徳川大坂城模型制作(金明水井戸の制作)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。金明水井戸の制作にかかっているところです。前回紹介したパーツの「四半敷」は、アップで見ると正方形になっていないところがあまりに多いので、作り直しました。(今回、けっこう、これに時間がかかってしまいました。)

 ちなみに、金明水井戸の1/50の図面を1/350でプリントしてみましたが、こんな感じで、字や線がつぶれてしまってほとんど、読み取れません。まあ、長さの確認に使うぐらいで、1/50図面の長さを1/7にしてパーツを作っていきました。

 前回までお見せしていた金明水井戸の基段も、私の図面の読み取りミスで、縮尺が誤っていたので、これも作り直しています。

 やっと上屋の柱を作り出したところです。これも1/350で太さを計算すると約0.7㎜と中途半端な値でしたので、0.2㎜プラペーパーと0.5㎜プラ板を張り合わせて切り出しします。

 今回はここまでです。パーツが気に入らないと作り直しするので、とてものろまとなっています。

徳川大坂城模型制作(小天守台制作微調整)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。従前よりお見せしている小天守台の写真には、グレーの床が出てきていますが、あれは仮の紙製のものでして高さの調整に使ってきています。歪みや反りがでてくるので最終的にはプラ板での作り直しとなるところです。

 金明水井戸の基壇は、4枚の石板(黒い御影石と思われます。)で組まれていて、四方に溝も彫り込まれた贅沢な仕様のもとなっています。(なので、各段が敷石であったろうと迷い続けているのです。)平面図、側面図はありますので、1/350でまあまあの精度で作れるので楽なところです。

 金明水の段の斜め石敷きですが、図面から測ってみると1.3㎜正方形となります。彰国社の図解古建築入門という本を最近読んだのですが、お寺の床で使用されるこの床張りは、「四半敷」というのが正式名称らしいです。このプラモでの引き方は、タミヤのノギスをデバイダのように使って、印を入れて定規を使いデザインナイフで入れていきます。ノギスの幅が知らないうちに開いて、1.8㎜に開いてしまって、誤った線が残っています。パテで修正しています(なさけない・・・)古写真で判明した溝も追加しています。

    ちなみに、金明水の基壇の周りは、敷石がありまして、これがどうも古いもののようで、現天守閣再興の前からあったように見えます。大阪城天守閣三階に展示してある徳川大坂城天守模型(旧ブログコメントで「株式会社さんけい」さんの制作との情報をKek511さんよりいただいております。)では、このあたりを根拠に、古写真のような土の部分は、元の敷石の上に被さっていると解釈されたのだろうと思われるところです。

 ブログのほうは、記事がスカスカになっていますが、作業の時間に費やしたいと思いますので、ここまでです。小天守台の微調整がすめば、屋根の試作もしているので、金明水井戸の上屋を作ってみるつもりです。

徳川大坂城模型制作(金明水井戸の隠された溝)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。前回で予告していた小天守台に関してですが、本ブログで、何度か話題にしている「大阪城址写真帖」の古写真をまずはごらんください。(偶然ヤフオクで見つけて手に入れたものです。この場面のものはネットで見かけたことがなかったです。まだまだあるのかも知れません。)

 着物姿の女性と女の子が黄金水(金明水)井戸前に佇んでいます。もちろん天守閣が再興される前の写真でして、井戸屋根右上に陸軍第4師団司令部庁舎でなく、前身の経理部か軍法会議かの建物屋根が見えている珍しいものです。

 私にとっての注目点は、まずは女性の右側に雑草が生えていて石畳ではないことを確認(看板の影らしきものが少し気になりましたが)できたことです。井戸屋根軒右側に見える石塁の上部にも雑草がありますし、敷石なしでいいんだと少し自信が生まれました。

   さらに、井戸左下の斜め敷石(以前は敷「瓦」と思っていましたが、明るいので、やはり「石」のように見えます。)と雁木石の間に石造りの溝があることが見て取れます。井戸のあふれた水を排水するためのもので登り口の側面にある石樋につながっていたと考えられます。

   ちなみに先日大阪城小天守台を観察したときに、現状の敷石が、どうやらこの溝を覆っているのが分りました。左写真では井戸右横の溝が途切れたようになってますが、アルミ製のごみトラップが据えてありました。右写真は、その先にあるコンクリート製の蓋のものです。(古いものですが、いままで、ぜんぜん気づいてなかったです。)この溝については、当然模型で再現しなければなりませんねえ。

