徳川大坂城模型制作(山里加番小屋の検討)

    大阪城の南西隣にはNHKとの複合施設となっている大阪歴史博物館があります。史跡難波宮跡を一望に見渡せる10階の難波宮大極殿展示から、9階では本願寺のあった中世、天下の台所となった江戸時代と階を下っていく展示となっています。そして大阪が最も輝いていた大正から昭和初期の大大阪(だいおおさか)時代があり、いい博物館です。ただし、大阪城関係は、大阪城天守閣が分担しているので、ほとんど触れられていません。

 私の一押しは、船場の街並みのジオラマでしょうねえ、大阪歴史博物館は、一部の展示を除き、フラッシュを使用しない限りカメラ撮影可能となっています。インスタとかでの紹介・拡散希望なのだと思うところです。私の撮影のジオラマをあげておきます。(苦情などがくれば削除します。そうそう、蔵の切妻屋根の端が漆喰になっているのは大阪の蔵の特徴であると説明がありました。)

 また、大阪文化財研究所で、発掘調査報告があげられている広島藩の大坂蔵屋敷の再現模型もあって、これは大坂城模型の山里丸の小屋などの作成の参考になると考えています。

 多くの建物は地元の大工たちが建てている訳ですから、下見板張りや窓の仕様は似たものとなっていると考えられます。(追記:この鉄蔵は宮内庁大坂城写真の蔵の写真と窓の位置が異なりますね、むしろ本家広島城の多聞櫓の下見板のほうが近いです。大工の問題でなく仕様を決めているのでしょう。それとも側面の史料がなくて、この模型が広島城にあわせてあるのかな)

 

 大坂城模型の作成状況ですが、引き続き山里丸の加番屋敷や小屋の仕様について、いろいろと検討しているところです。以下は、大坂城山里加番役の屋敷(黄色線は屋根の想定です)

 学研の図説江戸2「大名と旗本の暮らし」平井聖先生監修の旗本屋敷の広さに関する記述によれば、万石未満千石以上取の上級旗本の住居で建屋900~250坪、母屋400~150坪程度、千石未満百石以上で建屋250~100坪、母屋150~60坪程度、百石未満で建屋100坪未満、母屋60坪未満とあります。

 大坂城山里加番役の屋敷や小屋の図面などと比較してみると千石取旗本屋敷と三千石取旗本屋敷の中間程度の規模と見て取れるところです。(加番小屋などの坪数合計は、数えていません。あくまで感覚です。)加番は1万~3万石の大名ですので、直参旗本との格付けの差を持たせていたのかも知れません。(それでも譜代大名なんだけどなあ)

 下の図は、山里加番小屋絵図の西側の住居の一部で、上記「大名と旗本の暮らし」に載っている足軽小屋と同程度の大きさといったところでしょうか。加番住居の範囲には、藩主の屋敷、家老の屋敷、家臣の住まいがあるのですが、家臣の住まいが足軽小屋程度だとするとどういったクラスの家臣達を連れてきていたのでしょうか、わかりませんねえ。
 大阪城天守閣に展示してある1/350徳川大坂城模型でどう再現されているかといえば、蔵が並んでいるような雰囲気でして、模型の制作時には研究があまり進んでいなかったのでありましょう。
 大阪城天守閣の撮影禁止は厳格でして、警備員が常に撮影禁止のパネルを持って見張っています。たまに外国の観光客などが携帯でも模型に向けようものなら、飛んできて厳しく注意されます。(警備員さんって、年齢はいってそうですが、定年退職した元警察官が多いですからねえ、何か「威」の雰囲気を出せるんですよ、以前はも少し緩やかだったけど・・・最近は、撮影なんかできません。)オリジナルの書画とかだとフラッシュで痛むけど、フラッシュも使わないし模型だからいいと思うんですけどねえ、歴博に比べてお堅いことです。

