徳川大坂城模型制作(多聞櫓の屋根瓦の納まりについて)

 徳川大坂城模型作成記事の続きです。先週は模型の土台の作り直しで記事にかかる時間がなく、1回飛ばしてしまいました。(ご容赦を)以前に紹介していた土台よりも広げることにしたのですが、次の画像は、今回の模型の一番よく使う史料の国立国会図書館蔵の「大坂御城絵図」です。オレンジ線の範囲であったものを赤線の部分に拡大し、天守の右上にある御番所、右側に連なっている長屋建物などを模型化することにしました。東側からの天守景観などもしっかり模型化したいと思ったためです。これで大坂城本丸面積全体の1/3程度を模型化することになります。(本当は、城郭模型として、本丸全体としたいところですが、私のペースでは時間がかかりすぎて、他のお城の模型にかかれなくなるでしょう。)

 ちなみに、国会図書館蔵の画像は、インターネット公開(保護期間満了)とあるものは、こういった形で公開利用ができることになっています。この画像を詳しく眺めながら模型化したら、どんな情景が見ることができるのだろうなどと考えるのが、今回の模型作成の大きなモチベーションになっています。

 この図面で建物の規模は明らかになるのですが、屋根の形状が描かれていませんので、どういった納まりなのかわからない部分も多数あります。宮内庁蔵の幕末大坂城の古写真を参考に想像で補えるところもありますが、以前も触れたように、私にとって難解で判明しないのが「御具足奉行預櫓」の南側に接続している多聞櫓の屋根の納まりです。上の図面を見ていただくと、この櫓の南面6間が接続しています。多聞櫓の中心に線が描かれていて左側が武者走り(廊下)であるようですが、この線と同じようにL字型に屋根の棟があるとすると、櫓側へ下る屋根は櫓の壁に接続してしまい、雨水の流れ先がないのです。

 9/27の記事で紹介した「47都道府県別よみがえる日本の城」の西ヶ谷恭弘先生監修の徳川大坂城鳥瞰図では、御具足奉行預櫓の一重目屋根を入母屋にして南側に延長し、この部分を覆うと解釈されています。(うーん入母屋・・・そうかも知れないけど、大坂城の他の櫓で類似事例がないようなので、私としてはチョイスしません。)今のところ解釈保留としておきます。

徳川大坂城模型制作(土台作成)

 徳川大坂城模型制作記事に戻ります。天守台については、塗装も中途までで、鉄砲狭間のついた天端石も取り付けていませんが、複雑な小天守台の各段や雁木も、早稲田大学図書館蔵史料に従い仕上げたので、このあたりで置いておき、天守台周辺にとりかかることにします。天守台の出来はいまいちですが、以下写真で紹介しておきます。

 

 なにが、いまいちかといいますと、石垣の質感を出そうとしましたが、大坂城の石垣の石の表面はもう少し平滑で模型では、デコボコが大げさになってしまっています。塗装の前には目の粗いサンドペーパーで整えようと思っています。

 

 小天守台上の石の色調は、新しく積みなおされた石は、白に近いベージュ色ですが、それ以外けっこうオレンジがかった色調をもっています。もちろん火災の影響で焼けた石も残っていますが、オリジナルはこのオレンジっぽい色であろうと思っています。

 上記写真では、雁木の色は、グレーのものも残っていますが、塗装仕上げのときには、全体を整えるつもりですので、ご容赦を・・

 

 天守台西面の写真となっています。

 天守周辺の本丸部分の作成作業に取り掛かっていきます。天守台のうち、小天守台が私にとっては複雑なものと感じていて、とても時間がかかってしまいました。ただ、この写真を見てると天守周辺もこのサイズにしたのは、北東側は北ノ手三重櫓までと決めていたからですが、なにか物足りなさを感じてもいます。もう少し拡張してもいいかも知れません。今回はここまでです。

