徳川大坂城模型制作(土台作成4)

 徳川大坂城模型作成記事の続きです。土台については、一応、西片菱櫓、山里口門、東菱櫓を含め、本丸北東の糒櫓、月見櫓を含める部分までを模型化することにしました。

    もちろん山里丸にあった加番小屋も含めることとなります。下の図は、国立国会図書館蔵「大坂御城御本丸并御殿絵図」で「大坂御城絵図」と同様に建物規模が記載されています。ただし、加番小屋については、両方とも記載されていません。
 加番小屋については、大阪城天守閣蔵の「山里御加番小屋絵図」があり、ここから平面規模などがわかるものとなっています。本家・役宅(加番役大名の屋敷)と同心や与力の長屋が周囲に配置されています。この長屋の仕様、例えば屋根が瓦葺きなのか、板葺きなのか、また悩ましいところではあります。宮内庁蔵の幕末大坂城写真に写っている建物には、瓦をスキマをあけて置いただけの板葺きのものがけっこう多いのです。加番長屋の屋根もそうではないのかと疑っています。
 また、天守台東側は空地が広がっており、さらに糒櫓周辺は高台のようになっています。ちなみに松岡利郎先生の「大阪城の歴史と構造」に掲載されている徳川幕府再築大坂城縄張図には、私は元史料は分からないのですが、この盛り上がったところに「仏具山」と記載されています。
 ここの標高は基準点があって、32.9mとなっていて天守西側よりも1m強高くなっています。
 もうひとつ悩ましいのが、「大坂御城御本丸并御殿絵図」に見られる焔硝蔵(火薬庫)です。現行西の丸に現存している焔硝蔵は、1685年築造で、青屋口にあった焔硝蔵が落雷で大爆発を起こした後に、新たに作った頑丈な石造火薬庫でして、これ以前の仕様が分りません。絵図からは、おそらく周りを古墳のように土盛りで囲んでいるもののように見えますが、屋根はあったのか、半地下としていたのか、分かりません。

上の図面が国立国会図書館蔵「大坂御城絵図」に描かれた焔硝蔵、下が「大坂御城御本丸并御殿絵図」に描かれたものです。上のものは建物を描いたというよりは、中に格納されている「唐銅焔硝箱16こ」を表しただけだと思われます。建物にしては、柱なども描かれていませんし、焔硝箱にしても巨大すぎると思います。この図には本丸南にもう1か所同様な唐銅焔硝箱置き場所が描かれていますが、奇妙な印象で、どういう意図であったのでしょうか。

徳川大坂城模型制作(土台作成3)

     徳川大坂城模型作成記事の続きです。土台について10/22の記事のあんけんさんのコメントで、菱櫓を含めた山里丸全体の追加リクエストをいただいたところです。
 
 菱櫓とは、山里丸にある東菱櫓と西片菱櫓で、特に東菱櫓は平面が菱型の二重櫓で、屋根も北西と南東角が鋭角で「悉皆菱型ヨリ成リ亦奇観ヲ極ム」とされる櫓です。私は根拠史料を知らないのですが、豊臣大坂城の復元イラストなどにも描かれており、徳川大坂城では、2代目になると思いますが、宮内庁蔵の幕末大坂城写真に、なにか錯覚を呼び起こすような、その奇妙な姿を見ることができます。模型としては、非常に作ってみたくなる櫓であることは間違いありません。

 ただし、山里丸全体を追加すると、そこにあった山里加番の建物を復元することにもなります。これがけっこう多いんで、正直避けていたところもあります。なにせのろまなモデラーですので、あまり模型化範囲を広げると時間がかかりすぎてしまうと思ったからです。

 とりあえず、山里丸と本丸東側の石垣を追加できるよう追加土台を作りました。山里口門も再現が必要になります。ここには極楽橋もかかっていたわけで、「橋」好きの私は、これも含めたくなるところです。

 どうしようか・・・迷っております。

徳川大坂城模型制作(土台作成)

