徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ3)

  前回に引き続き、徳川大坂城小天守台の仕上げにかかっています。その前に、直近の大阪城訪問の際、屋外にパネル展示されていた浪華城全図(個人蔵)の抜粋の写真をのせておきます。1783年(天明3年)に落雷で大手門などを失い、1845年(弘化2年)に修復されるまでの姿とのことです。金蔵を囲む板塀の仕様などがわかって興味深いところです。 今も残る金蔵は、本丸内にあった「長屋建物」の一部を改造したものと言われており、私の徳川大坂城模型でもこの「長屋建物」は一部再現するので、その壁面とかの仕様をはっきりさせる必要があります。まあ、まだまだ先ではありますが、天守台を完成させれば本丸部分の作成にかかるのでその時に考えます。

 小天守台は登り口から順に仕上げていっております。塗装もしていますが、小天守台の中の石垣壁面とか先にプラ板で完成させてしまうと塗装に苦労するので、パーツの合いを調整したらある程度の塗装をしてから組み上げるようにしています。 この写真は、登り口雁木を登って左に曲がったところの雁木と溝部分の写真です。ここの雁木は1段が並行2枚の積み方となっていますが、私は1枚の雁木石での積み方と解釈しております。そしてこの写真上部の石垣壁面は、新しい石で積みなおしされております。ここの古写真は見当たらなかったので、現状に似せて石垣パターンを作っています。 ちなみに、各雁木はグレー系の石垣色を塗っていますが、実物写真を見てもわかるよう、こんな色ではありません、あくまでこれも下塗りですので、あしからず。まだまだ、先は長いところです。今回もおつきあいありがとうございました。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ2)

  徳川大坂城模型の制作記事のつづきです。前回に引き続き小天守台の仕上げ作業にかかっています。

 登り口雁木横の石垣パターンの彫り込みがまだだったので、入れてみました。参考にしている古写真は天端石を入れて布積みの5段ですが、埋もれている一番下の1段を想像で追加しています。(想像でもこれは、仕方ありません。) 登り口の雁木と踊り場の雁木との高さが、そろわないなので調整する必要があります。その次の踊り場とも合わなくなっています。つまり踊り場を0.1から0.2㎜低くしなければならないところです。ピタリと調整するのに時間がかかってしまっています。大天守台の石垣もモコモコしていますが、古写真との照合で石垣彫り込みを変更しているためであります。このあたりの微調整をおざなりにしてはならないと思っています。 だけれども、限界もある訳でして、だいたいの石垣をいれたけどもなんか形が違うなあというところもあります。上下写真を比較いただくと、私の限界もばれてしまっています。(絵のスケッチ作業みたいなもので、スケッチが下手くそであるということです。orz)

 まあ、自分をなぐさめるとすれば、おそらく誰もやっていないだろう大坂城天守台東面石垣パターンを再現しようとしているのがわかればいいかといった感じです。作業にかかりたいので、今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ1)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。やっと小天守台の仕上げにかかろうとしています。あんけんさんがコメントでご指摘されていたように徳川大坂城の天守台をできる限り正確に作ることに没頭しすぎて「模型」の完成という目標を忘れかけていたようです。どんどんパーツを作って完成をめざさねばなりません。

 いささか大言壮語的ですが、私がいつもライバル視している模型は、お城などに展示してある「城郭模型」でして、この徳川大坂城模型は、大阪城天守閣に展示してあるさんけいさん制作の徳川大坂城天守模型がライバルなのです。なので、どこまで精密に仕上げるかにはこだわりますし、あちらが省略若しくは独自解釈があれば、根拠をあげてそれ以上の物にしたいと思っているのです。(まあ、当方のテクではかなわないところもあるところですが)

 例えば、さんけいさんの大坂城天守台の石段は、34段ある訳ですが、早稲田大学所蔵の天守台図面には29段と文字で記載されております。天守台がまっ平な平面上にあるのであれば、34段ぐらいになるところです。私は天守台下の地面の高さが異なると解釈し、29段にしているところです。(写真の赤線は現状の地面高となります。)