大垣城訪問

       今回は、この週末に訪問した大垣城の記事といたします。このお城も明治維新をくぐりぬけ、昭和11年(1936年)に国宝指定を受けたものの、太平洋戦争時、昭和20年(1945年)の米軍B29の爆撃により焼失し、昭和34年(1959年)に再建されたものです。元々は三重であったものが、元和六年(1620年)に四重の天守に改築された層塔型天守でありました。

     このお城が大きく歴史に登場するのは関ケ原の戦い直前の杭瀬川の戦いでしょう。石田三成、宇喜多秀家、小西行長などが、西軍の本拠地としたこの城にこもり、中山道付近の東軍が対峙、遅れてきた徳川家康の着陣に動揺した西軍の士気を高めるため、島左近、蒲生郷舎らが出陣し西軍の勝ち戦となった戦いです。絵図で描かれている大垣城の姿は真壁造の三重天守となっています。その後、寛永十二年(1635年)に戸田氏鉄の城となり、明治まで戸田十万石の居城でありつづけました。(写真は、大垣城に展示してあるジオラマ)

     焼失せずに残っていれば、国宝でもあったので多くの人が訪れるお城であり続けたでしょうが、爆撃で石垣も焼けて、ほとんどが積みなおしされているということで、少し侘しくもあります。本丸堀も残されておらず、お城と堀を埋め立てた道を隔てて住宅地となっています。

      昭和34年に再建された天守閣は、当時のブームの作法にのっとり展望台としての機能をもたせるためか、最上階は大きなガラス窓が各面に付けられていました。私は、このガラス窓の天守閣のイメージを抱いていたのです。恥ずかしながら、平成22年に外見を旧天守に近づける改装が実施されていたのを知らず、天守内部の展示で「おお!外見をちゃんと復元したのか。素晴らしい」と感心したのでした。

     この写真は、その展示パネルでして、焼失前の国宝天守、昭和34年再建天守閣、平成22年外見復元天守の比較写真です。全面ガラス窓を取り外してくれて、ほんとよかったです。さらに、鯱や懸魚、鬼瓦、邪気瓦も旧天守にあったものを復元したとありました。(お城ファンとしては天守を眺めて「ほんとはこんなんじゃないんだ」などとツッコミを抱かずに済む訳です)

     私の関心事は、瓦でして、なんと葺き直した軒丸瓦についても展示説明がありました。昭和34年の再建天守閣の丸瓦は直径が5寸、旧天守のものは6寸であったので6寸に改めて葺いたと。

     またまた、意地悪い私のクセが出てしまいまして、せっかくだから、最上部の入母屋平側の軒丸瓦を数えてみようと思ってしまったのでした。(病膏肓に入るとはこのことです。)写真から旧国宝天守は26個であるようです。5寸丸瓦の昭和34年天守閣には30個あるようです。(まあ、オリジナルより小さい丸瓦だからなあ)さて、平成22年外見復元天守は・・・ううっ(興味のある方、自ら数えてみてくださいませ。私はツッコまないことにします。葺き幅が違うのでしょう。)

 

    6寸径の丸瓦が、大垣城で使用されていたのであれば、作ろうとしている徳川大坂城天守ぐらいになれば、それ以上のものとなるでしょうねえ、6寸は、1/350で約0.52㎜ですから最低0.5㎜プラ棒が使える訳で、お城プラモ的には成果ありの訪問でした。

     せっかく、外見復元が果たされた大垣城天守なのにもっと映像などで取り上げられてもよさそうですが、撮影ポイントがあまりに少ないことが要因であると感じました。樹木が天守周辺に茂りすぎていて、この天守全体を撮影できないのです。そのため、多くの写真はなんとか木々の枝がじゃましない南東からのものとなっています。 日本のお城の多くの敷地は市町村の公園課が管理していて、緑地公園扱いでお城の景観などは、それほど注意を払っていないとしか思えないのです。それも毎年の予算で緑化推進ということで、どんどん植樹することが仕事ですから、大阪城など天守石垣周りに松の木を植えたりしています。お城ファンとしては心配でして、やがてあの立派な天守石垣が木々に隠れてしまうのではないかと思っています。

