徳川大坂城模型制作(土台作成2)

 徳川大坂城模型作成記事の続きです。土台について前回申し上げたように作り直しをしています。(これも天守台と同じ3代目になります。とほほ・・・)城郭模型を正確な縮尺で作る際の大きなポイントは、地面高であることを痛感しています。今回WEB版国土地理院地図の標高を参考にしていて、山とか丘陵などの形状を知るにはいいのですが、標高差を平均の曲面にしてしまうようで、城郭の縄張りを表現する精度は持っていません。(なので、複数のポイントの標高値を平均して、その段の標高にしています。)

 一応の標高を決めて、タミヤのスチレンボードの1㎜厚から10㎜厚までのものを組み合わせて、1/350の高さを再現していく訳です。(ちなみに、写真のベージュ色の部分はホームセンターで買った建材用の15㎜厚ポリスチレンフォームで、でかくて安いです。)細かい段の標高は国土地理院地図では出てこないため、結局、現地の雁木石の高さを調べてみないと分からないのです。

 そんなわけで、以前の調査ではざっくりとしか調べてなかった、姫門をはさんで、山里曲輪から本丸までの各段の高さを調べに大阪城に行ってきました。今回は、正確さを期すため、山里曲輪から山里出桝形に登るピラミッド状の雁木22段の1段1段の高さ、奥行をすべて測りました。(最近は多くの来訪者の目も気にならなくなりましたねえ)高さは12㎝から24㎝、奥行も45㎝から70㎝とけっこうバラバラな数値でして、合計の高さは373㎝となりました。

 次の写真は、その雁木頂上から今ある通路までの高さなどを計測した結果を示したもので、通路まで163㎝、山里出桝形の門から山里出桝形の下段までの高さ差を測り51㎝となりました。これで山里出桝形の下段の標高が24.97mとなります。上段は26.37mでこれで確定です。ちなみに国土地理院地図の平均は26.4mで正確でしたねえ。

 計測が終わった後は、本丸に新しく整備されたレストランなどの入ったMiraiza(旧第四師団司令部庁舎)を眺めて帰路につきました。ふと桜門横の銀明水の井筒(「銀明水井戸跡」ではない)の展示場所は、国会図書館蔵大坂御城図で番所があったところだと思いだしました。・・・井戸跡と勘違いするよなあ・・・ちょうど、番所の「便所」の位置ぐらいになるんじゃないかなと思いながら。ともかく、いろいろ整備されて旧状がわからなくなる一方です。

徳川大坂城模型制作(多聞櫓の屋根瓦の納まりについて)

 徳川大坂城模型作成記事の続きです。先週は模型の土台の作り直しで記事にかかる時間がなく、1回飛ばしてしまいました。(ご容赦を)以前に紹介していた土台よりも広げることにしたのですが、次の画像は、今回の模型の一番よく使う史料の国立国会図書館蔵の「大坂御城絵図」です。オレンジ線の範囲であったものを赤線の部分に拡大し、天守の右上にある御番所、右側に連なっている長屋建物などを模型化することにしました。東側からの天守景観などもしっかり模型化したいと思ったためです。これで大坂城本丸面積全体の1/3程度を模型化することになります。(本当は、城郭模型として、本丸全体としたいところですが、私のペースでは時間がかかりすぎて、他のお城の模型にかかれなくなるでしょう。)

 ちなみに、国会図書館蔵の画像は、インターネット公開(保護期間満了)とあるものは、こういった形で公開利用ができることになっています。この画像を詳しく眺めながら模型化したら、どんな情景が見ることができるのだろうなどと考えるのが、今回の模型作成の大きなモチベーションになっています。

