徳川大坂城模型制作(山里曲輪東面)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。作業をどんどん進めていきたいところですが、そろそろ多聞櫓なども意識しなきゃいけないなと思っています。作業的には本丸の雁木などを作り上げれば、いよいよ石垣にかからねばなりません。

 まず、各面を作り上げて、その面に合せて石垣の写真からパターンを写しとり再現したいと思っています。(城王さんがカーボンコピーで写されているのを記事で紹介されていたので、私もその手法を使わせていただこうと決めています。)多聞櫓、三重櫓などは、その後となるので、遠い道のりとはなります。

 前回、その位置決めに四苦八苦していた砂留ですが、まだ引きずっているところです。写真は、私が本丸北東の糒櫓跡から手を伸ばして撮影した山里曲輪の石塁を見下ろしたものです。いろいろと不明なところも出てくるところですが、まず、右端の青白矢印の先に石樋があります。そして石塁の上の赤白矢印は笠型の鉄砲狭間に小さな三角の欠け部分があり、前回紹介した現地説明会資料の平面図に写真の欠けた部分が描かれています。ちょうど小さな丸い樹木の右となっており、この欠けた部分からちょうど西側に砂留があったことになります。図面の縮尺は割り出せるので一応位置は確定です。良くわからないのは、銃眼石にほぞ穴がありまして、当初これは柱のほぞ穴と解釈していました。つまり1間(6.5尺幅)で、これを基準にすれば実に便利と思っておりましたが、違いました・・・約1間半で、銃眼の幅と同じようです。(ほとんどの銃眼石に入っているので、もう少し調べるつもりです。)

 ついでに、多聞櫓もチェックしておくかということで、先週記事トップに載せた山里曲輪東面石垣の写真と宮内庁蔵の菱櫓の写真を照合してみました。古写真の石垣の石はそのまま残っていますから、現在の写真から同じ石を探し出し、その上の菱櫓の石落しの位置、窓の位置も割り出せます。写真ですので両端には歪があるでしょうが、こんな感じとなります。

 ただし、大坂御城絵図は糒櫓側の石垣の奥行が入っていませんから、誤差が出てくると考えられます。菱櫓近くの窓の位置は、ほぼ確定ですが左半分の窓の位置は、すこし怪しいところです。大坂御城絵図に窓の数など文字で記入があるもののネットの画像は不明瞭で窓の正確な位置が分かりにくいのです。今回はここまでです。

徳川大坂城模型制作(山里曲輪の砂留)

    徳川大坂城模型制作記事の続きです。以前からですが、ブラウザがSSLで保護されていないサイト表示に注意書きを入れるようになってきました。「このサイトへの接続は保護されていません。」と表示されちゃうんですよねえ…無料ブログサービスなどの利用ではサーバー側が対応してくれますが、わたしのようなレンタルサーバーでブログを立てていると自分で変更しなければなりません。(いろいろ面倒そうで少しブルーになってしまっています。まあ、ぼちぼち用意してアナウンスします。見ていただいている方からのURLは変更する必要は無いようにしますので、ご迷惑はおかけしないつもりです。)

 制作のほうは本丸西側の雁木や櫓台を終了させ、山里曲輪の雁木にかかろうかとしていました。山里曲輪の東側は大阪文化研究所が2011年に行った発掘調査で排水施設が見つかっています。現地説明会資料
 砂留(集水桝)があって、ちょうどこの東面外側の石垣には本丸堀に排水用の石樋が見て取れます。図面を1/350に変換して正確に写し取って模型化しようとしている訳です。大阪城所蔵の絵図には、他の箇所にも「砂留」が描かれています。

 ただし、この図面からは本丸北面の石垣からの距離がわかりません。2間の土塀が掛けられていたのですが、まだ石垣面を作っていないので分らんのです。グーグルアースの上空写真などでいろいろ調べていましたら、「あれ?本丸糒櫓の向きって、こうだったっけ?うわわわ・・・」やっと気づいたのでした。

 松岡利郎先生もその著書「大坂城の歴史と構造」の中で、わざわざ「大坂御城御本丸並御殿絵図」の糒櫓は、「桁行と梁行の方位をまちがえて色紙を貼りつけているので、注意しておきたい」と書かれているのに、なんにも考えず同図面を使ってしまっているのです。まるで自分で落とし穴を掘ってそこに落ちるみたいなマヌケなことをしています。(はあー落ち込みますねえ、作業を急ぐとこんなことをしてしまうのですよ。私は・・・)修正するのに2時間程度かかりました。

