、この南西櫓の1階から石段がこの石塁まで接続していて、どうもしっくりこないところです。 今回はここまでといたします。
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駿府城復元記(天守丸櫓作成)

 引き続き駿府城復元記ということで、天守丸多門櫓についてですが、前回紹介した大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」の黒塗り部分をどう読み取ったかを説明させていただきます。(説明のために少し画像を加工いたします。)
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 黒い部分は、住居などの御殿でない建物を示していると考えられます。それがなにであるかは太さで解釈するしかないところです。まず中央の天守と四方に位置する北東、北西櫓などは疑義はないところです。(それぞれ棟の向きはのちに触れます。)北面の橋につながる門の両横の黒い部分は、名古屋城の本丸不明門の仕様に準じて土塀であると解釈できます。そしてこの太線を土塀とすると「小天守台」(説明の都合上そう呼んでおきます。)にある鍵の字に曲がったところなど土塀であると解釈できます。(「小天守台」西面に太線が描かれず、ここは?です。土塀だと解釈しました。)
 ちなみに、北側の橋に接続する門は、太線が描かれずオープンなので埋門ではなく、高麗門と解釈、そしてその右に続くのは多聞櫓と考えられます。⑤には本丸平面から石段が接続しているので、これも多聞櫓と解釈しました。この太さを多聞櫓とすれば、①②③④も多聞櫓であると解釈したものです。
 そして⑥ですが、これは多くの復元図などには描かれていません。蔵の可能性もありますが、城門の近くにあることから、天守周辺の門を警備する番所であろうと解釈しました。もし番所が描かれているのなら、ある意味この絵図の信憑性が高いと考えられます。
 次の絵図は、日光東照宮縁起絵巻(家康公の伝記絵巻)の一部で、下見板張り、真壁づくりの天守が描かれております。絵巻に駿府城天守であると記されていませんが、他の文書記録における天守各階の間数や、神君家康公を顕彰する絵巻ですから、当然家康公が好んだ終焉の城である駿府城天守であることは、常識的な解釈と考えるところです。

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 問題は、どの方向から描いたものなのかということになります。これが南側からの絵図となると天守の棟が東西になりますが、北東側から見たものと解釈しています。理由として、天守屋根は上から四重目まで描かれていますが、その四重目屋根に手前に向かって接続している屋根があります。細いので土塀にも見えますが、よく見ると四角い窓があり、櫓であって、左手前の2重の櫓から天守に接続していると解釈できます。(前図「駿州府中御城図」の南東櫓から天守へ接続している部分)
 この絵が北東からのものであるとすれば、ここに描かれている3つの櫓の棟の向きが分ります。北東櫓は東西棟、南東櫓は南北棟、南西櫓は東西棟となります。しかし、北西櫓は描かれていませんので不明です。(私は「駿州府中御城図」の長さから、むりやり東西棟と解釈しています。)この絵がどれほどの写実性をもっているのかは議論の余地はありますが、現状で与えられた史料に誠実に従うべきだと考えています。%e6%ab%93%e3%81%ae%e8%a3%bd%e4%bd%9c01
 これら史料の解釈を済ませ、いよいよ天守丸櫓の制作にとりかかりました。ただし、これら櫓の図面があるわけでもなく、多聞櫓の幅などは、前回紹介した故内藤昌先生の図面を参考にしています。(大天守台喰い違い虎口天守側の石塁に多聞櫓を乗せているのは独自解釈です。)壁面はタミヤの0.5ミリプラ板で作成し、屋根は自作ではなく、童友社の姫路城、江戸城、名古屋城などのパーツの流用をしています。屋根パーツは櫓に合わせてカット、拡大してつなぎ直したりしています。それでもぜんぜん足りなくなってしまうので、最後は櫓に合わせて作った屋根パーツをレジンキャストで、複製して全体の屋根を作り上げております。
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 四方の櫓は、内藤先生の図面では2階(実は3階)逓減しておりませんが、当時の櫓も、ひとつひとつが異なる形状で作られていたことから、入母屋破風にしたり、唐破風をつけたりしています。(この部分は全く史料なしの私の想像部分です。)
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 全部そろえるのにかなりの時間がかかっています。写真をみると流用した屋根部分はほとんどなく、大部分は白いレジンキャストのものですね。
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 屋根の軒があまり突き出さない雰囲気は、江戸城古写真でみることができる巨大な三重櫓を意識しています。徳川のお城の櫓って迫力のある立派なものですからね。今回はここまでとさせていただきます。
 おまけに、日光東照宮縁起絵巻天守像と同じ角度からみた私の駿府城模型の写真をのせておきます、上の天守像と見比べていただければと思います。%e6%9d%b1%e7%85%a7%e5%ae%ae%e7%b8%81%e8%b5%b7%e7%b5%b5%e5%b7%bb%e5%90%8c%e8%a7%92%e5%ba%a6