 この図面で建物の規模は明らかになるのですが、屋根の形状が描かれていませんので、どういった納まりなのかわからない部分も多数あります。宮内庁蔵の幕末大坂城の古写真を参考に想像で補えるところもありますが、以前も触れたように、私にとって難解で判明しないのが「御具足奉行預櫓」の南側に接続している多聞櫓の屋根の納まりです。上の図面を見ていただくと、この櫓の南面6間が接続しています。多聞櫓の中心に線が描かれていて左側が武者走り(廊下)であるようですが、この線と同じようにL字型に屋根の棟があるとすると、櫓側へ下る屋根は櫓の壁に接続してしまい、雨水の流れ先がないのです。

 9/27の記事で紹介した「47都道府県別よみがえる日本の城」の西ヶ谷恭弘先生監修の徳川大坂城鳥瞰図では、御具足奉行預櫓の一重目屋根を入母屋にして南側に延長し、この部分を覆うと解釈されています。(うーん入母屋・・・そうかも知れないけど、大坂城の他の櫓で類似事例がないようなので、私としてはチョイスしません。)今のところ解釈保留としておきます。

徳川大坂城模型制作(土台作成)

 徳川大坂城模型制作記事に戻ります。天守台については、塗装も中途までで、鉄砲狭間のついた天端石も取り付けていませんが、複雑な小天守台の各段や雁木も、早稲田大学図書館蔵史料に従い仕上げたので、このあたりで置いておき、天守台周辺にとりかかることにします。天守台の出来はいまいちですが、以下写真で紹介しておきます。

 

 なにが、いまいちかといいますと、石垣の質感を出そうとしましたが、大坂城の石垣の石の表面はもう少し平滑で模型では、デコボコが大げさになってしまっています。塗装の前には目の粗いサンドペーパーで整えようと思っています。

 

 小天守台上の石の色調は、新しく積みなおされた石は、白に近いベージュ色ですが、それ以外けっこうオレンジがかった色調をもっています。もちろん火災の影響で焼けた石も残っていますが、オリジナルはこのオレンジっぽい色であろうと思っています。

 上記写真では、雁木の色は、グレーのものも残っていますが、塗装仕上げのときには、全体を整えるつもりですので、ご容赦を・・

 

 天守台西面の写真となっています。

 天守周辺の本丸部分の作成作業に取り掛かっていきます。天守台のうち、小天守台が私にとっては複雑なものと感じていて、とても時間がかかってしまいました。ただ、この写真を見てると天守周辺もこのサイズにしたのは、北東側は北ノ手三重櫓までと決めていたからですが、なにか物足りなさを感じてもいます。もう少し拡張してもいいかも知れません。今回はここまでです。

大垣城訪問

       今回は、この週末に訪問した大垣城の記事といたします。このお城も明治維新をくぐりぬけ、昭和11年(1936年)に国宝指定を受けたものの、太平洋戦争時、昭和20年(1945年)の米軍B29の爆撃により焼失し、昭和34年(1959年)に再建されたものです。元々は三重であったものが、元和六年(1620年)に四重の天守に改築された層塔型天守でありました。

     このお城が大きく歴史に登場するのは関ケ原の戦い直前の杭瀬川の戦いでしょう。石田三成、宇喜多秀家、小西行長などが、西軍の本拠地としたこの城にこもり、中山道付近の東軍が対峙、遅れてきた徳川家康の着陣に動揺した西軍の士気を高めるため、島左近、蒲生郷舎らが出陣し西軍の勝ち戦となった戦いです。絵図で描かれている大垣城の姿は真壁造の三重天守となっています。その後、寛永十二年(1635年)に戸田氏鉄の城となり、明治まで戸田十万石の居城でありつづけました。(写真は、大垣城に展示してあるジオラマ)

     焼失せずに残っていれば、国宝でもあったので多くの人が訪れるお城であり続けたでしょうが、爆撃で石垣も焼けて、ほとんどが積みなおしされているということで、少し侘しくもあります。本丸堀も残されておらず、お城と堀を埋め立てた道を隔てて住宅地となっています。

      昭和34年に再建された天守閣は、当時のブームの作法にのっとり展望台としての機能をもたせるためか、最上階は大きなガラス窓が各面に付けられていました。私は、このガラス窓の天守閣のイメージを抱いていたのです。恥ずかしながら、平成22年に外見を旧天守に近づける改装が実施されていたのを知らず、天守内部の展示で「おお!外見をちゃんと復元したのか。素晴らしい」と感心したのでした。