    大垣城についても周囲の枝を払って、もう少しスッキリさせ、いろいろな方向から撮影し、その魅力を発信してほしいところです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上7)

 徳川大坂城模型制作記事に戻ります。前々回大阪城天守閣主任学芸員の跡部先生にお尋ねした小天守台西側通路ですが、先生に否定されたにもかかわらず、結局石垣をカットして雁木を作ってしまいました。(答えがどっちであれ作るつもりだったんだろうと言われそうですが、そのとおりです。)まあ、その写真は後半にとっておくとして、まずは大阪城屋外にパネル展示されていた浪華城全図(個人蔵)の抜粋の写真をご覧ください。二の丸七番櫓が右下にあって、西番頭と書かれています。下見板張りの建物などが並んでいて、その仕様がよくわかる絵図となっています。

 七番櫓の左上から延びる長屋には、板塀をかけた庭があったことが確認できます。駐在していたさむらい達が楽しみのために植木でもしていたのでしょう。この敷地の中央あたりに小さな小屋がありますが、国会図書館の大坂御城図と比べてみると井戸であるようです。よくわからないのは、画面右の石垣の上には土塀が並んでいるのですが、内側にも並行して土塀がかけてあるようです。控柱があるので、石塁の両側に土塀があるように見えます。なんででしょうねえ・・・国会図書館の大坂御城図にはこの南側の石塁には大砲が並べてあります。それと関係があるのかも知れません。それよりもっと分らんのは、敷地の左下側にある白い小さな小屋形で、まさか犬小屋でしょうか?そんなもの絵図に描くかなあ・・・とにかくこの絵図は、いろいろ発見があって面白いものです。

 さて、小天守台西側の通路です。前々回にも載せた写真ですが、矢印の石垣部分が上部出入口と同じ幅で積まれており、これらの石積みは、ここに繋がっていた二重櫓がなんらかの理由で解体された後に通路を塞ぐ目的で積まれたと私は考えています。


「通路として使用しないのなら、上部まで完全に埋めてしまうだろう」というツッコミはとりあえずある訳ですが・・・    名古屋城天守台の埋め込まれた通路跡は計画された西側小天守台への通路ですが、大坂城の場合、古図面に多聞櫓らしきものが現実に存在したことは確認ができます。

 ただし、国会図書館の大坂御城図には、この櫓は描かれておらず、どういう構造の通路であるのかは史料もなく分かりません。大阪城天守閣にあるさんけいさんの徳川大坂城天守模型には二重多聞櫓が接続していたと解釈されています。(私が、これをどういった形状にするのかは「お楽しみ」です。)

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ6)

    徳川大坂城小天守台の仕上げ作業の記事です。写真は、大大阪城小天守台への登り口雁木です。

    縦面は影でグレーに見えますが、上面はなんとも言えない色です。写真を印刷して、その上に塗料を塗って照合すればいいのですが、疲れていて手抜きをしてしまいました。タン系の薄いグレーでやや茶系も混じった色を上面にのせてみましたが、まだ足りなさそうですね。色を確定させるのは難しいのです。

 「石はグレー」とか色彩感覚の衰えた自分の先入観の色で塗装するのだけは避けたいところです。現物が存在している訳ですから、その照合を重視しています。理想は、お城プラモの拡大写真でその一部だけから石垣なら石垣と見えることだと思っています。

 大阪城の大抵の石垣は、この実物写真のように、黒カビと思いますが、大きな粒粒状で黒ずんでいます。もちろん雨が表面を流れる跡も黒ずんでいるところでして、これを遠目にみるとグレーとも見えるところです。