 前回、前々回と屋根瓦の試作をやっていて、結局「大きな縮尺の図面」で瓦幅など算出したいと思っていましたが、いい資料を持っていたことをすっかり忘れていました。
 旧ブログから見ていただいている方はご存知でしょうが、1/350駿府城模型(模型は依頼とか関係なく自分で作りたいからつくったのですが)を作成した関連で、本ブログの「城男」を静岡市から駿府城坤櫓のキャラクターに採用したい旨のお申し出を受け、城男作者が坤櫓用に「しろおくん」というキャラを作って無償提供いたしました。(まあ、ほとんど「城男」のまんまですけどねえ、失われた櫓や天守の化身という設定ですから、よく似たやつがたくさんいるということで勘弁してやってください。)それで、しろおくん作者ということで、坤櫓の開館式典に招待されたときに、建築工事報告書をいただいていたのでした。

 中を見てみるとありましたねえ、参考にできる図面が。櫓三重目屋根と本瓦の収まり図、土塀の図もありました。それも正確に1/50ですから、まあまあの精度で割り出せます。ありゃりゃ、坤櫓に使用された丸瓦と土塀の丸瓦の直径が異なってました。丸瓦ごとのピッチも異なるようです。(ちなみに、この画像ではわからないかも知れませんが、入母屋破風をオーバーハングさせていますね、2/100破風斜とあります。)

駿府城坤櫓屋根図面より(1/350換算)
 本瓦葺きピッチ:0.82㎜ 丸瓦径:0.495㎜ 平瓦重なり表出部分:0.33㎜

駿府城土塀図面より(1/350換算)
 本瓦葺きピッチ:0.71㎜ 丸瓦径:0.33㎜ 平瓦重なり表出部分:0.33㎜

 徳川大坂城なので、これら数値も参考にするつもりです。すくなくとも土塀と櫓などの屋根瓦は異なるということにします。 

徳川大坂城模型制作(徳川大坂城の屋根瓦の試作)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。先日仕事を休んで大阪市内へ出かける機会があったので、何度も行ってはいますが、大阪城を再訪してきました。平日なのですいているかと思いきや、大勢の外国人観光客が見学していました。(日本のお城を知ってもらうのはいいことだと思います。)

   森ノ宮駐車場から市民の森を抜けて、大阪城天守閣の南東側の玉造口からの登城です。玉造門の東側を守った巽櫓跡に行ってみますと、猫が石垣天端石に寝そべってます。

 

   お?玉造門の門番猫か、カメラを向けると顔をあげて、目の前の柵の上まで来てくれました。ニャでさせてやるよって感じです。背中とか撫でてやるとじっとしています。かわいい奴でした。

 玉造門の土塀跡には、立派な石づくりの控柱が残っています。対して、本丸入口の桜門横の土塀の控柱は、下部が石づくりで木の柱をつないでいます。桜門のほうは復元ものでしょうけど、城内でいろいろあったのか、石づくりで統一されていたのか、少し悩みますね。

 天守閣にも行ってきましたが、内部の展示では幕末ものがテーマとなっていました。興味はありますが、そこそこに見学して、小天守台の細かい観察に時間を費やしました。いろいろ発見するところもあったところです。それは次回以降に紹介するとして、前回に引き続き、別バージョンの大坂城屋根瓦の試作を見ていただきます。

 前回、土塀の丸瓦のピッチについて1/350で0.84㎜としていましたが、訂正します。10個間隔で測ると1間隔が0.83㎜となりました。瓦の重なりは、0.36㎜でなく0.32㎜であろうと思います。(ちなみに、これら数値が正しいとは当ブログは、一切保証しませんので、あしからず)

 今回試作したのは、0.5㎜プラ板に0.83㎜の間隔で縦に0.2㎜幅のスジボリをし、それと交差して横方向に、平瓦ということで0.32㎜間隔のカッターでのスジボリを入れました。そして縦の0.2㎜幅のミゾに0.4㎜の丸プラ棒を接着してみました。(とりあえずの冶具で作業したんですよ、細かすぎて目が痛くなりました。)うーん・・・横線の平瓦のスジボリが、いまいち均一になっていないようで、もう少し精度を上げる必要があるようです。