     この写真は、その展示パネルでして、焼失前の国宝天守、昭和34年再建天守閣、平成22年外見復元天守の比較写真です。全面ガラス窓を取り外してくれて、ほんとよかったです。さらに、鯱や懸魚、鬼瓦、邪気瓦も旧天守にあったものを復元したとありました。(お城ファンとしては天守を眺めて「ほんとはこんなんじゃないんだ」などとツッコミを抱かずに済む訳です)

     私の関心事は、瓦でして、なんと葺き直した軒丸瓦についても展示説明がありました。昭和34年の再建天守閣の丸瓦は直径が5寸、旧天守のものは6寸であったので6寸に改めて葺いたと。

     またまた、意地悪い私のクセが出てしまいまして、せっかくだから、最上部の入母屋平側の軒丸瓦を数えてみようと思ってしまったのでした。(病膏肓に入るとはこのことです。)写真から旧国宝天守は26個であるようです。5寸丸瓦の昭和34年天守閣には30個あるようです。(まあ、オリジナルより小さい丸瓦だからなあ)さて、平成22年外見復元天守は・・・ううっ(興味のある方、自ら数えてみてくださいませ。私はツッコまないことにします。葺き幅が違うのでしょう。)

 

    6寸径の丸瓦が、大垣城で使用されていたのであれば、作ろうとしている徳川大坂城天守ぐらいになれば、それ以上のものとなるでしょうねえ、6寸は、1/350で約0.52㎜ですから最低0.5㎜プラ棒が使える訳で、お城プラモ的には成果ありの訪問でした。

     せっかく、外見復元が果たされた大垣城天守なのにもっと映像などで取り上げられてもよさそうですが、撮影ポイントがあまりに少ないことが要因であると感じました。樹木が天守周辺に茂りすぎていて、この天守全体を撮影できないのです。そのため、多くの写真はなんとか木々の枝がじゃましない南東からのものとなっています。 日本のお城の多くの敷地は市町村の公園課が管理していて、緑地公園扱いでお城の景観などは、それほど注意を払っていないとしか思えないのです。それも毎年の予算で緑化推進ということで、どんどん植樹することが仕事ですから、大阪城など天守石垣周りに松の木を植えたりしています。お城ファンとしては心配でして、やがてあの立派な天守石垣が木々に隠れてしまうのではないかと思っています。

    大垣城についても周囲の枝を払って、もう少しスッキリさせ、いろいろな方向から撮影し、その魅力を発信してほしいところです。

お城のイラストを見るのは楽しいです

    大坂城天守台の作業のほうは、ぼちぼち進めていますが、地味な写真ばかりとなるので、ますは前回に引く続き浪華城全図(個人蔵)をごらんください。

    大坂城桜門周辺が描かれており、蛸石もありますね、本丸御殿の入口もあり、石畳が描かれています。手前左下に西の一番櫓があります。現在の大阪城では、この櫓跡と桜門桝形との間は、土盛りされていて、広場のようになっています。どの時点で土盛りされたのでしょうか、戦後すぐの写真などを確認するとこの部分全体を占める建物がありますから、それが解体後で、けっこう最近なのかも知れません。また、前回「犬小屋」などと言っていた小屋型が御殿入口横にもありますが、たぶん防火用の水箱だと思います。この絵図は、まさにお城鳥瞰イラストですが、最近、お城のイラストで有名な香川元太郎先生の新しい本が出版されましたので、紹介しておきましょう。

    PHP研究所出版「47都道府県別よみがえる日本の城」税別880円です。もちろん、本を開いて真っ先に私が虫眼鏡で確認したのは西ヶ谷恭弘先生監修の徳川大坂城鳥瞰図の天守周辺でして、例の小天守台西側の通路は、掛け造りの斜め廊下橋と解釈されているようです。他のお城も飽かず眺めることができて、イラストとしての安定感・安心感が絶大です。