 ようやく、考証などを済ませて、小天守台仕上げにかかり出したところで、この石段で苦労したところは、石垣表面と各石段をがピタリとあわせるところでして、何度も微調整してこんな感じです。

 小天守台内の石塁の側面石垣部分をプラ板で作っていきます。仮に接着して調整していきます。石垣のケガキがありますし、その塗装もあるので、あくまで仮に作っていきます。 大天守台の石垣の修正箇所に鉛筆で書き込んでいますが、石段横の石垣のパターンとの照合で間違いが判明したためです。 とっとと、小天守台を完成させて、本丸部分の制作に移りたいものです。

徳川大坂城模型制作(金明水井戸の制作2)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。前回に引き続き、金明水井戸の制作にかかっています。制作中のこの徳川大坂城模型については、これまでのような童友社お城プラモパーツの流用ではなく、一からの1/350フルスクラッチに挑戦しているところです。天守も含め様々の櫓を作るにあたり、私が最も難しいと考えている屋根づくりの手法をなんとか獲得しなければなりません。

 まずは、小さな金明水井戸の屋根を試作するつもりで仮組してみたのでした。(大棟などは仮のもので、鳥衾や鬼瓦などはついていませんし、ケラバ丸瓦もまだですのでご勘弁を)

 屋根を支えている黒いパーツも飾りを彫り込む必要があります。妻飾りは蕪懸魚(かぶらげぎょ)となっていますが、実物写真から台紙を作り0.5㎜プラ板に張り付けてくり抜いています。小さな加工は度のキツイ老眼鏡で済ましていますが、難しいです。

 童友社大阪城キットの金明水井戸パーツを流用した江戸城プラモの小天守台井戸と比較するとこんな感じです。

 私の今持っている工具などでは、この程度が限界となります。細かいところを正確に作り上げるのは、まだまだ修行が必要というこです。

 

追記 6/25の記事にあんけんさんからコメントをいただいていたのに、見逃しておりました。(このブログはコメント通知機能がないので、過去記事を単独で開かないと気づけないのです。無視したみたいで、本当にごめんなさい。)いつもごらんいただき感謝しております。

大坂城天守台づくりにハマってしまっているのは、おっしゃるとおりでして、正直こんなペースでは完成まで何年かかるんや?とも感じてはおります。ただ、大坂城の石垣系では、この小天守台部分が、それぞれの段など高さも異なり、一番複雑な難物でして、ここを越えれば、あとはそれほどではないと思っているのです。

屋根のほうも3Dの情報ありがとうございます。調べてみることにいたします。

 

徳川大坂城模型制作(金明水井戸の制作)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。金明水井戸の制作にかかっているところです。前回紹介したパーツの「四半敷」は、アップで見ると正方形になっていないところがあまりに多いので、作り直しました。(今回、けっこう、これに時間がかかってしまいました。)

 ちなみに、金明水井戸の1/50の図面を1/350でプリントしてみましたが、こんな感じで、字や線がつぶれてしまってほとんど、読み取れません。まあ、長さの確認に使うぐらいで、1/50図面の長さを1/7にしてパーツを作っていきました。

 前回までお見せしていた金明水井戸の基段も、私の図面の読み取りミスで、縮尺が誤っていたので、これも作り直しています。

 やっと上屋の柱を作り出したところです。これも1/350で太さを計算すると約0.7㎜と中途半端な値でしたので、0.2㎜プラペーパーと0.5㎜プラ板を張り合わせて切り出しします。

 今回はここまでです。パーツが気に入らないと作り直しするので、とてものろまとなっています。

徳川大坂城模型制作(小天守台制作微調整)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。従前よりお見せしている小天守台の写真には、グレーの床が出てきていますが、あれは仮の紙製のものでして高さの調整に使ってきています。歪みや反りがでてくるので最終的にはプラ板での作り直しとなるところです。

 金明水井戸の基壇は、4枚の石板(黒い御影石と思われます。)で組まれていて、四方に溝も彫り込まれた贅沢な仕様のもとなっています。(なので、各段が敷石であったろうと迷い続けているのです。)平面図、側面図はありますので、1/350でまあまあの精度で作れるので楽なところです。