 もっとも城郭模型の場合、写真で公表できるとなると、私みたいなのが検証と称して、やれここが違うのとか言われて煩わしいことになるからかも知れません。(学芸員にすればクレームみたいなものでしょうから、仕方ないか)

徳川大坂城模型制作(仏具山の現状)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。国会図書館蔵の明治38年の「大阪市圖」の大阪城部分の画像からご覧いただきましょう。あまり精細に描かれてはおりませんが、明治38年ですから既に配水池は設置されています。少し天守側に近すぎるように思います、注目すべきは配水池東側の仏具山と周辺の土盛部分が残った状態で描かれております。配水池の周囲は現在は急な斜面となる土盛りがされていますが、こういう状態が一時期でもあったのでしょうか、配水池の完成時の写真でも残っていれば判明するんでしょうけど、わかりません。

   この地図の山里丸東菱櫓台は、櫓台になっておらず多聞櫓台の幅が、そのまま延長されたものになっています。明確に櫓台と分かるようになっていなかったということでしょうか。天守台西側の御成門之内御櫓の櫓台も描かれていません。当時は櫓台などに関心がないのも仕方の無いことかもしれません。
 ところで、前々回の記事で仏具山の位置はどこだったのかなどと書いておきながら、現状の写真も載せておりませんでした。このあたりであろうという写真も撮影してきているのですが、ぜんぜん当時をイメージできるものとなっていなかったためです。仕方なくグーグルアースの画像でその場所を示しておきます。右の建物は、配水池の管理事務所と思われます。写真は南から北側を見ており、左の傾斜が配水池の土盛りです。仏具山は、この斜面に埋もれていて、これを見ると冒頭紹介した「大阪市圖」の描かれ方は少し不思議なのがお分かりになると思います。

 徳川大坂城模型の進行状況ですが、山里丸北東側の雁木、東菱櫓台を作りました。東菱櫓台はどうしたんだって?もう解釈するしかないですから、現状のものは「積み直しされたもの」としました。かつては、あと1m広い幅があったと解釈です。形は菱型ではなく、「く」の字型としました。

 ついでに周囲より少し高くなるよう仏具山を追加してみました。これは高さなど一切史料はありませんが、「山」と認識される程度の土盛りがあっただろうという形状にしています。

徳川大坂城模型制作(菱櫓の幅2)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。今日は、山里丸東菱櫓の櫓台の形状がどうももやもやしていて、スッキリ作業に入れないので、大阪城に行ってきました。春めいた日差しもあって気持ちよかったです。もちろん菱櫓台跡だけを見に行くのでなく、気になっている箇所の確認も目的にあります。

 例えば本丸北東の「仏具山」など一体どういう形の山だったのか、現状からはどの位置になるのであろうかなどです。以前城内のパネルで紹介されていた「浪華城全図」には地面の盛り上がった部分で描かれていましたが、「大坂錦城之図」には山の形に「仏具山」との文字が書き込まれ、「ケサ掛松」(蓮如袈裟掛松)「生害松」(秀頼生害ノ松)の文字もあります。いつも使っている大坂実測図に写し取ってみたのが以下の図です。宮内庁の幕末大坂城写真(43/49)にも糒櫓の左の近くと、さらに左に並んで大きな松の木が写っていますが、これらがケサ掛松と生害松なのでしょう。

 さて、菱櫓台ですが、7間(約13.7m)の辺と6間(約11.8m)の辺が鈍角約120度の平行四辺形になっていれば、菱櫓は入ることとなります。現地で現状の櫓台の端から東側石垣天端石まで(平行四辺形の高さ)を測りますと8m90㎝でした。

   やっぱり足りません。10mは必要でして・・・やれやれです。

   私が使っている、この模型用の図面でしめしてみると、ちょうど菱櫓の左上がはみ出ているのがお分かりになると思います。図面のマルBの面は、戦時中に爆撃を受けた近くなので積み直しの可能性がありますが、マルAの面は見た限りでは従前のままの石垣に見えるところです。菱櫓の短辺が実は6間でない可能性もあると見るべきでしょう。(謎になってしまいました。)