   「あとがきに代えて」で昨今のCGについても触れられており、建物は上手いものはあるが、山城については難しいだろうと述べておられます。(そういえばCGで描かれた山城で、山に見えるものはないです。)

     わたし的には、うーん、最近のムック本などで使われている天守CGで酷いものも、まだまだ多いと思いますけどねえ。なにがダメかというと、まずは、屋根や建物高のバランスですね、結局CGといっても建築3Ⅾソフトで図面から起こして、レンダリングしているのではなく、お絵描きソフトで屋根瓦などのパーツをコピペして並べて平面に絵を描いてるだけですからね。その多くが見ても疲れるというか、やれやれって感じです。いいかげんCGをありがたがる風潮が改まってほしいなと思います。

     香川先生には、今後も素晴らしいイラストでお城ファンを楽しませていただけたらなあと思います。石川県のページの前田利家時代の五重天守のある金沢城イラストもいいですなあ。この本、お城ファンの方なら買って損はないです。
〇香川元太郎先生のHP

     徳川大坂城模型の写真も、現状ということでのせておきます。塗装がそろってなくて、きたない写真で申し訳ないです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上7)

 徳川大坂城模型制作記事に戻ります。前々回大阪城天守閣主任学芸員の跡部先生にお尋ねした小天守台西側通路ですが、先生に否定されたにもかかわらず、結局石垣をカットして雁木を作ってしまいました。(答えがどっちであれ作るつもりだったんだろうと言われそうですが、そのとおりです。)まあ、その写真は後半にとっておくとして、まずは大阪城屋外にパネル展示されていた浪華城全図(個人蔵)の抜粋の写真をご覧ください。二の丸七番櫓が右下にあって、西番頭と書かれています。下見板張りの建物などが並んでいて、その仕様がよくわかる絵図となっています。

 七番櫓の左上から延びる長屋には、板塀をかけた庭があったことが確認できます。駐在していたさむらい達が楽しみのために植木でもしていたのでしょう。この敷地の中央あたりに小さな小屋がありますが、国会図書館の大坂御城図と比べてみると井戸であるようです。よくわからないのは、画面右の石垣の上には土塀が並んでいるのですが、内側にも並行して土塀がかけてあるようです。控柱があるので、石塁の両側に土塀があるように見えます。なんででしょうねえ・・・国会図書館の大坂御城図にはこの南側の石塁には大砲が並べてあります。それと関係があるのかも知れません。それよりもっと分らんのは、敷地の左下側にある白い小さな小屋形で、まさか犬小屋でしょうか?そんなもの絵図に描くかなあ・・・とにかくこの絵図は、いろいろ発見があって面白いものです。

 さて、小天守台西側の通路です。前々回にも載せた写真ですが、矢印の石垣部分が上部出入口と同じ幅で積まれており、これらの石積みは、ここに繋がっていた二重櫓がなんらかの理由で解体された後に通路を塞ぐ目的で積まれたと私は考えています。


「通路として使用しないのなら、上部まで完全に埋めてしまうだろう」というツッコミはとりあえずある訳ですが・・・    名古屋城天守台の埋め込まれた通路跡は計画された西側小天守台への通路ですが、大坂城の場合、古図面に多聞櫓らしきものが現実に存在したことは確認ができます。

 ただし、国会図書館の大坂御城図には、この櫓は描かれておらず、どういう構造の通路であるのかは史料もなく分かりません。大阪城天守閣にあるさんけいさんの徳川大坂城天守模型には二重多聞櫓が接続していたと解釈されています。(私が、これをどういった形状にするのかは「お楽しみ」です。)

城郭模型姫路城訪問

  今回は、少し制作中の徳川大坂城から離れて、城郭模型見学の記事です。日差しの強烈な8月27日暑い日でしたが、早朝からバイクで名阪国道を東へ、三重県に入って南へ伊勢まで走りました。目的は、前から見てみたかった、おそらく日本で最も有名な城郭模型で、ひめじ観光大使井村裕保氏が制作された1/23姫路城模型(「伊勢の姫路城」とも呼ばれていますね)です。

