大垣城訪問

       今回は、この週末に訪問した大垣城の記事といたします。このお城も明治維新をくぐりぬけ、昭和11年(1936年)に国宝指定を受けたものの、太平洋戦争時、昭和20年(1945年)の米軍B29の爆撃により焼失し、昭和34年(1959年)に再建されたものです。元々は三重であったものが、元和六年(1620年)に四重の天守に改築された層塔型天守でありました。

     このお城が大きく歴史に登場するのは関ケ原の戦い直前の杭瀬川の戦いでしょう。石田三成、宇喜多秀家、小西行長などが、西軍の本拠地としたこの城にこもり、中山道付近の東軍が対峙、遅れてきた徳川家康の着陣に動揺した西軍の士気を高めるため、島左近、蒲生郷舎らが出陣し西軍の勝ち戦となった戦いです。絵図で描かれている大垣城の姿は真壁造の三重天守となっています。その後、寛永十二年(1635年)に戸田氏鉄の城となり、明治まで戸田十万石の居城でありつづけました。(写真は、大垣城に展示してあるジオラマ)

     焼失せずに残っていれば、国宝でもあったので多くの人が訪れるお城であり続けたでしょうが、爆撃で石垣も焼けて、ほとんどが積みなおしされているということで、少し侘しくもあります。本丸堀も残されておらず、お城と堀を埋め立てた道を隔てて住宅地となっています。

      昭和34年に再建された天守閣は、当時のブームの作法にのっとり展望台としての機能をもたせるためか、最上階は大きなガラス窓が各面に付けられていました。私は、このガラス窓の天守閣のイメージを抱いていたのです。恥ずかしながら、平成22年に外見を旧天守に近づける改装が実施されていたのを知らず、天守内部の展示で「おお!外見をちゃんと復元したのか。素晴らしい」と感心したのでした。

     この写真は、その展示パネルでして、焼失前の国宝天守、昭和34年再建天守閣、平成22年外見復元天守の比較写真です。全面ガラス窓を取り外してくれて、ほんとよかったです。さらに、鯱や懸魚、鬼瓦、邪気瓦も旧天守にあったものを復元したとありました。(お城ファンとしては天守を眺めて「ほんとはこんなんじゃないんだ」などとツッコミを抱かずに済む訳です)

     私の関心事は、瓦でして、なんと葺き直した軒丸瓦についても展示説明がありました。昭和34年の再建天守閣の丸瓦は直径が5寸、旧天守のものは6寸であったので6寸に改めて葺いたと。

     またまた、意地悪い私のクセが出てしまいまして、せっかくだから、最上部の入母屋平側の軒丸瓦を数えてみようと思ってしまったのでした。(病膏肓に入るとはこのことです。)写真から旧国宝天守は26個であるようです。5寸丸瓦の昭和34年天守閣には30個あるようです。(まあ、オリジナルより小さい丸瓦だからなあ)さて、平成22年外見復元天守は・・・ううっ(興味のある方、自ら数えてみてくださいませ。私はツッコまないことにします。葺き幅が違うのでしょう。)

 

    6寸径の丸瓦が、大垣城で使用されていたのであれば、作ろうとしている徳川大坂城天守ぐらいになれば、それ以上のものとなるでしょうねえ、6寸は、1/350で約0.52㎜ですから最低0.5㎜プラ棒が使える訳で、お城プラモ的には成果ありの訪問でした。

     せっかく、外見復元が果たされた大垣城天守なのにもっと映像などで取り上げられてもよさそうですが、撮影ポイントがあまりに少ないことが要因であると感じました。樹木が天守周辺に茂りすぎていて、この天守全体を撮影できないのです。そのため、多くの写真はなんとか木々の枝がじゃましない南東からのものとなっています。 日本のお城の多くの敷地は市町村の公園課が管理していて、緑地公園扱いでお城の景観などは、それほど注意を払っていないとしか思えないのです。それも毎年の予算で緑化推進ということで、どんどん植樹することが仕事ですから、大阪城など天守石垣周りに松の木を植えたりしています。お城ファンとしては心配でして、やがてあの立派な天守石垣が木々に隠れてしまうのではないかと思っています。

    大垣城についても周囲の枝を払って、もう少しスッキリさせ、いろいろな方向から撮影し、その魅力を発信してほしいところです。