徳川大坂城模型制作(菱櫓の幅)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。

 山里丸の雁木を作っているのですが、東菱櫓櫓台の形状について決着をつけなければならない段階です。最初の写真は左に山里門を内側から見たものです。中央の折れ曲がった新しく積まれた雁木は、平成23年に大阪市教育委員会等が発掘調査して判明した旧状に復元されたものです。(素晴らしいではありませんか。)

 大坂城を訪問するたびに雁木の高さを測るクセがついてしまっていて、駅や、家の階段を上がるだけで「ここは1段25cmぐらいかなあ」と思うようになってしまいました。

 ここの雁木は1段27㎝程度でして、写真からは10段積に見えますが地面に1段埋もれています。なので基本が11段(高さ2m97cm)で本丸石垣に近づくにつれて徐々に埋もれていくようになっています。現状石垣のふもとでは7段になっています。(写真中央に女性が写っていて、なんで私を撮るのって顔をされています。「別にあなたを撮りたいんじゃなくて、あなたの横の菱櫓の石垣パターンと雁木の埋もれ具合をとりたいのですー」とは言わず、顔をボカシてます)

 前回、山里丸東面の建物長さを国会図書館蔵「大坂御城絵図」から27間(約53.17m)と割り出してみましたが、実は「大坂御城御本丸并御殿絵図」の方では25.5間と見えるところでして、すると約50.2mでずいぶん差があります。こうなると現地調査に行きたくなります。グーグルアースで計測してみると50.23mなどの結果が得られるところです。グーグルの計測は、まあまあ正しい数値が出てくるのでこちらでいくべきなのでしょう。

 さてさて、菱型になっていない菱櫓台の問題ですが、「大坂御城絵図」では東西面7間、南北面6.5間と、「大坂御城御本丸并御殿絵図」のほうでは、東西面7間、南北面6間と見えますね。もちろん菱型(平行四辺形)なので、建物の短い方の幅は、図面上で作図してみると約10mとなるところです。

 現状残っている櫓台にこの幅があれば、そのまま菱櫓が入るのですが、私の持っている図面で8m60cmで幅が足りません。グーグルアースでは約9mと出てきます。(惜しいです。やっぱり櫓台を膨らませるしかないのでしょうか) 

 逆方向からの写真ですが、先ほどの女性はどいてくれないようですね。

徳川大坂城模型制作(山里曲輪東面)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。作業をどんどん進めていきたいところですが、そろそろ多聞櫓なども意識しなきゃいけないなと思っています。作業的には本丸の雁木などを作り上げれば、いよいよ石垣にかからねばなりません。

 まず、各面を作り上げて、その面に合せて石垣の写真からパターンを写しとり再現したいと思っています。(城王さんがカーボンコピーで写されているのを記事で紹介されていたので、私もその手法を使わせていただこうと決めています。)多聞櫓、三重櫓などは、その後となるので、遠い道のりとはなります。

 前回、その位置決めに四苦八苦していた砂留ですが、まだ引きずっているところです。写真は、私が本丸北東の糒櫓跡から手を伸ばして撮影した山里曲輪の石塁を見下ろしたものです。いろいろと不明なところも出てくるところですが、まず、右端の青白矢印の先に石樋があります。そして石塁の上の赤白矢印は笠型の鉄砲狭間に小さな三角の欠け部分があり、前回紹介した現地説明会資料の平面図に写真の欠けた部分が描かれています。ちょうど小さな丸い樹木の右となっており、この欠けた部分からちょうど西側に砂留があったことになります。図面の縮尺は割り出せるので一応位置は確定です。良くわからないのは、銃眼石にほぞ穴がありまして、当初これは柱のほぞ穴と解釈していました。つまり1間(6.5尺幅)で、これを基準にすれば実に便利と思っておりましたが、違いました・・・約1間半で、銃眼の幅と同じようです。(ほとんどの銃眼石に入っているので、もう少し調べるつもりです。)