  個人のお宅の庭にある模型を拝見させていただくのですから、まずは名刺(お城プラモ写真と実名が入ってます。)でご挨拶させていただきました。井村さんからいただいた名刺には、ひめじ観光大使とあり、姫路市に任命されていらっしゃることがわかりました。

  この姫路城模型は、備前丸(本丸)、二の丸、乾曲輪、西の丸、井戸曲輪、上山里曲輪、下山里曲輪、内曲輪の一部を含めた広大な範囲を模型化されています。また、この城郭模型の最大の価値と魅力は、今は見ることができない失われた櫓、御殿など綿密に調査もされ復元し、学術的な価値も高く、盛時の姫路城の姿を現出させているところにあります。

  二人模型の前に立って、城郭模型の大先達にいろいろお話を伺いました。壁や屋根はFRPで作っているとのことで、興味がある屋根瓦について伺ってみると、丸瓦の幅は、1尺程度で「型」をつくって流し込みで作成されているらしいです。(「1/350とか小さいのは大変やろ」と同情していただきました。まったくそのとおりではあります。)

  備前丸の高さとかどのように調べられましたと伺うと、現地に行って全部自分で調べたとのこと、石段の段数から再現し、「やるからには徹底的にやらにゃ」とおっしゃっていました。(この城郭模型を完成させるには、それは堅い意思が必要でしょうから、井村さんの姫路城に対する思いの強さを知るとともに、私としては我が意を得たりという感じでしょうか。)

  大天守に話を移して、大入母屋屋根の妻面は傾斜していますよねと話しをすると、「プラモデルなんかでは、再現されてるのがない。あれがこの城のいいところ」と断言されていました。(おそらく、この姫路城模型を作成するのに、参考になるものは、なんでも確認されていて、妻面のオーバーハングなどよく分っておられるようです。)

 かって備前丸に存在した、多聞櫓、櫓、備前丸内の御台所、上御台所も再現されているので、その図面について伺ってみると、図面はあって姫路城から提供を受けたとのことで、「推定で作っているところもある」とのお返事でした。また、諸図面については「当時の大工の考え方で、6尺間(江戸間)と6.5尺間(京間)のどちらかになっていて、よくよく調べないとわからない」と言っておられました。(図面には江戸間で書いたとか注釈などないですからね)

    訪問した時点では、天守、小天守の修繕中(今回掲載の写真の反対側)でしたが、西の丸の千姫御殿についても「完成時は、瓦葺きだったけど、あとで史料がみつかって、檜皮葺きに変更した」とのことで、史料が見つかればそれに合わせるという正確さへの徹底ぶりで、名庭園のごとく常に手を入れられているというのも素晴らしいと感じ入ったところです。
(私のお城プラモ作りも後で史料がでれば改変するスタンスに立てば、も少し早く作れるかも知れません)

   最後に、お話が伺えてとお礼を申しあげると「あんたもこれ(名刺に刷った広島城プラモの写真)はなかなかいいので、がんばって」と言われました。(こんな方に、ほめられるとほんと嬉しいですねえ)

(注:上記写真は、実物のようにみせるため、背景に映り込んだ木々を写真上カット加工しているものがあります。)

大阪城学芸員の方を訪ねる

 前回書いたように、大阪城の学芸員の方にお伺いしようということで、先日行ってきました。もちろん電話でお願いしてアポイントメントをとって行ったのです。(6/25の記事で紹介した大坂城址写真帖の金明水井戸のはがき1枚を寄贈する要件もあったので、すんなり会っていただけたのかも知れません。)

 大阪城は快晴の午後です。入館証をいただいて、天守隠し部屋みたいな学芸員室でどこなのか迷いましたね。部屋に入れていただくと、応対用の机とその背後には、向かい合わせの学芸員だけの席、各机の上には書類が積み重なっており、入って右側には書庫、とにかく史料やらでいっぱいのようでした。城郭模型を作ってる旨の自己紹介して席について要件に入りました。

