大和郡山城訪問記

 今回は、大和郡山城の訪問記です。 梅雨の合間の晴れた日にバイクを駆って訪ねてきました。地元もけっこうこのお城に力を入れていて、近年天守台自体に手すりを取り付けたり、整備も進められてきており、余計な木々も刈り取られ、見晴らしもよく見学しやすくなっています。

 奈良は寺社勢力が強力で、武士にとっては難治の国でした。豊臣時代に秀吉の弟である秀長が上手に治めることに成功し、その拠点がここ郡山城であった訳です。

 ところで、奈良県には県庁所在の奈良市に大きなお城がないので、有名なお城ってなんだっけとなかなか思いつかないところで、松永久秀の多聞城、筒井氏の筒井城、龍王山城などあったことはあったのですが、それぞれ信長によって取り壊されています。集約する形で、この郡山城と奈良盆地の南を押さえということで、旧ブログで訪問記を書いた高取城となり、従って、ここ大和郡山城が奈良県代表のお城と言うべきなのでしょう。下の図はグーグルアースのもの。

 天守で言うならば、以前NHKBSで放送されたザ・プレミアム「二条城~戦国から太平へ~」で千田嘉博先生によると豊臣秀長の大和郡山城天守が二条城天守へ移築されたとのことでしたから、なかなか話題性の高いお城ではあるのです。下の図は二の丸にあった説明パネルの写真ですが、天守台には建物が描かれていませんね。持っていかれたままで、少し寂しい感じもします。

 ちなみに奈良産業大学・郡山城CG再現プロジェクトといことで、CGによる復元もされています。なかなか精緻に作られていて、良いではないですか。

 天守台自体については、松平忠明が城主であった時代(1630年代)に積みなおしされたものとされており、二条城へ移築された根拠が、天守台の発掘により見つかった礎石であるとすると、辻褄が難しいような気もするのですが、研究が進んでほしいところです。

 次の写真は、昭和62年に再建された追手向櫓で追手門側から見ています。この櫓が、今のところ郡山城のシンボルとなっていますね。

 次の櫓は、追手東隅櫓で、内側から撮影したものとなっています。常盤郭南東角を守る役目をもっています。

次の写真は二の丸から本丸へ続く土橋のような部分です。どうもここが気になっておりまして、奈良産業大学・郡山城CG再現プロジェクトでは明確に描かれていませんが、古図では多聞櫓がこの上に掛けられていたようです。両側が石垣で多聞で本丸までつなぐ・・・珍しいような・・・他の城にこんなのあったかなあ?すぐに思い浮かびません。

 ほぼこの土橋に並行して、かつて極楽橋という木橋が掛けられており、現在これを復元するための発掘調査などが行われていました。お城としての復元が進んでいくというのは、ほんとうに喜ばしいことだと思うところです。またの訪問が楽しみではあります。

本丸にあった小牛井戸

 前々回に紹介した「大坂御城由来」に奥御番所前の「小牛井戸」ですが、国会図書館蔵の「大坂御城絵図」には奥御番所の近くに井戸が記載されていますが、「大坂御城御本丸并御殿絵図」には載っていません。大阪城天守閣蔵の幕府の寛政5年作成の「御城小絵図」には載っていませんが、中央部分が破損している、それ以前の「御城小絵図」には載っています。

 もちろん、井戸はあったのでしょう。

 今回はなかなか登場の機会のない城男のイラストでお茶を濁しておきます。

金城聞見録を見てみる

 前回言っていた「金城聞見録」を閲覧するために大阪市立中央図書館へ行ってきました。多色刷りされた貴重書として保管されているため、閲覧には申請が必要で、複写についてもコピー機でなく、カメラでの撮影となります。古文書であれば、当ブログで画像の紹介もできるのですが、近年小数部復刻され図書館に寄贈されたものなので、著作権があり画像での紹介は著作者の許可が必要となるところです。
 内容的には国立国会図書館蔵攝津徴書.巻20にある「金城聞見録」とほぼ同じものなので、国立国会図書館版の引用で紹介いたします。(詳細では異なる部分もあり、のちほど・・・)

 まずは婆あ畳(ばばあたたみ)の件ですが、記事には、番頭泊所に「床の間の左ひと間なる所あり入口に屏風を当て左右の柱に釘にて堅く打ち付けたれば入ることを得ず」「覗き見れば中央に畳十畳積み上げたり」「中に入れば必ず怪有と云う」以下は意訳「渋川伴五郎という士が、この中に入り畳の上で寝た。夜半ごろ盤石のように胸を押しかかられて、驚き見ると夜叉(やしゃ)のような老婆が白髪を振り乱して両手で胸の上を押えていた。渋川は柔術の達人なのではね返そうとしたが、体が動かず、畳の上から転げ落ちて夢から覚めたように手足が動いた。これは最近のことで、これ以降なお一層厳しく入れないようにした」とあります。婆あ畳の云われ因縁は書いておらず、少し物足りない印象を受けますねえ。

 この泊所なのですが、どうやら桜門入って右の口之御番所の泊所のようです。ただし、この絵では禿(かむろ)雪隠というのが奥にあって、手前に婆あ畳を入れた間があるように描かれています。しかし、摂営秘録では、「奥御番所に婆あ畳といふあり 上に座る時は怪異これありと申し伝ふ 今は空き部屋の方に取り込み、松羽目にて仕切」とあり、禿雪隠とは別の模型化する奥御番所にあることとなっています。(まあ、よかったです。とっても細かいですがせっかくですので、模型の中に羽目板で塞いだところなど再現したいと思っています。)

 これは、模型の対象外ですが、こちらも興味があった本丸御殿西側の数寄屋跡にある「地蔵形の燈籠」(じぞうがたとうろう)「一の谷手水鉢」(いちのたにちょうずばち)。実は、中央図書館版にはわざわざ「千の利休好み」という文言が追加してあります。この絵では古田織部が好んだことから名づけられた「織部形燈籠」(おりべがたとうろう)に見えますが、織部形とは言わず地蔵形とあります。

 下の写真は私が撮影してきた和歌山の養翠園庭園にあった織部形燈籠です。地蔵形が地中に埋もれており、こういった隠すような立て方も「いかにも」といったところですか。
 昭和に入ってから、この彫られた地蔵がキリスト教の聖者で、外見を十字架に見立てていて、隠れキリシタンが密かに崇拝できるようにしたという説がとなえられています。古田織部のまんが「へうげもの」でもそういう解釈を取り入れていました。ここから連想したのか、どういった根拠かは私は知りませんが、千利休はキリシタンではなかったのかという説も登場したらしいです。ただし、攝津徴書.巻20「金城聞見録」のには、利休好みとは書いていません。そもそも利休が亡くなってかなりの年月が経った後の徳川大坂城の数寄屋跡ですから、関連は薄いでしょう。

 ちょっと資料を読みこなして消化しなければならないところで、模型作りの作業から離れてしまっているところではあります。