 私の模型の方の塗装はこんな感じです。うーん実物には見えません。私のお城プラモテクなどまだまだと思っておりまして、今回このあたりで時間をかけているのは、テクがアップするようないろいろな手法を試行している訳です。ここで一定満足できる手法を習得して、本丸部分の石垣などにも使い、模型全体をそのレベルに合わそうと思っているのです。まだまだ遠い道のりです。

 一応和製コンクリとでもいうべき「三和土」(たたき)仕様の各段の地面を作りましたが、実はまだ迷いはあります。ひとつ手前の黄金水井戸の周辺の石畳は、実物の見た目かなり古いもので、井戸とともに天守築造時からのものであろうと考えられるのです。実はこれが全体覆っていて、古写真はその上に土がたい積していただけとか、なかなか自分で納得できないのです。

 この仕様で小天守台を作るのに最後に確認のために、一度大阪城天守閣の学芸員の方を訪ねて聞いてみようかなと思っています。(石敷きであったという証拠でもあれば、今からでも変更するつもりです)今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ5)

   前回に引き続き小天守台の石垣塗装などを行っています。0.5㎜プラ板にベースの石垣色を塗り、石垣模様をケガいて塗り分けしています。 

 ここの石垣の現状は積み直しされていて、本来のパターンが不明ですが、想像で補っているところです。 はめ込んでみるとこんな感じになります。石垣のスキマというのは深く彫り込んでおけば、流し込み塗料は不要ですが、ここは浅いので必要となります。

 天守入口横にあたる石塁です、同じように塗装していますが、いまいち石垣に見えないので、いろいろと塗装に変化を加えてみました。ただし、この石垣面も大量に積みなおしされているので、想像の部分が大きいです。

 難しいものです。

 金明水井戸の南東側の桝形の石組の塗装は次の写真です。実際の写真は上記のとおりで、再現度はいまいちというところでしょうか。曇った日の撮影で、色がよくわかりません。石垣の石の色といっても、光のあたり具合で違うわけでして、理想は晴天の日の写真での色です。角の石はややオレンジかかっているように見えたので、そのように塗っております。

 今回もここまでです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ4)

    徳川大坂城小天守台の仕上げ作業の記事です。最初の写真は、実際の大阪城天守台登り口石段の踊場から東側を上からのぞきこんだものでして、石樋があり、以前「大坂諸絵図はおもしろい」の記事で紹介した、その下の地面に砂溜の矩形の石積みも残っているようです。(へんな写真ですけど、私の写真はこんなのが多いです。)樋は黒っぽくて水を流すためか御影石のようですね。 小天守台の作業のほうですが、やはり塗装を中心に行っております。 金明水の段、「四半敷」を瓦張と想定して瓦色で塗装してみたものです。(うう黒いですねえ・・・こりゃ塗り直しか)

   金明水井戸の上屋部分を外して柱の礎を塗装するためマスキングしています。筆塗りがヘタクソでして細かいところの塗り分けも、いつもこうしています。 どうも気に入らないです。井戸がやはり黒すぎますね。写真写りより、もう少し明るいグレーなのですが、溝も同じくです。そもそも写真での公開が中心なので、これじゃなあ。気に入るまで塗りなおししてしまうので、時間かかってしょうがないです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ3)

  前回に引き続き、徳川大坂城小天守台の仕上げにかかっています。その前に、直近の大阪城訪問の際、屋外にパネル展示されていた浪華城全図(個人蔵)の抜粋の写真をのせておきます。1783年(天明3年)に落雷で大手門などを失い、1845年(弘化2年)に修復されるまでの姿とのことです。金蔵を囲む板塀の仕様などがわかって興味深いところです。 今も残る金蔵は、本丸内にあった「長屋建物」の一部を改造したものと言われており、私の徳川大坂城模型でもこの「長屋建物」は一部再現するので、その壁面とかの仕様をはっきりさせる必要があります。まあ、まだまだ先ではありますが、天守台を完成させれば本丸部分の作成にかかるのでその時に考えます。

