徳川大坂城模型制作(土台作成2)

 徳川大坂城模型作成記事の続きです。土台について前回申し上げたように作り直しをしています。(これも天守台と同じ3代目になります。とほほ・・・)城郭模型を正確な縮尺で作る際の大きなポイントは、地面高であることを痛感しています。今回WEB版国土地理院地図の標高を参考にしていて、山とか丘陵などの形状を知るにはいいのですが、標高差を平均の曲面にしてしまうようで、城郭の縄張りを表現する精度は持っていません。(なので、複数のポイントの標高値を平均して、その段の標高にしています。)

 一応の標高を決めて、タミヤのスチレンボードの1㎜厚から10㎜厚までのものを組み合わせて、1/350の高さを再現していく訳です。(ちなみに、写真のベージュ色の部分はホームセンターで買った建材用の15㎜厚ポリスチレンフォームで、でかくて安いです。)細かい段の標高は国土地理院地図では出てこないため、結局、現地の雁木石の高さを調べてみないと分からないのです。

 そんなわけで、以前の調査ではざっくりとしか調べてなかった、姫門をはさんで、山里曲輪から本丸までの各段の高さを調べに大阪城に行ってきました。今回は、正確さを期すため、山里曲輪から山里出桝形に登るピラミッド状の雁木22段の1段1段の高さ、奥行をすべて測りました。(最近は多くの来訪者の目も気にならなくなりましたねえ)高さは12㎝から24㎝、奥行も45㎝から70㎝とけっこうバラバラな数値でして、合計の高さは373㎝となりました。

 次の写真は、その雁木頂上から今ある通路までの高さなどを計測した結果を示したもので、通路まで163㎝、山里出桝形の門から山里出桝形の下段までの高さ差を測り51㎝となりました。これで山里出桝形の下段の標高が24.97mとなります。上段は26.37mでこれで確定です。ちなみに国土地理院地図の平均は26.4mで正確でしたねえ。

 計測が終わった後は、本丸に新しく整備されたレストランなどの入ったMiraiza(旧第四師団司令部庁舎)を眺めて帰路につきました。ふと桜門横の銀明水の井筒(「銀明水井戸跡」ではない)の展示場所は、国会図書館蔵大坂御城図で番所があったところだと思いだしました。・・・井戸跡と勘違いするよなあ・・・ちょうど、番所の「便所」の位置ぐらいになるんじゃないかなと思いながら。ともかく、いろいろ整備されて旧状がわからなくなる一方です。

徳川大坂城模型制作(多聞櫓の屋根瓦の納まりについて)

 徳川大坂城模型作成記事の続きです。先週は模型の土台の作り直しで記事にかかる時間がなく、1回飛ばしてしまいました。(ご容赦を)以前に紹介していた土台よりも広げることにしたのですが、次の画像は、今回の模型の一番よく使う史料の国立国会図書館蔵の「大坂御城絵図」です。オレンジ線の範囲であったものを赤線の部分に拡大し、天守の右上にある御番所、右側に連なっている長屋建物などを模型化することにしました。東側からの天守景観などもしっかり模型化したいと思ったためです。これで大坂城本丸面積全体の1/3程度を模型化することになります。(本当は、城郭模型として、本丸全体としたいところですが、私のペースでは時間がかかりすぎて、他のお城の模型にかかれなくなるでしょう。)

 ちなみに、国会図書館蔵の画像は、インターネット公開(保護期間満了)とあるものは、こういった形で公開利用ができることになっています。この画像を詳しく眺めながら模型化したら、どんな情景が見ることができるのだろうなどと考えるのが、今回の模型作成の大きなモチベーションになっています。

 この図面で建物の規模は明らかになるのですが、屋根の形状が描かれていませんので、どういった納まりなのかわからない部分も多数あります。宮内庁蔵の幕末大坂城の古写真を参考に想像で補えるところもありますが、以前も触れたように、私にとって難解で判明しないのが「御具足奉行預櫓」の南側に接続している多聞櫓の屋根の納まりです。上の図面を見ていただくと、この櫓の南面6間が接続しています。多聞櫓の中心に線が描かれていて左側が武者走り(廊下)であるようですが、この線と同じようにL字型に屋根の棟があるとすると、櫓側へ下る屋根は櫓の壁に接続してしまい、雨水の流れ先がないのです。

 9/27の記事で紹介した「47都道府県別よみがえる日本の城」の西ヶ谷恭弘先生監修の徳川大坂城鳥瞰図では、御具足奉行預櫓の一重目屋根を入母屋にして南側に延長し、この部分を覆うと解釈されています。(うーん入母屋・・・そうかも知れないけど、大坂城の他の櫓で類似事例がないようなので、私としてはチョイスしません。)今のところ解釈保留としておきます。

徳川大坂城模型制作(土台作成)

 徳川大坂城模型制作記事に戻ります。天守台については、塗装も中途までで、鉄砲狭間のついた天端石も取り付けていませんが、複雑な小天守台の各段や雁木も、早稲田大学図書館蔵史料に従い仕上げたので、このあたりで置いておき、天守台周辺にとりかかることにします。天守台の出来はいまいちですが、以下写真で紹介しておきます。

 