 徳川大坂城模型制作記事に戻ります。天守台については、塗装も中途までで、鉄砲狭間のついた天端石も取り付けていませんが、複雑な小天守台の各段や雁木も、早稲田大学図書館蔵史料に従い仕上げたので、このあたりで置いておき、天守台周辺にとりかかることにします。天守台の出来はいまいちですが、以下写真で紹介しておきます。

 

 なにが、いまいちかといいますと、石垣の質感を出そうとしましたが、大坂城の石垣の石の表面はもう少し平滑で模型では、デコボコが大げさになってしまっています。塗装の前には目の粗いサンドペーパーで整えようと思っています。

 

 小天守台上の石の色調は、新しく積みなおされた石は、白に近いベージュ色ですが、それ以外けっこうオレンジがかった色調をもっています。もちろん火災の影響で焼けた石も残っていますが、オリジナルはこのオレンジっぽい色であろうと思っています。

 上記写真では、雁木の色は、グレーのものも残っていますが、塗装仕上げのときには、全体を整えるつもりですので、ご容赦を・・

 

 天守台西面の写真となっています。

 天守周辺の本丸部分の作成作業に取り掛かっていきます。天守台のうち、小天守台が私にとっては複雑なものと感じていて、とても時間がかかってしまいました。ただ、この写真を見てると天守周辺もこのサイズにしたのは、北東側は北ノ手三重櫓までと決めていたからですが、なにか物足りなさを感じてもいます。もう少し拡張してもいいかも知れません。今回はここまでです。

お城のイラストを見るのは楽しいです

    大坂城天守台の作業のほうは、ぼちぼち進めていますが、地味な写真ばかりとなるので、ますは前回に引く続き浪華城全図(個人蔵)をごらんください。

    大坂城桜門周辺が描かれており、蛸石もありますね、本丸御殿の入口もあり、石畳が描かれています。手前左下に西の一番櫓があります。現在の大阪城では、この櫓跡と桜門桝形との間は、土盛りされていて、広場のようになっています。どの時点で土盛りされたのでしょうか、戦後すぐの写真などを確認するとこの部分全体を占める建物がありますから、それが解体後で、けっこう最近なのかも知れません。また、前回「犬小屋」などと言っていた小屋型が御殿入口横にもありますが、たぶん防火用の水箱だと思います。この絵図は、まさにお城鳥瞰イラストですが、最近、お城のイラストで有名な香川元太郎先生の新しい本が出版されましたので、紹介しておきましょう。

    PHP研究所出版「47都道府県別よみがえる日本の城」税別880円です。もちろん、本を開いて真っ先に私が虫眼鏡で確認したのは西ヶ谷恭弘先生監修の徳川大坂城鳥瞰図の天守周辺でして、例の小天守台西側の通路は、掛け造りの斜め廊下橋と解釈されているようです。他のお城も飽かず眺めることができて、イラストとしての安定感・安心感が絶大です。

   「あとがきに代えて」で昨今のCGについても触れられており、建物は上手いものはあるが、山城については難しいだろうと述べておられます。(そういえばCGで描かれた山城で、山に見えるものはないです。)

     わたし的には、うーん、最近のムック本などで使われている天守CGで酷いものも、まだまだ多いと思いますけどねえ。なにがダメかというと、まずは、屋根や建物高のバランスですね、結局CGといっても建築3Ⅾソフトで図面から起こして、レンダリングしているのではなく、お絵描きソフトで屋根瓦などのパーツをコピペして並べて平面に絵を描いてるだけですからね。その多くが見ても疲れるというか、やれやれって感じです。いいかげんCGをありがたがる風潮が改まってほしいなと思います。

     香川先生には、今後も素晴らしいイラストでお城ファンを楽しませていただけたらなあと思います。石川県のページの前田利家時代の五重天守のある金沢城イラストもいいですなあ。この本、お城ファンの方なら買って損はないです。
〇香川元太郎先生のHP