 小天守台は登り口から順に仕上げていっております。塗装もしていますが、小天守台の中の石垣壁面とか先にプラ板で完成させてしまうと塗装に苦労するので、パーツの合いを調整したらある程度の塗装をしてから組み上げるようにしています。 この写真は、登り口雁木を登って左に曲がったところの雁木と溝部分の写真です。ここの雁木は1段が並行2枚の積み方となっていますが、私は1枚の雁木石での積み方と解釈しております。そしてこの写真上部の石垣壁面は、新しい石で積みなおしされております。ここの古写真は見当たらなかったので、現状に似せて石垣パターンを作っています。 ちなみに、各雁木はグレー系の石垣色を塗っていますが、実物写真を見てもわかるよう、こんな色ではありません、あくまでこれも下塗りですので、あしからず。まだまだ、先は長いところです。今回もおつきあいありがとうございました。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ2)

  徳川大坂城模型の制作記事のつづきです。前回に引き続き小天守台の仕上げ作業にかかっています。

 登り口雁木横の石垣パターンの彫り込みがまだだったので、入れてみました。参考にしている古写真は天端石を入れて布積みの5段ですが、埋もれている一番下の1段を想像で追加しています。(想像でもこれは、仕方ありません。) 登り口の雁木と踊り場の雁木との高さが、そろわないなので調整する必要があります。その次の踊り場とも合わなくなっています。つまり踊り場を0.1から0.2㎜低くしなければならないところです。ピタリと調整するのに時間がかかってしまっています。大天守台の石垣もモコモコしていますが、古写真との照合で石垣彫り込みを変更しているためであります。このあたりの微調整をおざなりにしてはならないと思っています。 だけれども、限界もある訳でして、だいたいの石垣をいれたけどもなんか形が違うなあというところもあります。上下写真を比較いただくと、私の限界もばれてしまっています。(絵のスケッチ作業みたいなもので、スケッチが下手くそであるということです。orz)

 まあ、自分をなぐさめるとすれば、おそらく誰もやっていないだろう大坂城天守台東面石垣パターンを再現しようとしているのがわかればいいかといった感じです。作業にかかりたいので、今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ1)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。やっと小天守台の仕上げにかかろうとしています。あんけんさんがコメントでご指摘されていたように徳川大坂城の天守台をできる限り正確に作ることに没頭しすぎて「模型」の完成という目標を忘れかけていたようです。どんどんパーツを作って完成をめざさねばなりません。

 いささか大言壮語的ですが、私がいつもライバル視している模型は、お城などに展示してある「城郭模型」でして、この徳川大坂城模型は、大阪城天守閣に展示してあるさんけいさん制作の徳川大坂城天守模型がライバルなのです。なので、どこまで精密に仕上げるかにはこだわりますし、あちらが省略若しくは独自解釈があれば、根拠をあげてそれ以上の物にしたいと思っているのです。(まあ、当方のテクではかなわないところもあるところですが)

 例えば、さんけいさんの大坂城天守台の石段は、34段ある訳ですが、早稲田大学所蔵の天守台図面には29段と文字で記載されております。天守台がまっ平な平面上にあるのであれば、34段ぐらいになるところです。私は天守台下の地面の高さが異なると解釈し、29段にしているところです。(写真の赤線は現状の地面高となります。)

 ようやく、考証などを済ませて、小天守台仕上げにかかり出したところで、この石段で苦労したところは、石垣表面と各石段をがピタリとあわせるところでして、何度も微調整してこんな感じです。

 小天守台内の石塁の側面石垣部分をプラ板で作っていきます。仮に接着して調整していきます。石垣のケガキがありますし、その塗装もあるので、あくまで仮に作っていきます。 大天守台の石垣の修正箇所に鉛筆で書き込んでいますが、石段横の石垣のパターンとの照合で間違いが判明したためです。 とっとと、小天守台を完成させて、本丸部分の制作に移りたいものです。