駿府城復元記(天守丸構造について)

 駿府城復元記の続きということで、ようやく天守台が完成し、次は天守丸を構成する多門櫓づくりとなるところです。その内容に入る前に少し、天守台形状について触れてみることにします。旧ブログでも触れておりましたが、明治期の測量図での天守台形状は北辺が南辺に比べて長く、東西辺が北に向かって広がっているものとなっています。頂上部はフラットに描かれていて、安政大地震の被災後の姿で元の形状とは異なると記しましたが、実際は、どうなのでしょう。現在静岡市で行われている天守台発掘調査の注目点は、その天守台底辺の形状がいよいよ正確な姿で明らかになることです。

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 下の図は、静岡県立中央図書館蔵の「駿府城御本丸御天主台跡之図」(webで拡大して見ることができます。)旧ブログ記事に記載しましたが、天守上端東側(182尺:約55m)上端北側(158尺:約47.8m)上端西側(179尺:約54m)南側(虎口の両側で分かれていてそれぞれ71.5尺/約21.6m、73.5尺/22.3m)(いずれも故内藤昌先生による数値)となっています。webでの下の図をよく見ると、虎口通路の巾が壱間?尺七寸と記されていて,(?の数字読めません4か5かと思ってます。6ってことはないでしょう。2間になりますので)3.4m~3.7mってとこでしょう。すると北辺が47.8m、南辺が47.3m~47.6mでほぼ同じ長さで、天守台の天頂部は長方形になるわけです。(南辺はぐいちになっていますが)

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 この「駿府城御本丸御天主台跡之図」は、天守台復元のための最も信頼できる確実な史料となっています。(天守台底辺の長さも記載されているのですが、私には読めません。)結論として、明治の測量図で見て取れる不等辺四辺形の天守台底辺が発掘されたとしても、その相似形のまま、天守台上部にもってくるのは間違いとなります。いろいろな城の天守台には、底辺の各頂点が鋭角で飛び出しているのは多くあり、広島城天守台も然りです。
 さて、駿府城天守丸多門櫓の話に移ります。駿府城天守は、徳川家康の隠居城として、慶長12年の完成後すぐに焼失した天守(Ⅰ期)と翌年にすぐに再建された天守(Ⅱ期)があります。Ⅰ期の天守の史料は、未だ発見されておらず、まったくの幻の天守(ひょっとして、天守台いっぱいに建てられた超巨大天守?)となっています。(写真は私のおふざけの超巨大天守:根拠なし)
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  Ⅱ期については、次の絵図(大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」(「葵~徳川三代」記念出版 駿府城(内藤昌株式会社文化環境計画研究所)に掲載のもの)により、環立式天守(天守丸)であることが判明したのです。
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  概念図で長さなど正確なものではないようですが、これ以外の平面図に天守が描かれているものはなく、第1級の史料です。これにより、世にいろいろな天守丸構造の駿府城復元図が存在するのですが、必ずといっていいほど小天守が描かれています。Ⅰ期の築城の記録になっている「家忠日記」に小天守手伝普請の記録はありますが、Ⅱ期には小天守の再建の記録はあるのでしょうか?小天守については私は、大いに疑問をもっております。(前出「駿府城御本丸御天主台跡之図」には「御天守台」は記してありますが、小天守台という文字は記されておりません。)という訳で、多くの天守復元図画にある小天守は模型化しないことにしました。史料の小天守台とおぼしき場所には、大きな屋根はなく、多聞櫓と思われる細長い屋根が描かれています。
 私の駿府城模型は、「駿府城御本丸御天主台跡之図」と大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」を根拠にしました。あと日光東照宮縁起絵巻の天守像ということになりますが、そのお話は次回以降ということで・・・(模型製作の記事に入らなかったです。反省)
  追記 現在行われている駿府城天守台発掘状況については、以下のブログと写真がご紹介されています。これからしばらくの間、ブログを拝見させていただくという楽しみができました。中でも天守台西面石垣下の水面が出ている写真は、まさにお堀と天守台を思い起こさせてくれます。いいですよね、駿府城公園の散歩ついでに、だんだんと出てくる天守石垣が見ることができるなんて、羨ましい!