     徳川大坂城模型の写真も、現状ということでのせておきます。塗装がそろってなくて、きたない写真で申し訳ないです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上7)

 徳川大坂城模型制作記事に戻ります。前々回大阪城天守閣主任学芸員の跡部先生にお尋ねした小天守台西側通路ですが、先生に否定されたにもかかわらず、結局石垣をカットして雁木を作ってしまいました。(答えがどっちであれ作るつもりだったんだろうと言われそうですが、そのとおりです。)まあ、その写真は後半にとっておくとして、まずは大阪城屋外にパネル展示されていた浪華城全図(個人蔵)の抜粋の写真をご覧ください。二の丸七番櫓が右下にあって、西番頭と書かれています。下見板張りの建物などが並んでいて、その仕様がよくわかる絵図となっています。

 七番櫓の左上から延びる長屋には、板塀をかけた庭があったことが確認できます。駐在していたさむらい達が楽しみのために植木でもしていたのでしょう。この敷地の中央あたりに小さな小屋がありますが、国会図書館の大坂御城図と比べてみると井戸であるようです。よくわからないのは、画面右の石垣の上には土塀が並んでいるのですが、内側にも並行して土塀がかけてあるようです。控柱があるので、石塁の両側に土塀があるように見えます。なんででしょうねえ・・・国会図書館の大坂御城図にはこの南側の石塁には大砲が並べてあります。それと関係があるのかも知れません。それよりもっと分らんのは、敷地の左下側にある白い小さな小屋形で、まさか犬小屋でしょうか?そんなもの絵図に描くかなあ・・・とにかくこの絵図は、いろいろ発見があって面白いものです。

 さて、小天守台西側の通路です。前々回にも載せた写真ですが、矢印の石垣部分が上部出入口と同じ幅で積まれており、これらの石積みは、ここに繋がっていた二重櫓がなんらかの理由で解体された後に通路を塞ぐ目的で積まれたと私は考えています。


「通路として使用しないのなら、上部まで完全に埋めてしまうだろう」というツッコミはとりあえずある訳ですが・・・    名古屋城天守台の埋め込まれた通路跡は計画された西側小天守台への通路ですが、大坂城の場合、古図面に多聞櫓らしきものが現実に存在したことは確認ができます。

 ただし、国会図書館の大坂御城図には、この櫓は描かれておらず、どういう構造の通路であるのかは史料もなく分かりません。大阪城天守閣にあるさんけいさんの徳川大坂城天守模型には二重多聞櫓が接続していたと解釈されています。(私が、これをどういった形状にするのかは「お楽しみ」です。)

城郭模型姫路城訪問

  今回は、少し制作中の徳川大坂城から離れて、城郭模型見学の記事です。日差しの強烈な8月27日暑い日でしたが、早朝からバイクで名阪国道を東へ、三重県に入って南へ伊勢まで走りました。目的は、前から見てみたかった、おそらく日本で最も有名な城郭模型で、ひめじ観光大使井村裕保氏が制作された1/23姫路城模型(「伊勢の姫路城」とも呼ばれていますね)です。

  個人のお宅の庭にある模型を拝見させていただくのですから、まずは名刺(お城プラモ写真と実名が入ってます。)でご挨拶させていただきました。井村さんからいただいた名刺には、ひめじ観光大使とあり、姫路市に任命されていらっしゃることがわかりました。

  この姫路城模型は、備前丸(本丸)、二の丸、乾曲輪、西の丸、井戸曲輪、上山里曲輪、下山里曲輪、内曲輪の一部を含めた広大な範囲を模型化されています。また、この城郭模型の最大の価値と魅力は、今は見ることができない失われた櫓、御殿など綿密に調査もされ復元し、学術的な価値も高く、盛時の姫路城の姿を現出させているところにあります。

  二人模型の前に立って、城郭模型の大先達にいろいろお話を伺いました。壁や屋根はFRPで作っているとのことで、興味がある屋根瓦について伺ってみると、丸瓦の幅は、1尺程度で「型」をつくって流し込みで作成されているらしいです。(「1/350とか小さいのは大変やろ」と同情していただきました。まったくそのとおりではあります。)