 最も聞きたかった、小天守台の地面については、「あれは、市電の敷石を敷き詰めたものだと伝え聞いています。地面は土で正しいでしょう」(市電とは、いまはなき大阪市営のチンチン電車)とのことでした。本当は、金明水井戸周りにある古い石畳も引き合いに出した上で聞けばよかったのですが、なにせ、主任学芸員の跡部信先生にご対応いただいたので、私は見た目と違って小心者でして、しつこく聞くことができませんでした。(著名な専門家の方に嫌われたくないじゃないですか)

 次に伺ったのは、旧ブログで紹介した小天守台西面の多聞櫓への接続口でして、ここの石垣は縦の入口状のところを後に下半分程度を石垣を積んで埋めてあるのではないのか、小天守台の段に上るための雁木があったんではないでしょうかと聞くと「うーん、それは違うと思います」とのお答えでした。名古屋城天守台の埋められた入口、早稲田大学図書館蔵の大坂城天守台図面を引き合いにして、ここは食い下がってしまいましたねえ・・・大人げない話ではあります・・・学芸員の方々も、たまにこういった「大阪城を研究しているとか言ううるさいおっさん」を相手にされているのかも知れないなあと思い至って、すぐに気が萎えてしまいました。

 お城のドンと呼ばれる大砲は、現在の車いす用エレベータが設置されているこの小天守台西出入口に置かれていたので、そのころの写真を見せていただきましたが、地面の石の置き方は確認できるものではありませんでした。(おそらく史料はないでしょう、なにせここに多聞が接続しているだろうと確認できるのは、古い本丸図面が数点あるだけで、明瞭なものでもないですから)まあ、ひとり色々調べていると、誰かに聞いて欲しくなるという欲求が私の中に起っただけのことです。

 ただし、こんな機会はめったにないので、もうひとつ聞いておこうと山里丸から山里出桝形へ上がる雁木について伺いました。例のピラミッドみたいになっている珍しい形状の石段で、写真にあるように、整形された雁木で積んだ段とたぶん栗石と同じ小石を並べて三和土仕上げで積んだ段が交互に積み重なっているのです。他のお城で見かけない仕様で、駆け上がりにくくする意図なのか、それとも当初は整形された雁木のみで1段が高い石段だったのを、例えば陸軍がいた昭和の時代なりに、のぼり易くするために追加したのか知りたかったのです。(もちろん徳川天守存在時の模型でここを再現するのに必要な情報ですから)これも不明とのことでした。今後なにか史料でもあれば、メールでご連絡いただきたいとお願いして帰りました。

 先生は、豊臣大坂城の御専門の方ではあるので、徳川大坂城の細かい仕様など私のようなトリビア的な質問は失礼にあたったのかも知れません。ともかく、徳川大坂城模型の小天守台地面の仕様を確定させるのに貴重なお時間をいただけたということで、跡部先生にはご迷惑をおかけしたところです。もしこのブログをみていただいているのであれば、ご容赦くださるようお願いします。

 せっかくなので、跡部先生の本を紹介させていただきます。吉川弘文館「豊臣秀吉と大坂城」(ISBN978-4-642-06784-3)です。1秀吉の履歴書では秀吉の神仏観などにも触れら、近年見直しがされつつある豊臣秀吉の個性が浮かび上がってくるように描かれています。前段で触れられていますが、戦後歴史学の主流だった観点については、その正論がまちがいないのと同程度に「いつでも個人が歴史に作用する窓が開かれているという命題は真実」と述べられており、こういった歴史へのアプローチは、私は大賛成してしまいます。

 (ちなみにもう長い間会っていませんが、私の友人には某国立大学の近現代を専門にする教授がいて、このメインストリームの人でして私とは話は合わなかったです。私はお城関係しか歴史書籍は読まないので分りませんが、まだまだ歴史学の雰囲気はこんな感じなのかと慮ることができてしまいました。)