 なにが、いまいちかといいますと、石垣の質感を出そうとしましたが、大坂城の石垣の石の表面はもう少し平滑で模型では、デコボコが大げさになってしまっています。塗装の前には目の粗いサンドペーパーで整えようと思っています。

 

 小天守台上の石の色調は、新しく積みなおされた石は、白に近いベージュ色ですが、それ以外けっこうオレンジがかった色調をもっています。もちろん火災の影響で焼けた石も残っていますが、オリジナルはこのオレンジっぽい色であろうと思っています。

 上記写真では、雁木の色は、グレーのものも残っていますが、塗装仕上げのときには、全体を整えるつもりですので、ご容赦を・・

 

 天守台西面の写真となっています。

 天守周辺の本丸部分の作成作業に取り掛かっていきます。天守台のうち、小天守台が私にとっては複雑なものと感じていて、とても時間がかかってしまいました。ただ、この写真を見てると天守周辺もこのサイズにしたのは、北東側は北ノ手三重櫓までと決めていたからですが、なにか物足りなさを感じてもいます。もう少し拡張してもいいかも知れません。今回はここまでです。

大垣城訪問

       今回は、この週末に訪問した大垣城の記事といたします。このお城も明治維新をくぐりぬけ、昭和11年(1936年)に国宝指定を受けたものの、太平洋戦争時、昭和20年(1945年)の米軍B29の爆撃により焼失し、昭和34年(1959年)に再建されたものです。元々は三重であったものが、元和六年(1620年)に四重の天守に改築された層塔型天守でありました。

     このお城が大きく歴史に登場するのは関ケ原の戦い直前の杭瀬川の戦いでしょう。石田三成、宇喜多秀家、小西行長などが、西軍の本拠地としたこの城にこもり、中山道付近の東軍が対峙、遅れてきた徳川家康の着陣に動揺した西軍の士気を高めるため、島左近、蒲生郷舎らが出陣し西軍の勝ち戦となった戦いです。絵図で描かれている大垣城の姿は真壁造の三重天守となっています。その後、寛永十二年(1635年)に戸田氏鉄の城となり、明治まで戸田十万石の居城でありつづけました。(写真は、大垣城に展示してあるジオラマ)

     焼失せずに残っていれば、国宝でもあったので多くの人が訪れるお城であり続けたでしょうが、爆撃で石垣も焼けて、ほとんどが積みなおしされているということで、少し侘しくもあります。本丸堀も残されておらず、お城と堀を埋め立てた道を隔てて住宅地となっています。

      昭和34年に再建された天守閣は、当時のブームの作法にのっとり展望台としての機能をもたせるためか、最上階は大きなガラス窓が各面に付けられていました。私は、このガラス窓の天守閣のイメージを抱いていたのです。恥ずかしながら、平成22年に外見を旧天守に近づける改装が実施されていたのを知らず、天守内部の展示で「おお!外見をちゃんと復元したのか。素晴らしい」と感心したのでした。

     この写真は、その展示パネルでして、焼失前の国宝天守、昭和34年再建天守閣、平成22年外見復元天守の比較写真です。全面ガラス窓を取り外してくれて、ほんとよかったです。さらに、鯱や懸魚、鬼瓦、邪気瓦も旧天守にあったものを復元したとありました。(お城ファンとしては天守を眺めて「ほんとはこんなんじゃないんだ」などとツッコミを抱かずに済む訳です)

     私の関心事は、瓦でして、なんと葺き直した軒丸瓦についても展示説明がありました。昭和34年の再建天守閣の丸瓦は直径が5寸、旧天守のものは6寸であったので6寸に改めて葺いたと。

     またまた、意地悪い私のクセが出てしまいまして、せっかくだから、最上部の入母屋平側の軒丸瓦を数えてみようと思ってしまったのでした。(病膏肓に入るとはこのことです。)写真から旧国宝天守は26個であるようです。5寸丸瓦の昭和34年天守閣には30個あるようです。(まあ、オリジナルより小さい丸瓦だからなあ)さて、平成22年外見復元天守は・・・ううっ(興味のある方、自ら数えてみてくださいませ。私はツッコまないことにします。葺き幅が違うのでしょう。)

 

    6寸径の丸瓦が、大垣城で使用されていたのであれば、作ろうとしている徳川大坂城天守ぐらいになれば、それ以上のものとなるでしょうねえ、6寸は、1/350で約0.52㎜ですから最低0.5㎜プラ棒が使える訳で、お城プラモ的には成果ありの訪問でした。

     せっかく、外見復元が果たされた大垣城天守なのにもっと映像などで取り上げられてもよさそうですが、撮影ポイントがあまりに少ないことが要因であると感じました。樹木が天守周辺に茂りすぎていて、この天守全体を撮影できないのです。そのため、多くの写真はなんとか木々の枝がじゃましない南東からのものとなっています。 日本のお城の多くの敷地は市町村の公園課が管理していて、緑地公園扱いでお城の景観などは、それほど注意を払っていないとしか思えないのです。それも毎年の予算で緑化推進ということで、どんどん植樹することが仕事ですから、大阪城など天守石垣周りに松の木を植えたりしています。お城ファンとしては心配でして、やがてあの立派な天守石垣が木々に隠れてしまうのではないかと思っています。

    大垣城についても周囲の枝を払って、もう少しスッキリさせ、いろいろな方向から撮影し、その魅力を発信してほしいところです。