  備前丸の高さとかどのように調べられましたと伺うと、現地に行って全部自分で調べたとのこと、石段の段数から再現し、「やるからには徹底的にやらにゃ」とおっしゃっていました。(この城郭模型を完成させるには、それは堅い意思が必要でしょうから、井村さんの姫路城に対する思いの強さを知るとともに、私としては我が意を得たりという感じでしょうか。)

  大天守に話を移して、大入母屋屋根の妻面は傾斜していますよねと話しをすると、「プラモデルなんかでは、再現されてるのがない。あれがこの城のいいところ」と断言されていました。(おそらく、この姫路城模型を作成するのに、参考になるものは、なんでも確認されていて、妻面のオーバーハングなどよく分っておられるようです。)

 かって備前丸に存在した、多聞櫓、櫓、備前丸内の御台所、上御台所も再現されているので、その図面について伺ってみると、図面はあって姫路城から提供を受けたとのことで、「推定で作っているところもある」とのお返事でした。また、諸図面については「当時の大工の考え方で、6尺間(江戸間)と6.5尺間(京間)のどちらかになっていて、よくよく調べないとわからない」と言っておられました。(図面には江戸間で書いたとか注釈などないですからね)

    訪問した時点では、天守、小天守の修繕中(今回掲載の写真の反対側)でしたが、西の丸の千姫御殿についても「完成時は、瓦葺きだったけど、あとで史料がみつかって、檜皮葺きに変更した」とのことで、史料が見つかればそれに合わせるという正確さへの徹底ぶりで、名庭園のごとく常に手を入れられているというのも素晴らしいと感じ入ったところです。
(私のお城プラモ作りも後で史料がでれば改変するスタンスに立てば、も少し早く作れるかも知れません)

   最後に、お話が伺えてとお礼を申しあげると「あんたもこれ(名刺に刷った広島城プラモの写真)はなかなかいいので、がんばって」と言われました。(こんな方に、ほめられるとほんと嬉しいですねえ)

(注:上記写真は、実物のようにみせるため、背景に映り込んだ木々を写真上カット加工しているものがあります。)

大阪城学芸員の方を訪ねる

 前回書いたように、大阪城の学芸員の方にお伺いしようということで、先日行ってきました。もちろん電話でお願いしてアポイントメントをとって行ったのです。(6/25の記事で紹介した大坂城址写真帖の金明水井戸のはがき1枚を寄贈する要件もあったので、すんなり会っていただけたのかも知れません。)

 大阪城は快晴の午後です。入館証をいただいて、天守隠し部屋みたいな学芸員室でどこなのか迷いましたね。部屋に入れていただくと、応対用の机とその背後には、向かい合わせの学芸員だけの席、各机の上には書類が積み重なっており、入って右側には書庫、とにかく史料やらでいっぱいのようでした。城郭模型を作ってる旨の自己紹介して席について要件に入りました。

 最も聞きたかった、小天守台の地面については、「あれは、市電の敷石を敷き詰めたものだと伝え聞いています。地面は土で正しいでしょう」(市電とは、いまはなき大阪市営のチンチン電車)とのことでした。本当は、金明水井戸周りにある古い石畳も引き合いに出した上で聞けばよかったのですが、なにせ、主任学芸員の跡部信先生にご対応いただいたので、私は見た目と違って小心者でして、しつこく聞くことができませんでした。(著名な専門家の方に嫌われたくないじゃないですか)

 次に伺ったのは、旧ブログで紹介した小天守台西面の多聞櫓への接続口でして、ここの石垣は縦の入口状のところを後に下半分程度を石垣を積んで埋めてあるのではないのか、小天守台の段に上るための雁木があったんではないでしょうかと聞くと「うーん、それは違うと思います」とのお答えでした。名古屋城天守台の埋められた入口、早稲田大学図書館蔵の大坂城天守台図面を引き合いにして、ここは食い下がってしまいましたねえ・・・大人げない話ではあります・・・学芸員の方々も、たまにこういった「大阪城を研究しているとか言ううるさいおっさん」を相手にされているのかも知れないなあと思い至って、すぐに気が萎えてしまいました。