 Ⅱ豊臣大坂城の光芒では、文禄・慶長の役での明皇帝からの冊封文への対応や、酷評されてきた大野治長など今まで信じていた事柄の見方が変わると思います。Ⅲ秀吉の大坂城をあるくでは、豊臣大坂城の三重構造か四重構造かの混乱について、詰の丸を本丸とカウントした当時からの思い違いであると指摘されています。また、豊臣大坂城が描かれた各種屏風の解説がとても興味をそそるものとなっており、さすが学芸員の方だと思いました。全体として重々しい歴史書籍ではなく、歴史への深い考察が含まれつつ豊臣秀吉と大坂城の入門書ともなる軽い筆致で書かれたお勧めの本です。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ6)

    徳川大坂城小天守台の仕上げ作業の記事です。写真は、大大阪城小天守台への登り口雁木です。

    縦面は影でグレーに見えますが、上面はなんとも言えない色です。写真を印刷して、その上に塗料を塗って照合すればいいのですが、疲れていて手抜きをしてしまいました。タン系の薄いグレーでやや茶系も混じった色を上面にのせてみましたが、まだ足りなさそうですね。色を確定させるのは難しいのです。

 「石はグレー」とか色彩感覚の衰えた自分の先入観の色で塗装するのだけは避けたいところです。現物が存在している訳ですから、その照合を重視しています。理想は、お城プラモの拡大写真でその一部だけから石垣なら石垣と見えることだと思っています。

 大阪城の大抵の石垣は、この実物写真のように、黒カビと思いますが、大きな粒粒状で黒ずんでいます。もちろん雨が表面を流れる跡も黒ずんでいるところでして、これを遠目にみるとグレーとも見えるところです。

 私の模型の方の塗装はこんな感じです。うーん実物には見えません。私のお城プラモテクなどまだまだと思っておりまして、今回このあたりで時間をかけているのは、テクがアップするようないろいろな手法を試行している訳です。ここで一定満足できる手法を習得して、本丸部分の石垣などにも使い、模型全体をそのレベルに合わそうと思っているのです。まだまだ遠い道のりです。

 一応和製コンクリとでもいうべき「三和土」(たたき)仕様の各段の地面を作りましたが、実はまだ迷いはあります。ひとつ手前の黄金水井戸の周辺の石畳は、実物の見た目かなり古いもので、井戸とともに天守築造時からのものであろうと考えられるのです。実はこれが全体覆っていて、古写真はその上に土がたい積していただけとか、なかなか自分で納得できないのです。

 この仕様で小天守台を作るのに最後に確認のために、一度大阪城天守閣の学芸員の方を訪ねて聞いてみようかなと思っています。(石敷きであったという証拠でもあれば、今からでも変更するつもりです)今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(小天守台の仕上げ5)

   前回に引き続き小天守台の石垣塗装などを行っています。0.5㎜プラ板にベースの石垣色を塗り、石垣模様をケガいて塗り分けしています。 

 ここの石垣の現状は積み直しされていて、本来のパターンが不明ですが、想像で補っているところです。 はめ込んでみるとこんな感じになります。石垣のスキマというのは深く彫り込んでおけば、流し込み塗料は不要ですが、ここは浅いので必要となります。

 天守入口横にあたる石塁です、同じように塗装していますが、いまいち石垣に見えないので、いろいろと塗装に変化を加えてみました。ただし、この石垣面も大量に積みなおしされているので、想像の部分が大きいです。

 難しいものです。

 金明水井戸の南東側の桝形の石組の塗装は次の写真です。実際の写真は上記のとおりで、再現度はいまいちというところでしょうか。曇った日の撮影で、色がよくわかりません。石垣の石の色といっても、光のあたり具合で違うわけでして、理想は晴天の日の写真での色です。角の石はややオレンジかかっているように見えたので、そのように塗っております。

 今回もここまでです。