徳川大坂城模型制作(山里丸の石塁)

    最近、仕事でのストレスがだいぶ溜まっていて、徳川大坂城模型のほうに力を注げなくなっています。趣味でもあるので、ある程度気分的な余裕がないと楽しめないところもあるところです。

    とりあえず、現状の写真を掲載しておきます。山里丸周囲の石塁が一応できた状態になっています。

     石塁の幅は、グーグルアースの幅に合わせたところです。門周囲については約6.6m、外側の石塁の幅は約8.3mとしている。西片菱櫓の櫓台については、木々に隠れてグーグルアースでは確認できません。(この前行ったとき、やっぱり現地ではかっときゃよかった・・・)

    5月8日から大阪城天守閣で、企画展示「復活の大坂城史」というのがあるらしいので、それを見学に行ったときについでに測ってくることとします。

徳川大坂城模型制作(仏具山の形)

 本丸天守東側にあった仏具山についていろいろ史料がないかあたっていました。昭和53年に大阪城天守閣で実施された「大阪城古絵図展」(大阪市、日本古城友の会)の図録を持っているのですが、その中に個人蔵の(32)77.0×55.0及び(52)64.8×64.5の2枚の大阪城図が掲載されています。ここに実物の仏具山をスケッチしたと思われる姿が描かれています。もちろんコピーして掲載できませんし、図録ですからあまり詳しく読み取れないものです。いきなり下手な絵で申し訳ないですが、形状を私なりに、フリーハンドで写してみました。左の四角が糒櫓、右のものが月見櫓となり、その下に稲荷社の鳥居が描かれているようです。仏具山らしき山は、かなり大きく描かれており、以前紹介した「大坂錦城之図」のものは単に山の記号みたいなものだったなと思われるところです。

 背後に三角に描かれているのが樹木で手前の盛り土のようなところが、言わば稜線ということでしょうか、実物には文字なども書き入れられているようですが、図録の小さなものでは判明しないです。これに合わせて自分の徳川大坂城模型の仏具山も少し盛ってみました。プラパテだらけのものなので写真の掲載はまたの機会にさせていただきます。実物の絵図か、もう少し精細な図を拝見したいところです。大阪城天守閣さんも、またがんばって、いろいろお声がけしていただき、古絵図展などを開催してほしいところです。

 ところで、先日、大阪城の石垣から人が内堀に転落して亡くなったとの報道がありました。テレビなどを見てると山里出桝形の天端石からのようですね、あそこは柵がなくて、石垣頂点に腰掛けることができる場所となっています。(もはや、城内のほかの石垣では、そんな場所はなかったと思います。)たいてい海外からの観光客が鈴なりになって腰かけていますね・・・写真参照

 ご心配していただいたのか、この日のブログへのアクセスが大きく上がっていました。わたしは高所恐怖症でして、撮影の必要がある以外あそこには座りません。

春の和歌山城訪問(桜はほぼ終わっていた・・)

 ブログ更新を1週間とばしてしまいました。申し訳なかったです。3月末から急に暖かくなって、桜前線も素早く駆け抜けてしまって、ゆっくり見る機会を持てませんでしたねえ。お城でお花見というのは、静かにお城を眺めたいというのがあるので、自分の中では好ましい組み合わせになっていません。(拒否するほどではないですが、人が少ない方がいいですから)

 そんなことを言いながら、桜が残っていることも期待して和歌山城に行ってきました。残念ながら、多くは葉桜になっていて、ほぼ散ってしまっていました。本当の目的は、徳川大坂城の小天守台に本丸御殿から多聞櫓か橋廊下がつながっていたようで、橋廊下であるとすれば、実物は和歌山城に復元されているので、一度それを詳しく見たかったからです。(次の図は橋廊下近くに掲示してあったパネルのもの)

 気になっていたのは、瓦の葺き方でして、橋廊下は傾斜して架けられていますから、屋根瓦を地面に対して垂直方向に葺いているのか、大棟に対して直角に葺いているのかを見ておきたかったのです。説明パネルに図面が掲載されていたので載せておきます。うーん図面では、瓦の葺き方は描かれていないです。

 橋廊下の内部をのぞいてみますと、けっこう傾斜のある廊下となっています。

もちろん内部にも入れるのです。おもしろいのは、床が階段状になっているのかと思いきや、逆のこぎりの歯状というのか、やすり状というのか強力な滑り止めがかけられていました。土足厳禁なので足の裏に食い込みましたね。

 瓦葺きのほうですが、実物はというと、写真から確認できるように、平瓦と丸瓦を一つにまとめた桟瓦(さんがわら)を大棟に対して直角方向に葺いているようですね。発掘では本瓦も出土しているようですが、専用の桟瓦(左右それぞれのもの)が用意されて葺かれていたようです。桟瓦の発明は延宝2年(1674)と伝えられていますので、それ以降となるのでしょうか。発掘されたものを見ると「蝋燭桟瓦」ではなく、完成形のほうなので時代的には、もっと下っているのかも知れません。

 徳川大坂城小天守に斜め橋廊下が屋根付きで架かっていたのならば、時代的には桟瓦はなく本瓦となりますが、葺きにくいものになっていたであろうなと思います。