徳川大坂城模型制作(徳川大坂城の屋根瓦のピッチについて)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。まずは、制作中小天守台の現状ですが、銃眼つきの天端石を作ろうとしています。童友社大阪城キットの天守台のものを切り取って流用しようとしていますが、どうも高さなどに疑問が生じています。ハンディルーターも壊れてしまい、滞りとなってしまいました。それでも手法は見えていますので、作業のみで心配はしていません。

 できるかどうか心配していたのは、今回このお城プラモで挑戦しようとしていた屋根瓦のスクラッチでして、そのテスト版を作ったので、それについて触れてみます。以前東京マルイ姫路城の記事でも書いたように、あまたの1/350お城プラモの屋根瓦のピッチ(隣あう丸瓦の頂点の距離)は、どうも怪しいと疑っていたのでキッチリとした根拠を探していました。結局図面でして、大阪城天守閣が発行した「特別展大阪城はこの姿」p54に大手門北方塀詳細の図面が、まあまあ大きく載せられており、メートル単位のスケールも入っていました。この図面の縮尺を割り出し、図面の丸瓦のピッチを出してみました。

   土塀と建物の屋根瓦ピッチが同じなのかどうかは、櫓の図面などで後ほど確認することとして、とりあえず割り出してみると29.4㎝、丸瓦の直径は15.2㎝となりました。(小数点以下は怪しいです)1/350に換算すると、0.84㎜と0.43㎜となります。(げげ…小さい)これを作るのは難しいですぞ。エバーグリーンの0.25㎜×0.5㎜のプラ板とプラストラクトの直径0.4㎜プラ棒の組み合わせで作ってみることにしました。

 軒先で丸瓦は、丸になっていますが、平瓦の上に乗っているところでは半円でして、0.5㎜プラ平棒を0.3㎜のスキマを空けて並べていき、そのスキマに0.4㎜プラ丸棒をのせていけばいけるのではないかと思ったのです。もちろんプラ板に0.84㎜間隔でミゾを掘って、そこにプラ丸棒をのせるっていう手もありますが・・・

 写真の上に写っている屋根は、童友社大阪城のものです。よくよく、測ってみると0.5㎜となっているエバーグリーンのプラ板の幅は0.6㎜のようです。スキマを作るのに0.2㎜のガイドみたいなものを使えばなんとかなりそうです。平瓦の重なったのも再現したいところですが、先の図面の土塀の断面図で見ると、12.7㎝で1/350では0.36㎜でして・・ううーん、こりゃ、まずは冶具かなんか作らないといけないかなと思ったのでした。

徳川大坂城模型制作(大阪城の石垣をもっと大切にしてほしいです)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。1年でもっともバイクツーリングに適した季節でして、ついつい朝から出かけてしまって、お城プラモ作りがお休みになってしまっています。

 今回は、以前も紹介した天守復興記念誌に掲載されていたもので、大阪城天守閣復興記念の絵葉書の引用です。戦前の天守閣写真に着色したものと思われます。

 注目すべきは、太平洋戦争で爆弾が直撃した姫門周辺が元の姿で写っていることです。手前の石垣は無事だったようですが、奥にみえる石段はかなり破壊されたようで、戦後まもなく撮られたアメリカのLIFE蔵の写真で確認できます。次の写真は、私が撮影した写真(右)と並べて比較したものです。とにかく姫門に登る石段と入って左に上る石段の段数が分ってよかったです。10段と14段となりますねえ。

 あと、元の姫門の左側の石塁の石垣のパターンがよくわかります。右の写真の置き換えられた整形石が元の石をある程度はなぞっているものの、やはり「復元」とはなっていません。

 大阪城の場合、こういったケースが数多く見られます。他のお城であれば、元の石を再利用するとか、ここはかなりこだわるところでしょうけど、大阪城の場合、さばさばしたものです。徳川大坂城への愛着のなさというか、なぜなんでしょうねえ?
「天守閣が豊臣、徳川のハイブリッドなんで、べつにええやんか」って感じでしょうか。

