徳川大坂城模型制作(仏具山の現状)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。国会図書館蔵の明治38年の「大阪市圖」の大阪城部分の画像からご覧いただきましょう。あまり精細に描かれてはおりませんが、明治38年ですから既に配水池は設置されています。少し天守側に近すぎるように思います、注目すべきは配水池東側の仏具山と周辺の土盛部分が残った状態で描かれております。配水池の周囲は現在は急な斜面となる土盛りがされていますが、こういう状態が一時期でもあったのでしょうか、配水池の完成時の写真でも残っていれば判明するんでしょうけど、わかりません。

   この地図の山里丸東菱櫓台は、櫓台になっておらず多聞櫓台の幅が、そのまま延長されたものになっています。明確に櫓台と分かるようになっていなかったということでしょうか。天守台西側の御成門之内御櫓の櫓台も描かれていません。当時は櫓台などに関心がないのも仕方の無いことかもしれません。
 ところで、前々回の記事で仏具山の位置はどこだったのかなどと書いておきながら、現状の写真も載せておりませんでした。このあたりであろうという写真も撮影してきているのですが、ぜんぜん当時をイメージできるものとなっていなかったためです。仕方なくグーグルアースの画像でその場所を示しておきます。右の建物は、配水池の管理事務所と思われます。写真は南から北側を見ており、左の傾斜が配水池の土盛りです。仏具山は、この斜面に埋もれていて、これを見ると冒頭紹介した「大阪市圖」の描かれ方は少し不思議なのがお分かりになると思います。

 徳川大坂城模型の進行状況ですが、山里丸北東側の雁木、東菱櫓台を作りました。東菱櫓台はどうしたんだって?もう解釈するしかないですから、現状のものは「積み直しされたもの」としました。かつては、あと1m広い幅があったと解釈です。形は菱型ではなく、「く」の字型としました。

 ついでに周囲より少し高くなるよう仏具山を追加してみました。これは高さなど一切史料はありませんが、「山」と認識される程度の土盛りがあっただろうという形状にしています。

南條亮ジオラマ記念館に行ってきました

 今回は徳川大坂城制作記事から少し離れて、気になっていたジオラマ展を見てきたので、その感想の記事といたします。

 通天閣3階に展示してあるルナパーク(旧通天閣の周辺の公園)ジオラマなどの作者南條亮氏の作品で、2001年から全国各地で展覧会を開催された「人間、この愚かですばらしきもの展」とタイトルされていた作品群(当時テレビなどでも紹介されたかと思います。)が、現在、大阪府泉佐野市にある「いこらもーる泉佐野」というショッピングモールに設けられた「南條亮ジオラマ記念館」に常設展示(入館無料)されているのです。

 懐かしの昭和というタイトルが付けられていますが、作者が「ごあいさつ」の中で、二十世紀「私たちが歩んできた時代と生きてきた姿をもう一度見つめ直すことは決して無駄ではない」との思いから、庶民の生きざまを人形の姿を通してドキュメントジオラマとして制作したと書かれています。

 ただ、明治から戦後高度成長期までの100年を作る予定を持っておられたものの、「体力年齢から作品を構想通り完成させることが難しくなりました」とされています。

 この方のジオラマの人形は、喧嘩をしていたり、仕事をさぼったり、怒鳴ったり、なにか昔へのノスタルジーだけでない、生身の生態で表現されています。

 また、顔立ちもお上品なものばかりでなく、近所や身近にいそうな、やや面白い顔立ち、さらにそれぞれの表情を豊かにするよう約5頭身程度のデフォルメが加えられていて、人間の「愚かですばらしき」姿を表現されています。

 各シーンを切り取って、じっくり見てみると、それぞれ、なんらかのドラマが考えられていて、思わずニヤリとさせてくれます。

 八百屋の店先に並んだ野菜や果物も良く作り込まれています。

 左の建物が銭湯で、右がかき氷屋です。風呂屋に燃料となる木炭を馬で運び入れています。もはや懐かしい風景というよりかは昔の生活風景はこうだったという歴史資料となりますね。作者はかなりのリサーチをされて風景の再現をされています。

そして、銭湯から出てくるオッサンの表情が味のあるこれですから、たまりませんねえ。大阪人はこういう感じの人を面白いと思う感性を持っています、私なんぞにもよく分かります。

 これは、明治の道頓堀の風景を再現されています。

 右は道頓堀の料理屋に、魚が仕入れられ、なにやら盆栽も運ばれてきたシーンでしょうか。

 隣の料亭の2階では昼間から酔ったのか踊る客もいて、騒がしいようです。とにかく凄まじく作り込まれています。

 私の感想ですが、ジオラマという名称でこの作品は説明されてしまいますが、例えば、切り取られた歴史的事件の再現(勝手な思い込みや想像)シーンで作られたジオラマなどではなく、明治からの街と人間の営みの風景を、人間の普遍性をも表現する壮大な歴史叙事詩作品として残そうと南條亮氏は思い描いておられるのだろうと思います。そういう意味では、絵画や音楽などの芸術と同じ高みに至った作品群であると感じたところです。