 ついでに、多聞櫓もチェックしておくかということで、先週記事トップに載せた山里曲輪東面石垣の写真と宮内庁蔵の菱櫓の写真を照合してみました。古写真の石垣の石はそのまま残っていますから、現在の写真から同じ石を探し出し、その上の菱櫓の石落しの位置、窓の位置も割り出せます。写真ですので両端には歪があるでしょうが、こんな感じとなります。

 ただし、大坂御城絵図は糒櫓側の石垣の奥行が入っていませんから、誤差が出てくると考えられます。菱櫓近くの窓の位置は、ほぼ確定ですが左半分の窓の位置は、すこし怪しいところです。大坂御城絵図に窓の数など文字で記入があるもののネットの画像は不明瞭で窓の正確な位置が分かりにくいのです。今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(山里曲輪の砂留)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。以前からですが、ブラウザがSSLで保護されていないサイト表示に注意書きを入れるようになってきました。「このサイトへの接続は保護されていません。」と表示されちゃうんですよねえ…無料ブログサービスなどの利用ではサーバー側が対応してくれますが、わたしのようなレンタルサーバーでブログを立てていると自分で変更しなければなりません。(いろいろ面倒そうで少しブルーになってしまっています。まあ、ぼちぼち用意してアナウンスします。見ていただいている方からのURLは変更する必要は無いようにしますので、ご迷惑はおかけしないつもりです。)

 制作のほうは本丸西側の雁木や櫓台を終了させ、山里曲輪の雁木にかかろうかとしていました。山里曲輪の東側は大阪文化研究所が2011年に行った発掘調査で排水施設が見つかっています。現地説明会資料
 砂留(集水桝)があって、ちょうどこの東面外側の石垣には本丸堀に排水用の石樋が見て取れます。図面を1/350に変換して正確に写し取って模型化しようとしている訳です。大阪城所蔵の絵図には、他の箇所にも「砂留」が描かれています。

 ただし、この図面からは本丸北面の石垣からの距離がわかりません。2間の土塀が掛けられていたのですが、まだ石垣面を作っていないので分らんのです。グーグルアースの上空写真などでいろいろ調べていましたら、「あれ?本丸糒櫓の向きって、こうだったっけ?うわわわ・・・」やっと気づいたのでした。

 松岡利郎先生もその著書「大坂城の歴史と構造」の中で、わざわざ「大坂御城御本丸並御殿絵図」の糒櫓は、「桁行と梁行の方位をまちがえて色紙を貼りつけているので、注意しておきたい」と書かれているのに、なんにも考えず同図面を使ってしまっているのです。まるで自分で落とし穴を掘ってそこに落ちるみたいなマヌケなことをしています。(はあー落ち込みますねえ、作業を急ぐとこんなことをしてしまうのですよ。私は・・・)修正するのに2時間程度かかりました。

 そんな訳で、まだ山里曲輪の雁木にかかっていません。こんなことがあったので、「大坂城の歴史と構造」をもう一度最初から読み返しました。
 見落としていたのが、以前の記事で触れた例の根拠を知らないとしていた「仏具山」でして、P165に由来が書かれています。「一同所北之方ニ大的参尺弐的場在り右を矢面山を佛具山と云昔元和の頃佛具を埋ミ候場所の地と伝ふ」(大坂錦城記)と引用がありました。元和6年(1620年)から徳川大坂城の普請(土木工事)が始っていますから、豊臣大坂城の焼けた残骸に仏具などが多くあって、このあたりに集めて埋めたのかも知れません。徳川期には、3尺(約90㎝)の的のある的場(弓の射的場)が2か所あったと読めるので、これも再現したいところです。広い空き地になっているのもこれで理由がわかるところです。