 おまけとして、この写真の右側にあたる、ちょうど姫門の番所跡の現状写真をのせておきます。敷石が残っていますが、これは天守閣復興時に整備されたものだと考えられます。

徳川大坂城模型制作(昭和天皇大阪城天守閣御登臨)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。前々回小天守台入口周辺の考察を行ったところです。大坂城の古図ではほとんどが小天守台南辺から東に延びる形で、塀が掛けられているように描かれています。小天守台の東側に四角い段があったのではないかとも見えるところです。次の写真は、前回と同様記念誌からの引用ですが、以前から参考にしている「大阪城址写真帳」の天守台写真です。明治28(1895)年に竣工した大阪最古の配水池の階段が右端に写っていて、天守台ふもとには雑草が茂っています。昭和6(1931)年11月7日に復興天守閣が竣工しているので、その間の写真となります。しかし、この写真からは私が求めている徳川大坂城天守が建設された当時を推測できるものはないです。

 おそらく、明治の配水池建設時の大量の土が天守台東面にならされていて、江戸時代の地表面に被さっているのでしょう。天守台登口の石垣がほぼ垂直に立っていて、石樋が確認できると思います。その下には石造りの砂溜もあったはずですが、この写真からは確認できません。配水池の階段の手前に石段のようなものがあるようで、石樋の右下から繋がっているようにも見えます。

 次の図は大阪市立中央図書館蔵の旧陸軍の行幸記念誌から見つけた復興天守閣を昭和天皇が行幸されたときの順路図です。天守台周囲の概略図が入っています。配水池をまくように小天守台登口から右に2段石段があり、北へ行くと4段ほどの石段があります。しかしまあ、昭和天皇がお城を好まれたという話は伝わっていますが、御見学順路がここまで決められていたとは、御不自由なことであったと推察するところではあります。

 話を天守台作成のほうに戻します。天守台の岩岐も作りましたので、次の問題は天端石の銃眼でして、岡山城などにも一部据えられていますが、徳川大坂城ではほぼ全面的に施されています。この上に土塀が掛けられ、櫓も外側の壁をこの上に設けています。図面で大手門に施されているものは高さ84センチになっていますが、私が天守台で測ったものは70センチ強でした。今回のお城プラモは、フルスクラッチにするつもりでしたが、これは正確には彫れないです。そんな訳で、せんどくさした童友社大坂城パーツを切り取って流用することにしました。銃眼内側の微妙なラインは再現されていませんが、ヤスリで整えるつもりです。銃眼ごとの距離も違うので、間にプラ棒をはさんで、原型を作り、あまり好きではないレジンキャスト複製となる予定です。

徳川大坂城模型制作(敷石の史料の不存在)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。小天守台については、現行天守閣が再興される前の数少ない古写真で、金明水の段を除き、やはり敷石らしきものは確認できませんでした。先日行った大阪市立中央図書館でも、大阪城の天守閣復興記念誌など建設前の小天守台を撮影した写真はないか、いろいろ探してみたんですよ。しかし、もう、決めなければ作業が進められないのです。

 次の写真は、天守復興記念誌に掲載されていた「古写真 豊公館(写真パネル)」の引用です。大正14年(1925)に開催された大大阪記念博覧会で特設会場として大坂城天守台に建てられたものです。日に1万人を超える入場者が来るほどの大好評で、後に現行天守閣再興のきっかけにもなった建物です。この写真の時点では天守入口付近の地面には敷石はないようです。(他の写真のすずなりの入場客の足元の地面で確認しました。)

 大坂城小天守台の各段の地表面が敷石で覆われたのは現行天守閣が復興された時であって、それ以前にはなかったと結論づけようと思っています。根拠として最大のものは、早稲田大学所蔵「大坂城本丸之図」で、この図は、天守が焼けた後、石垣に対する被害状況を精査したものと考えられ、「地表焼ケル」と読めるところがあるのですが、積んだ石垣や岩岐などの横に記載されており、天守入口地面について、そういった記述はありません。もし、地表面が敷石に覆われているのであれば、焼けていたであろうし、「〇〇尺、敷キ石焼ケル」とかなんらかの記述があるはずだと思うのです。

 また、故大類伸氏撮影の大天守台南面写真(大阪城天守閣発行「描かれた大坂城・写された大阪城」p92)の右下端に、現状は敷石が張ってある天守登口の踊場が写っていますが、この写真では露出した土で草も生えています。

 ちなみに、現在敷石張になっていませんが、姫門下の曲輪は、天守閣再興後、昭和42年ごろの写真には敷石が施してあったことが確認(大阪城天守閣発行「大阪城はこの姿」p29)できます。戦前、旧帝国陸軍第四師団に気を使いながら天守閣を復興するためには、いろいろと通路など整備もし、陸軍関係施設整備にも費用を使ったのだろうと思います。