 そんな訳で、まだ山里曲輪の雁木にかかっていません。こんなことがあったので、「大坂城の歴史と構造」をもう一度最初から読み返しました。
 見落としていたのが、以前の記事で触れた例の根拠を知らないとしていた「仏具山」でして、P165に由来が書かれています。「一同所北之方ニ大的参尺弐的場在り右を矢面山を佛具山と云昔元和の頃佛具を埋ミ候場所の地と伝ふ」(大坂錦城記)と引用がありました。元和6年(1620年)から徳川大坂城の普請(土木工事)が始っていますから、豊臣大坂城の焼けた残骸に仏具などが多くあって、このあたりに集めて埋めたのかも知れません。徳川期には、3尺(約90㎝)の的のある的場(弓の射的場)が2か所あったと読めるので、これも再現したいところです。広い空き地になっているのもこれで理由がわかるところです。

徳川大坂城模型制作(本丸北側櫓台づくり2)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。旧ブログでは作成進行状況が芳しくないときには旧作のお城プラモ写真でお茶を濁したものでした。いい写真が撮れればいいのですが、照明の準備とかいろいろと手間のかかり、そのくせ出来がいまいちだと、なかなか次のチャレンジをしなくなってしまいます。愛機DMC-LX9も飾ったままとなっていました。ひさしぶりに広島城を撮ってみたのが次の写真です。

 広島城南小天守でして、史料がほぼ残っていないので、建物としてのバランスというか、なんというか雰囲気で作ってしまっています。現在の徳川大坂城作成のスタンスからだと、作れなくなってしまいますね。

 次は東小天守です。これも私の感覚でのバランスで作ってしまっていますが、岡山城の櫓とか熊本城の櫓とか個性的な姿を持っており、案外キットの形状が実物に近いという可能性もあるなあと思い直しているところです。(根拠はありませんけど)
 これを見ていると細かいところで「下手だなあ」と自己嫌悪を感じてしまうところです。もっと正確に塗装もしたいし、柱などでももっと精密に組み上げたくなりますね。

 徳川大坂城模型の現状ですが、本丸北側の雁木などを作り上げたところです。奥御番所の土台部分も描いてありますが、これの位置も図面が変わると少しづつずれているところで、も少し西よりにするかもしれません。(この位置は「大坂御城絵図」によるものです。)

徳川大坂城模型制作(本丸北側櫓台づくり)

 徳川大坂城模型作りの続きです。本丸北側の櫓台、石塁づくりを行っています。またまた地味な写真となりますので、極楽橋について触れておきます。最初の写真は、先月大坂城に訪問したときの写真で、極楽橋から北側二の丸方向を撮ったものです。内堀側の石垣下部に橋の幅ぐらいになる穴が二つありまして、もしここに橋げたの支持材が入っていたなら、橋はもう少し西側に繋がっていたのではないかと考えるところです。

 次の写真は、古いもので申し訳ないですが、擬宝珠の数がぜんぜん足りませんが拙作駿府城の橋でして、作品数が少ないので旧作でも紹介しておかないと、ブログがもたないわけです。

 強度をかせぐためであるとは思いますが、古い日本の橋の多くがアーチ状になっており、これも少しだけ太鼓状に膨らませたつもりですが、いまいちのところでして、徳川大坂城の極楽橋をつくる際にはもう少し膨らんだ形状にするつもりではあります。橋を架ける土木技術体系が当時の一部の技術者に保持されていたのだと思います。現在はどうなっているのでしょうか、宮大工の方が継承されているのかも知れません。

 さて、徳川大坂城模型の方ですが、以下の写真のとおりでして、本丸北側の雁木を作ろうとしています。

 写真上部にある発掘資料に基づく雁木を11段にしたので、斜面になっている地面をあわせにくいところでして、手前から11段、中ほどで10段、奥で9段にするつもりです。

 北ノ手櫓台と糒櫓台の間の石塁、雁木があるところです。豊臣大坂城時代には天守があった場所で徳川大坂城においてもその部分の石垣をなぞるように北側に突き出しています。ここは太平洋戦争時、米軍のB29の直撃弾を受けて一部石垣が崩れた場所でもあります。惜しいのは戦後修復されてはいるのですが、当時は豊臣大坂城天守台跡が埋もれていることは知られておらず、調査もされていないようです。修復工事の記録写真などあれば、豊臣大坂城の天守石垣の一部ぐらい写っているかも知れません。(公表されている写真については目を皿のようにして探しましたが、私には見つけられなかったです。)

 手前仏具山から見た写真になりますが、右側の雁木の地面が少し高くなっているように作っています。天守北側の雁木は11段であるもののこの周辺については明治の図面では仏具山の続きになっているように見えるためです。正確な高さを示した図面もないので、ここは推測での高さとなります。ちなみにここの雁木の段数は8段から5段とみています。今回はここまでです。