徳川大坂城模型制作(本丸北側櫓台づくり2)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。旧ブログでは作成進行状況が芳しくないときには旧作のお城プラモ写真でお茶を濁したものでした。いい写真が撮れればいいのですが、照明の準備とかいろいろと手間のかかり、そのくせ出来がいまいちだと、なかなか次のチャレンジをしなくなってしまいます。愛機DMC-LX9も飾ったままとなっていました。ひさしぶりに広島城を撮ってみたのが次の写真です。

 広島城南小天守でして、史料がほぼ残っていないので、建物としてのバランスというか、なんというか雰囲気で作ってしまっています。現在の徳川大坂城作成のスタンスからだと、作れなくなってしまいますね。

 次は東小天守です。これも私の感覚でのバランスで作ってしまっていますが、岡山城の櫓とか熊本城の櫓とか個性的な姿を持っており、案外キットの形状が実物に近いという可能性もあるなあと思い直しているところです。(根拠はありませんけど)
 これを見ていると細かいところで「下手だなあ」と自己嫌悪を感じてしまうところです。もっと正確に塗装もしたいし、柱などでももっと精密に組み上げたくなりますね。

 徳川大坂城模型の現状ですが、本丸北側の雁木などを作り上げたところです。奥御番所の土台部分も描いてありますが、これの位置も図面が変わると少しづつずれているところで、も少し西よりにするかもしれません。(この位置は「大坂御城絵図」によるものです。)

徳川大坂城模型制作(本丸北側櫓台づくり)

 徳川大坂城模型作りの続きです。本丸北側の櫓台、石塁づくりを行っています。またまた地味な写真となりますので、極楽橋について触れておきます。最初の写真は、先月大坂城に訪問したときの写真で、極楽橋から北側二の丸方向を撮ったものです。内堀側の石垣下部に橋の幅ぐらいになる穴が二つありまして、もしここに橋げたの支持材が入っていたなら、橋はもう少し西側に繋がっていたのではないかと考えるところです。

 次の写真は、古いもので申し訳ないですが、擬宝珠の数がぜんぜん足りませんが拙作駿府城の橋でして、作品数が少ないので旧作でも紹介しておかないと、ブログがもたないわけです。

 強度をかせぐためであるとは思いますが、古い日本の橋の多くがアーチ状になっており、これも少しだけ太鼓状に膨らませたつもりですが、いまいちのところでして、徳川大坂城の極楽橋をつくる際にはもう少し膨らんだ形状にするつもりではあります。橋を架ける土木技術体系が当時の一部の技術者に保持されていたのだと思います。現在はどうなっているのでしょうか、宮大工の方が継承されているのかも知れません。

 さて、徳川大坂城模型の方ですが、以下の写真のとおりでして、本丸北側の雁木を作ろうとしています。

 写真上部にある発掘資料に基づく雁木を11段にしたので、斜面になっている地面をあわせにくいところでして、手前から11段、中ほどで10段、奥で9段にするつもりです。

 北ノ手櫓台と糒櫓台の間の石塁、雁木があるところです。豊臣大坂城時代には天守があった場所で徳川大坂城においてもその部分の石垣をなぞるように北側に突き出しています。ここは太平洋戦争時、米軍のB29の直撃弾を受けて一部石垣が崩れた場所でもあります。惜しいのは戦後修復されてはいるのですが、当時は豊臣大坂城天守台跡が埋もれていることは知られておらず、調査もされていないようです。修復工事の記録写真などあれば、豊臣大坂城の天守石垣の一部ぐらい写っているかも知れません。(公表されている写真については目を皿のようにして探しましたが、私には見つけられなかったです。)

 手前仏具山から見た写真になりますが、右側の雁木の地面が少し高くなっているように作っています。天守北側の雁木は11段であるもののこの周辺については明治の図面では仏具山の続きになっているように見えるためです。正確な高さを示した図面もないので、ここは推測での高さとなります。ちなみにここの雁木の段数は8段から5段とみています。今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(仏具山づくり)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。本丸北東面周辺にかかっています。月見櫓、糒櫓台にかかる部分、仏具山部分ですが地味な写真なので、それよりも極楽橋について少しだけ触れてみます。