 大坂城建設当時、いろんな神社、寺院など通路や門前には、通路も含めて敷石が施されてはいますが、大坂城関連史料で確認できないのでここには、無かったと結論づけるしかないようです。(どなたか、敷石があったと分る史料をご存じの方がおられれば、ご教示いただければ感謝いたします。)

徳川大坂城模型制作(大坂諸絵図はおもしろい)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。せっかくのゴールデンウィークでもあるので、先に進まねばなりません。迷っている天守台敷石問題ですが、以前から参考にしている大坂諸絵図廿九御天守台図の実物を閲覧するために大阪市立中央図書館にいってきました。

 自宅から高速で1時間強というところで、図書館の駐車場も空いていて、スムーズに閲覧することができました。もちろん貴重図書ですから、書類での申請が必要です。ところで以前引用させていただいた松岡利郎先生の「大阪城の歴史と構造」掲載の絵図とは、同じ内容ですがどちらかが写しであるようです。中央図書館蔵の絵図は、くずし字でなく読みやすいもので確認できなかった文字も判読できました。

 ただし、ひょっとしたらなにか地面に関する記述でないかと期待していた文字は「小天守」とあるのみでした。着色部分は大天守内、天守登口石段横と同様の水色で、「芝」と記載とあるところと同じ色ではあるのですが・・・表面は土のままで雑草がはえていたのか?うーんやっぱり解けないですね。

 もちろん、いろいろと興味深い点も見つけています。私は天守台東側地表面(この絵図の下側)は、西側よりも1メートル程度高いのではないかと考えていますが、天守台から東へカギの字に「溝」が記載されています。入口手前に「橋」まであるのですから、この溝、ある程度幅もあったのでしょう。天守台に降った雨水は、小天守登口石段の踊場下に石樋があり、図の「砂溜」に水が落ちて、埋設の水路を通って、この溝に流れ込むようになっていたものと考えられます。しかし、地面高が高いのにこの東方向へ流すとすれば、深く溝が掘ってあったと考えられます。

 それとも、この「芝」と記載のある水色部分も含め天守入口までの四角い部分が周囲より地表面が高くなっていて、南辺に柵をかけて仕切り、周囲を回り込むように溝が掘られていたのかもしれません。ちょうど、上りか下りか不明ですが、左下に石段らしきものも描かれています。このあたりを模型化しないと値打ちが無い訳です。あれこれ考えているとおもしろいのですが・・・模型制作作業は進みません。(これも楽しみなので、あしからず)

徳川大坂城模型制作(雁木の段数)

    徳川大坂城模型製作記事の続きです。前回に引き続き小天守台の雁木(岩岐)作りをしています。

   1段が1/350で奥行0.82㎜ぐらいなので、なかなか上手くつくれないところです。もちろん以前に紹介したように、0.5㎜プラ板と0.2㎜プラ紙の組み合わせで厚みを作り、それを重ねてつくるのです。 実物写真は、以前は自分で撮影に行ってましたが、Googleアースが更新されて小天守台も細かく見ることができるようになり、おかげで助かっています。この写真は自分で撮影したものですけどね・・・小天守台の金明水の段への雁木は、写真では2段としか言いようが無いですよねえ、しかし、早稲田大学図書館蔵「大坂城本丸之図」には「岩岐三段」と記してあります。ふー、なので手前の踊り場の敷石は無かったのではないかと疑っているところです。

写真は、小天守台に雁木を取り付け途中のものです。小天守台のそれぞれの段を現状のように、敷石仕様にするのか、ひょっとしてと考えている三和土仕様にするのかで、表面のスジ彫りが変わってしまいます。固定してしまうと作業が難しいので、接着できないでいます。(困ったものです。大坂諸絵図廿九を閲覧させてもらって、確認するしかないかとまで考えています)

 片方で、天守や櫓などの屋根、特に瓦をどう作成するかで準備も始めなければならないので、瓦について資料を集めだしています。写真は鹿島出版会「物語 もの建築史 和瓦のはなし」という本です。全体を読み終えておりませんが、本の中で紹介されていましたが、東大寺大仏殿屋根の軒丸瓦の直径が27センチで、平瓦の幅が47センチというのは驚きました。じゃあ、お城の本瓦葺きの幅について記されてるかというと・・・その内容は「無いよう」です。(しょーもないダジャレでおわります。)