 金明水の段の斜め石敷きですが、図面から測ってみると1.3㎜正方形となります。彰国社の図解古建築入門という本を最近読んだのですが、お寺の床で使用されるこの床張りは、「四半敷」というのが正式名称らしいです。このプラモでの引き方は、タミヤのノギスをデバイダのように使って、印を入れて定規を使いデザインナイフで入れていきます。ノギスの幅が知らないうちに開いて、1.8㎜に開いてしまって、誤った線が残っています。パテで修正しています(なさけない・・・)古写真で判明した溝も追加しています。

    ちなみに、金明水の基壇の周りは、敷石がありまして、これがどうも古いもののようで、現天守閣再興の前からあったように見えます。大阪城天守閣三階に展示してある徳川大坂城天守模型(旧ブログコメントで「株式会社さんけい」さんの制作との情報をKek511さんよりいただいております。)では、このあたりを根拠に、古写真のような土の部分は、元の敷石の上に被さっていると解釈されたのだろうと思われるところです。

 ブログのほうは、記事がスカスカになっていますが、作業の時間に費やしたいと思いますので、ここまでです。小天守台の微調整がすめば、屋根の試作もしているので、金明水井戸の上屋を作ってみるつもりです。

徳川大坂城模型制作(金明水井戸の隠された溝)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。前回で予告していた小天守台に関してですが、本ブログで、何度か話題にしている「大阪城址写真帖」の古写真をまずはごらんください。(偶然ヤフオクで見つけて手に入れたものです。この場面のものはネットで見かけたことがなかったです。まだまだあるのかも知れません。)

 着物姿の女性と女の子が黄金水(金明水)井戸前に佇んでいます。もちろん天守閣が再興される前の写真でして、井戸屋根右上に陸軍第4師団司令部庁舎でなく、前身の経理部か軍法会議かの建物屋根が見えている珍しいものです。

 私にとっての注目点は、まずは女性の右側に雑草が生えていて石畳ではないことを確認(看板の影らしきものが少し気になりましたが)できたことです。井戸屋根軒右側に見える石塁の上部にも雑草がありますし、敷石なしでいいんだと少し自信が生まれました。

   さらに、井戸左下の斜め敷石(以前は敷「瓦」と思っていましたが、明るいので、やはり「石」のように見えます。)と雁木石の間に石造りの溝があることが見て取れます。井戸のあふれた水を排水するためのもので登り口の側面にある石樋につながっていたと考えられます。

   ちなみに先日大阪城小天守台を観察したときに、現状の敷石が、どうやらこの溝を覆っているのが分りました。左写真では井戸右横の溝が途切れたようになってますが、アルミ製のごみトラップが据えてありました。右写真は、その先にあるコンクリート製の蓋のものです。(古いものですが、いままで、ぜんぜん気づいてなかったです。)この溝については、当然模型で再現しなければなりませんねえ。

 前回、前々回と屋根瓦の試作をやっていて、結局「大きな縮尺の図面」で瓦幅など算出したいと思っていましたが、いい資料を持っていたことをすっかり忘れていました。
 旧ブログから見ていただいている方はご存知でしょうが、1/350駿府城模型(模型は依頼とか関係なく自分で作りたいからつくったのですが)を作成した関連で、本ブログの「城男」を静岡市から駿府城坤櫓のキャラクターに採用したい旨のお申し出を受け、城男作者が坤櫓用に「しろおくん」というキャラを作って無償提供いたしました。(まあ、ほとんど「城男」のまんまですけどねえ、失われた櫓や天守の化身という設定ですから、よく似たやつがたくさんいるということで勘弁してやってください。)それで、しろおくん作者ということで、坤櫓の開館式典に招待されたときに、建築工事報告書をいただいていたのでした。

 中を見てみるとありましたねえ、参考にできる図面が。櫓三重目屋根と本瓦の収まり図、土塀の図もありました。それも正確に1/50ですから、まあまあの精度で割り出せます。ありゃりゃ、坤櫓に使用された丸瓦と土塀の丸瓦の直径が異なってました。丸瓦ごとのピッチも異なるようです。(ちなみに、この画像ではわからないかも知れませんが、入母屋破風をオーバーハングさせていますね、2/100破風斜とあります。)