 豊臣大坂城には檜皮葺きの屋根付き極楽橋があり、大阪城図屏風にその姿が残されています。徳川期もほぼ同じ場所に同名で橋が掛けられていたわけですが、大坂御城絵図によれば幅は4間(約7.8m、現行の幅は5.4m)長さ26.5間となっています。橋桁は現行3段となっていますが、古図などでは4段、5段と様々な姿があります。
 
 幅は、はっきりしているので模型化するのに支障はありませんが、気になっているのは、山里門への接続角度でして、現行の橋はグーグルアース上空写真を見ると石垣に対して垂直とはなっておらず、やや傾いているのがわかります。当ブログで参考にしている明治23年発行大阪実測図(この時点では橋はありません)にも、山里門の対岸側にやや東に傾いた位置で橋の受け部のような枠が描かれてはいます。この位置からすると現行の橋の角度は徳川大坂城の極楽橋と同じ角度かなとは思いますが、宮内庁蔵大坂城櫓写真種板15/49の写真の極楽橋が、も少し西よりに傾いて見えて石垣面に垂直じゃないのかと感じてるところです。まあ橋途中の擬宝珠の数(橋桁の数)もよくわからないところですが、極楽橋制作は徳川大坂城模型の最終局面でのことなので当分考える必要はなさそうです。次の写真は山里門側の極楽橋接続左右部分、旧橋の受ける場所の石が削られているのが確認できます。

 さて現状写真ですが、本丸北東にある仏具山をタミヤスチレンボード1mm厚を積み重ねてプラパテで斜面をならしています。 月見櫓両横の雁木と石塁はプラ板の積み重ねで、5段としています。1段目の基礎の段は50センチ程度の高さとし、2段目以上は27㎝の高さとしています。まだまだ作業は続きます。

徳川大坂城模型制作(桝形づくり2)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。前回に続き山里出桝形周辺にかかっています。
 まずは、国会図書館蔵「大坂御城絵図」の該当部分から見てください。山里出桝形は、グーグルアースの上空写真や現行の国土地理院地図からもほぼ台形ですが、江戸時代の御城絵図では直角の長方形となっています。「ここは直角なのだ」というお約束でもあったかのように、年代を経た後の図面もこれを踏襲していくので、図面を1/350にしたときにいろいろと長さの矛盾がでてきます。
 また、古図では矩形に描かれていても、東菱櫓、西片菱櫓、数寄屋前櫓の三櫓以外にも櫓台が長方形でなく、ひょっとして片菱の櫓ではないのかと疑ってしまう櫓もあります。(櫓制作のときに考察してみることにします。)

 まずは、山里出桝形へ登る雁木です。これも・・・自分で測ってきた奥行となぜかズレなども発生して苦労しました。結局グーグルアース上空写真に合わせてみたところです。左の地上面に黒い線が引いてありますが、この線が私の測った線でして、困ったものです。高さは約10.7mmってとこです。

 次の雁木は、出桝形内部に埋まっているもので、実物の高さは1.4mです。1/350にするためには、0.5㎜プラ板、0.1㎜プラペーパーの組み合わせで調整しました。

 次のものは姫門入口の雁木10段と左に本丸へ登る雁木14段となっており、これも高さの調整は難しいものとなりました。ここの雁木は、本丸土台高に関連するため段数は合っているものの、それぞれの高さが正しいのかどうか自信がありません。

 前回あんけんさんのコメントでご指摘いただいた隠し曲輪の門の雁木についてですが、まずは現地写真ですが、隠し曲輪から撮影したものです。雁木が現状二段残っていて、上の雁木には両側に柱を差し込んだほぞ穴が残っています。

 隠し曲輪の地面から見て、手前にもう1段雁木があったのではと解釈しているところです。

 横から撮影したのが次の写真でして、石塁上部の鉄砲狭間の石からやや内側に門柱があったことが確認できます。従って石塁の土塀と同一平面の埋門ではなく、独立した門であったと解釈しております。