 お城のドンと呼ばれる大砲は、現在の車いす用エレベータが設置されているこの小天守台西出入口に置かれていたので、そのころの写真を見せていただきましたが、地面の石の置き方は確認できるものではありませんでした。(おそらく史料はないでしょう、なにせここに多聞が接続しているだろうと確認できるのは、古い本丸図面が数点あるだけで、明瞭なものでもないですから)まあ、ひとり色々調べていると、誰かに聞いて欲しくなるという欲求が私の中に起っただけのことです。

 ただし、こんな機会はめったにないので、もうひとつ聞いておこうと山里丸から山里出桝形へ上がる雁木について伺いました。例のピラミッドみたいになっている珍しい形状の石段で、写真にあるように、整形された雁木で積んだ段とたぶん栗石と同じ小石を並べて三和土仕上げで積んだ段が交互に積み重なっているのです。他のお城で見かけない仕様で、駆け上がりにくくする意図なのか、それとも当初は整形された雁木のみで1段が高い石段だったのを、例えば陸軍がいた昭和の時代なりに、のぼり易くするために追加したのか知りたかったのです。(もちろん徳川天守存在時の模型でここを再現するのに必要な情報ですから)これも不明とのことでした。今後なにか史料でもあれば、メールでご連絡いただきたいとお願いして帰りました。

 先生は、豊臣大坂城の御専門の方ではあるので、徳川大坂城の細かい仕様など私のようなトリビア的な質問は失礼にあたったのかも知れません。ともかく、徳川大坂城模型の小天守台地面の仕様を確定させるのに貴重なお時間をいただけたということで、跡部先生にはご迷惑をおかけしたところです。もしこのブログをみていただいているのであれば、ご容赦くださるようお願いします。

 せっかくなので、跡部先生の本を紹介させていただきます。吉川弘文館「豊臣秀吉と大坂城」(ISBN978-4-642-06784-3)です。1秀吉の履歴書では秀吉の神仏観などにも触れら、近年見直しがされつつある豊臣秀吉の個性が浮かび上がってくるように描かれています。前段で触れられていますが、戦後歴史学の主流だった観点については、その正論がまちがいないのと同程度に「いつでも個人が歴史に作用する窓が開かれているという命題は真実」と述べられており、こういった歴史へのアプローチは、私は大賛成してしまいます。

 (ちなみにもう長い間会っていませんが、私の友人には某国立大学の近現代を専門にする教授がいて、このメインストリームの人でして私とは話は合わなかったです。私はお城関係しか歴史書籍は読まないので分りませんが、まだまだ歴史学の雰囲気はこんな感じなのかと慮ることができてしまいました。)

 Ⅱ豊臣大坂城の光芒では、文禄・慶長の役での明皇帝からの冊封文への対応や、酷評されてきた大野治長など今まで信じていた事柄の見方が変わると思います。Ⅲ秀吉の大坂城をあるくでは、豊臣大坂城の三重構造か四重構造かの混乱について、詰の丸を本丸とカウントした当時からの思い違いであると指摘されています。また、豊臣大坂城が描かれた各種屏風の解説がとても興味をそそるものとなっており、さすが学芸員の方だと思いました。全体として重々しい歴史書籍ではなく、歴史への深い考察が含まれつつ豊臣秀吉と大坂城の入門書ともなる軽い筆致で書かれたお勧めの本です。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ6)

    徳川大坂城小天守台の仕上げ作業の記事です。写真は、大大阪城小天守台への登り口雁木です。

    縦面は影でグレーに見えますが、上面はなんとも言えない色です。写真を印刷して、その上に塗料を塗って照合すればいいのですが、疲れていて手抜きをしてしまいました。タン系の薄いグレーでやや茶系も混じった色を上面にのせてみましたが、まだ足りなさそうですね。色を確定させるのは難しいのです。