駿府城坤櫓屋根図面より(1/350換算)
 本瓦葺きピッチ:0.82㎜ 丸瓦径:0.495㎜ 平瓦重なり表出部分:0.33㎜

駿府城土塀図面より(1/350換算)
 本瓦葺きピッチ:0.71㎜ 丸瓦径:0.33㎜ 平瓦重なり表出部分:0.33㎜

 徳川大坂城なので、これら数値も参考にするつもりです。すくなくとも土塀と櫓などの屋根瓦は異なるということにします。 

徳川大坂城模型制作(徳川大坂城の屋根瓦の試作)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。先日仕事を休んで大阪市内へ出かける機会があったので、何度も行ってはいますが、大阪城を再訪してきました。平日なのですいているかと思いきや、大勢の外国人観光客が見学していました。(日本のお城を知ってもらうのはいいことだと思います。)

   森ノ宮駐車場から市民の森を抜けて、大阪城天守閣の南東側の玉造口からの登城です。玉造門の東側を守った巽櫓跡に行ってみますと、猫が石垣天端石に寝そべってます。

 

   お?玉造門の門番猫か、カメラを向けると顔をあげて、目の前の柵の上まで来てくれました。ニャでさせてやるよって感じです。背中とか撫でてやるとじっとしています。かわいい奴でした。

 玉造門の土塀跡には、立派な石づくりの控柱が残っています。対して、本丸入口の桜門横の土塀の控柱は、下部が石づくりで木の柱をつないでいます。桜門のほうは復元ものでしょうけど、城内でいろいろあったのか、石づくりで統一されていたのか、少し悩みますね。

 天守閣にも行ってきましたが、内部の展示では幕末ものがテーマとなっていました。興味はありますが、そこそこに見学して、小天守台の細かい観察に時間を費やしました。いろいろ発見するところもあったところです。それは次回以降に紹介するとして、前回に引き続き、別バージョンの大坂城屋根瓦の試作を見ていただきます。

 前回、土塀の丸瓦のピッチについて1/350で0.84㎜としていましたが、訂正します。10個間隔で測ると1間隔が0.83㎜となりました。瓦の重なりは、0.36㎜でなく0.32㎜であろうと思います。(ちなみに、これら数値が正しいとは当ブログは、一切保証しませんので、あしからず)

 今回試作したのは、0.5㎜プラ板に0.83㎜の間隔で縦に0.2㎜幅のスジボリをし、それと交差して横方向に、平瓦ということで0.32㎜間隔のカッターでのスジボリを入れました。そして縦の0.2㎜幅のミゾに0.4㎜の丸プラ棒を接着してみました。(とりあえずの冶具で作業したんですよ、細かすぎて目が痛くなりました。)うーん・・・横線の平瓦のスジボリが、いまいち均一になっていないようで、もう少し精度を上げる必要があるようです。

徳川大坂城模型制作(徳川大坂城の屋根瓦のピッチについて)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。まずは、制作中小天守台の現状ですが、銃眼つきの天端石を作ろうとしています。童友社大阪城キットの天守台のものを切り取って流用しようとしていますが、どうも高さなどに疑問が生じています。ハンディルーターも壊れてしまい、滞りとなってしまいました。それでも手法は見えていますので、作業のみで心配はしていません。

 できるかどうか心配していたのは、今回このお城プラモで挑戦しようとしていた屋根瓦のスクラッチでして、そのテスト版を作ったので、それについて触れてみます。以前東京マルイ姫路城の記事でも書いたように、あまたの1/350お城プラモの屋根瓦のピッチ(隣あう丸瓦の頂点の距離)は、どうも怪しいと疑っていたのでキッチリとした根拠を探していました。結局図面でして、大阪城天守閣が発行した「特別展大阪城はこの姿」p54に大手門北方塀詳細の図面が、まあまあ大きく載せられており、メートル単位のスケールも入っていました。この図面の縮尺を割り出し、図面の丸瓦のピッチを出してみました。