東 啓次郎の琴・三味線馬鹿一代 http://ameblo.jp/koto-shamiman/entry-12204830398.html

さらの往訪記録 http://akiusagi-apple.seesaa.net/category/25540787-1.html

備忘録旅人さんの写真 http://photozou.jp/photo/list/1785042/5782461

駿府城復元記(お城プラモにとりかかるまで)

 ここのブログの最初の記事は、数回に分けた駿府城復元記ということではじめていくこととします。前ブログ記事の「焼き直し」(^^;)なのですが、そこはご容赦を・・・なにせ前のブログの記事は作成と同時進行で、自分で読み返すのも面倒なぐらいダラダラしたものでしたから。

 私が駿府城天守に関心を持ったのは、大学時代(もう30年も前)に櫻井成廣氏の著作に触れて、そこにあった駿府城天守像(天守台いっぱいに建てた名古屋城大天守の外観様式を倣ったもの)を見たからでした。もっとも櫻井先生は、その天守像を慶長12年に完成した駿府城天守案などとは主張されておらず、単にこの天守台に建ててみたらこうなるだろうという興味で作ったと書かれております。(なので「櫻井案駿府城天守像」ではありません。)

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 駿府城のみならず、存在したのは間違いないのに安土城天守、豊臣大坂城天守、慶長度江戸城天守などその形状が確定しない「幻の天守」に強い憧れを抱きましたね。

 少しプラモ趣味の話に脱線します。大学時代には、もうプラモデルを趣味とはしておらず、プラモ雑誌などを眺めるぐらいでした。プラモの趣味は小学校からはじめて中、高と飛行機・軍艦プラモばかりで、めったにお城には手を出しませんでした。(なにか地味なジャンルといった印象、たまの息抜きですかね)

 人生も後半に入ってしまって、何か長く続けられる趣味はないかと考えたところ「そうだ、また、プラモを作ろう」と思った訳です。ただ、今の時代プラモは、飛行機、軍事車両、自動車、たいがい正確なディテールを持っていて、自分なりの考証や作りこみの必要が少なく、もはや塗装のみが作品の良し悪しを決めるようなものです。

 それじゃ面白くない、古いキットをディテールアップしてやることから始めました。写真はニチモの九九式軍偵。第二次世界大戦前の固定脚の飛行機が好きなんですよ、それも旧日本陸軍のもの。次はチェコのAZ MODELというメーカーが1/48九七式司令部偵察機を出すというアナウンスが出たので、それを待ちました・・・待ち疲れました。(一時は同社のWEBサイトに開発中の原型なども掲載されてましたが、いつの間にか消えています。)%e3%83%8b%e3%83%81%e3%83%a299%e8%bb%8d%e5%81%b5

 この待っている時期にお城プラモを買ったのでした。童友社「江戸城」でして。キットの台座裏の刻印に1977とありまして、「おお!当時そのままの金型かい!」とツッコミを入れてしまいました。これは思いっきりディテールアップできる。幻の天守への憧れとプラモ趣味復帰がつながったのでした。話があまりにも脱線しすぎで、駿府城復元記になかなか入れませんねえ。