 「石はグレー」とか色彩感覚の衰えた自分の先入観の色で塗装するのだけは避けたいところです。現物が存在している訳ですから、その照合を重視しています。理想は、お城プラモの拡大写真でその一部だけから石垣なら石垣と見えることだと思っています。

 大阪城の大抵の石垣は、この実物写真のように、黒カビと思いますが、大きな粒粒状で黒ずんでいます。もちろん雨が表面を流れる跡も黒ずんでいるところでして、これを遠目にみるとグレーとも見えるところです。

 私の模型の方の塗装はこんな感じです。うーん実物には見えません。私のお城プラモテクなどまだまだと思っておりまして、今回このあたりで時間をかけているのは、テクがアップするようないろいろな手法を試行している訳です。ここで一定満足できる手法を習得して、本丸部分の石垣などにも使い、模型全体をそのレベルに合わそうと思っているのです。まだまだ遠い道のりです。

 一応和製コンクリとでもいうべき「三和土」(たたき)仕様の各段の地面を作りましたが、実はまだ迷いはあります。ひとつ手前の黄金水井戸の周辺の石畳は、実物の見た目かなり古いもので、井戸とともに天守築造時からのものであろうと考えられるのです。実はこれが全体覆っていて、古写真はその上に土がたい積していただけとか、なかなか自分で納得できないのです。

 この仕様で小天守台を作るのに最後に確認のために、一度大阪城天守閣の学芸員の方を訪ねて聞いてみようかなと思っています。(石敷きであったという証拠でもあれば、今からでも変更するつもりです)今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ5)

   前回に引き続き小天守台の石垣塗装などを行っています。0.5㎜プラ板にベースの石垣色を塗り、石垣模様をケガいて塗り分けしています。 

 ここの石垣の現状は積み直しされていて、本来のパターンが不明ですが、想像で補っているところです。 はめ込んでみるとこんな感じになります。石垣のスキマというのは深く彫り込んでおけば、流し込み塗料は不要ですが、ここは浅いので必要となります。

 天守入口横にあたる石塁です、同じように塗装していますが、いまいち石垣に見えないので、いろいろと塗装に変化を加えてみました。ただし、この石垣面も大量に積みなおしされているので、想像の部分が大きいです。

 難しいものです。

 金明水井戸の南東側の桝形の石組の塗装は次の写真です。実際の写真は上記のとおりで、再現度はいまいちというところでしょうか。曇った日の撮影で、色がよくわかりません。石垣の石の色といっても、光のあたり具合で違うわけでして、理想は晴天の日の写真での色です。角の石はややオレンジかかっているように見えたので、そのように塗っております。

 今回もここまでです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ4)

    徳川大坂城小天守台の仕上げ作業の記事です。最初の写真は、実際の大阪城天守台登り口石段の踊場から東側を上からのぞきこんだものでして、石樋があり、以前「大坂諸絵図はおもしろい」の記事で紹介した、その下の地面に砂溜の矩形の石積みも残っているようです。(へんな写真ですけど、私の写真はこんなのが多いです。)樋は黒っぽくて水を流すためか御影石のようですね。 小天守台の作業のほうですが、やはり塗装を中心に行っております。 金明水の段、「四半敷」を瓦張と想定して瓦色で塗装してみたものです。(うう黒いですねえ・・・こりゃ塗り直しか)

   金明水井戸の上屋部分を外して柱の礎を塗装するためマスキングしています。筆塗りがヘタクソでして細かいところの塗り分けも、いつもこうしています。 どうも気に入らないです。井戸がやはり黒すぎますね。写真写りより、もう少し明るいグレーなのですが、溝も同じくです。そもそも写真での公開が中心なので、これじゃなあ。気に入るまで塗りなおししてしまうので、時間かかってしょうがないです。