   土塀と建物の屋根瓦ピッチが同じなのかどうかは、櫓の図面などで後ほど確認することとして、とりあえず割り出してみると29.4㎝、丸瓦の直径は15.2㎝となりました。(小数点以下は怪しいです)1/350に換算すると、0.84㎜と0.43㎜となります。(げげ…小さい)これを作るのは難しいですぞ。エバーグリーンの0.25㎜×0.5㎜のプラ板とプラストラクトの直径0.4㎜プラ棒の組み合わせで作ってみることにしました。

 軒先で丸瓦は、丸になっていますが、平瓦の上に乗っているところでは半円でして、0.5㎜プラ平棒を0.3㎜のスキマを空けて並べていき、そのスキマに0.4㎜プラ丸棒をのせていけばいけるのではないかと思ったのです。もちろんプラ板に0.84㎜間隔でミゾを掘って、そこにプラ丸棒をのせるっていう手もありますが・・・

 写真の上に写っている屋根は、童友社大阪城のものです。よくよく、測ってみると0.5㎜となっているエバーグリーンのプラ板の幅は0.6㎜のようです。スキマを作るのに0.2㎜のガイドみたいなものを使えばなんとかなりそうです。平瓦の重なったのも再現したいところですが、先の図面の土塀の断面図で見ると、12.7㎝で1/350では0.36㎜でして・・ううーん、こりゃ、まずは冶具かなんか作らないといけないかなと思ったのでした。

彦根城プラモ天守の設計など

 仕事が混んでしまって、ブログ記事を1週間とばしてしまいました。どうもすみませんでした。今回は、彦根城プラモをPanasonicDMC-LX9で撮ったので紹介させていただきます。(え?「彦根城プラモなんか特にみたくない」ですって・・・まあまあ、このカメラに慣れるためのトレーニングみたいなものでして、ご勘弁を)ちなみに、撮影した映像はいろいろ加工処理も加えているので、このカメラを使えば写真が必ずこうなる訳ではないのでお間違えなきよう。

 このキットについては、あまりに実物と離れすぎているので「ツッコミ」を入れいるモチベーションが高まらないところです。そもそも各階平面が違いすぎているので「彦根城を名乗る若しくはイメージしたお城プラモ」ってとこでしょうか。前回再建岡山城天守でも触れたように、お城プラモも設計段階で、もう少し細かいところでこだわっていれば、こんな「残念な天守」にはならなかったのにという思いがつのるのでした。

 お城に対する敬意、憧れ、こだわりを持つ設計担当者がおられたのだったら、私たちは今とかなり異なる状況を目にしていると思うのです。なにをえらそうにと叱られそうですが、古い世代のプラモデラーの方であれば、昔の模型屋にプラ模型の帝王のように鎮座していたニチモ1/200戦艦大和(大きな店だと組み上げられた完成品がショーケースに飾ってありましたね。)を覚えておられるでしょう。

 あれこそ、後にグラフィックデザイナーとしてニチモから独立し「軍艦メカニズム図鑑」やタミヤの「軍艦雑記帳」を書かれていた故森恒英氏が設計したものです。(wikiによる)

 この方の書いたイラストは、興味のない対象物(例えば弾薬箱)でも魅せられてしまうと言えばいいのでしょうか素晴らしいです。故森恒英氏が軍艦に持っておられたこだわりをお城に対して少しでも持つような方が、メーカーにおられればなあと思うのは、ないものねだりなんでしょうねえ。

 これからは、3Dスキャナーや3Dキャドが、もうありますから実物や建築図面などがあれば、完全縮尺のお城プラモもキット化されるかも知れません。石垣だって3Dで撮影して、写真の3Dフルカラーをテクスチャープリントすれば、もう色味で悩む必要もなくなるでしょう。

 世の中は産業革命のようなものすごい変化が起こっているようですが、お城プラモもその恩恵に預かれればなと思います。(ただし、3Dプリンタは私も関心がありますが、現段階では1/350お城プラモに使える精度ではないです。)とりとめない話になりました。今回はこれにて・・・