 これらの作品はいずれも撮影可とされており、また、SNSなどでの拡散希望とされており、今回、自分で撮影した写真で紹介させていただきました。近くにお立ち寄りの際は是非とも見学されるべきかと思います。また、よくよく観察して人形達の個性とそのドラマを見つけてみるのは楽しいと思いますよ。

徳川大坂城模型制作(菱櫓の幅2)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。今日は、山里丸東菱櫓の櫓台の形状がどうももやもやしていて、スッキリ作業に入れないので、大阪城に行ってきました。春めいた日差しもあって気持ちよかったです。もちろん菱櫓台跡だけを見に行くのでなく、気になっている箇所の確認も目的にあります。

 例えば本丸北東の「仏具山」など一体どういう形の山だったのか、現状からはどの位置になるのであろうかなどです。以前城内のパネルで紹介されていた「浪華城全図」には地面の盛り上がった部分で描かれていましたが、「大坂錦城之図」には山の形に「仏具山」との文字が書き込まれ、「ケサ掛松」(蓮如袈裟掛松)「生害松」(秀頼生害ノ松)の文字もあります。いつも使っている大坂実測図に写し取ってみたのが以下の図です。宮内庁の幕末大坂城写真(43/49)にも糒櫓の左の近くと、さらに左に並んで大きな松の木が写っていますが、これらがケサ掛松と生害松なのでしょう。

 さて、菱櫓台ですが、7間(約13.7m)の辺と6間(約11.8m)の辺が鈍角約120度の平行四辺形になっていれば、菱櫓は入ることとなります。現地で現状の櫓台の端から東側石垣天端石まで(平行四辺形の高さ)を測りますと8m90㎝でした。

   やっぱり足りません。10mは必要でして・・・やれやれです。

   私が使っている、この模型用の図面でしめしてみると、ちょうど菱櫓の左上がはみ出ているのがお分かりになると思います。図面のマルBの面は、戦時中に爆撃を受けた近くなので積み直しの可能性がありますが、マルAの面は見た限りでは従前のままの石垣に見えるところです。菱櫓の短辺が実は6間でない可能性もあると見るべきでしょう。(謎になってしまいました。)

徳川大坂城模型制作(菱櫓の幅)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。

 山里丸の雁木を作っているのですが、東菱櫓櫓台の形状について決着をつけなければならない段階です。最初の写真は左に山里門を内側から見たものです。中央の折れ曲がった新しく積まれた雁木は、平成23年に大阪市教育委員会等が発掘調査して判明した旧状に復元されたものです。(素晴らしいではありませんか。)

 大坂城を訪問するたびに雁木の高さを測るクセがついてしまっていて、駅や、家の階段を上がるだけで「ここは1段25cmぐらいかなあ」と思うようになってしまいました。

 ここの雁木は1段27㎝程度でして、写真からは10段積に見えますが地面に1段埋もれています。なので基本が11段(高さ2m97cm)で本丸石垣に近づくにつれて徐々に埋もれていくようになっています。現状石垣のふもとでは7段になっています。(写真中央に女性が写っていて、なんで私を撮るのって顔をされています。「別にあなたを撮りたいんじゃなくて、あなたの横の菱櫓の石垣パターンと雁木の埋もれ具合をとりたいのですー」とは言わず、顔をボカシてます)

 前回、山里丸東面の建物長さを国会図書館蔵「大坂御城絵図」から27間(約53.17m)と割り出してみましたが、実は「大坂御城御本丸并御殿絵図」の方では25.5間と見えるところでして、すると約50.2mでずいぶん差があります。こうなると現地調査に行きたくなります。グーグルアースで計測してみると50.23mなどの結果が得られるところです。グーグルの計測は、まあまあ正しい数値が出てくるのでこちらでいくべきなのでしょう。

 さてさて、菱型になっていない菱櫓台の問題ですが、「大坂御城絵図」では東西面7間、南北面6.5間と、「大坂御城御本丸并御殿絵図」のほうでは、東西面7間、南北面6間と見えますね。もちろん菱型(平行四辺形)なので、建物の短い方の幅は、図面上で作図してみると約10mとなるところです。

 現状残っている櫓台にこの幅があれば、そのまま菱櫓が入るのですが、私の持っている図面で8m60cmで幅が足りません。グーグルアースでは約9mと出てきます。(惜しいです。やっぱり櫓台を膨らませるしかないのでしょうか) 

 逆方向からの写真ですが、先ほどの女性はどいてくれないようですね。