徳川大坂城模型制作(大阪城の石垣をもっと大切にしてほしいです)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。1年でもっともバイクツーリングに適した季節でして、ついつい朝から出かけてしまって、お城プラモ作りがお休みになってしまっています。

 今回は、以前も紹介した天守復興記念誌に掲載されていたもので、大阪城天守閣復興記念の絵葉書の引用です。戦前の天守閣写真に着色したものと思われます。

 注目すべきは、太平洋戦争で爆弾が直撃した姫門周辺が元の姿で写っていることです。手前の石垣は無事だったようですが、奥にみえる石段はかなり破壊されたようで、戦後まもなく撮られたアメリカのLIFE蔵の写真で確認できます。次の写真は、私が撮影した写真(右)と並べて比較したものです。とにかく姫門に登る石段と入って左に上る石段の段数が分ってよかったです。10段と14段となりますねえ。

 あと、元の姫門の左側の石塁の石垣のパターンがよくわかります。右の写真の置き換えられた整形石が元の石をある程度はなぞっているものの、やはり「復元」とはなっていません。

 大阪城の場合、こういったケースが数多く見られます。他のお城であれば、元の石を再利用するとか、ここはかなりこだわるところでしょうけど、大阪城の場合、さばさばしたものです。徳川大坂城への愛着のなさというか、なぜなんでしょうねえ?
「天守閣が豊臣、徳川のハイブリッドなんで、べつにええやんか」って感じでしょうか。

 おまけとして、この写真の右側にあたる、ちょうど姫門の番所跡の現状写真をのせておきます。敷石が残っていますが、これは天守閣復興時に整備されたものだと考えられます。

徳川大坂城模型制作(昭和天皇大阪城天守閣御登臨)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。前々回小天守台入口周辺の考察を行ったところです。大坂城の古図ではほとんどが小天守台南辺から東に延びる形で、塀が掛けられているように描かれています。小天守台の東側に四角い段があったのではないかとも見えるところです。次の写真は、前回と同様記念誌からの引用ですが、以前から参考にしている「大阪城址写真帳」の天守台写真です。明治28(1895)年に竣工した大阪最古の配水池の階段が右端に写っていて、天守台ふもとには雑草が茂っています。昭和6(1931)年11月7日に復興天守閣が竣工しているので、その間の写真となります。しかし、この写真からは私が求めている徳川大坂城天守が建設された当時を推測できるものはないです。

 おそらく、明治の配水池建設時の大量の土が天守台東面にならされていて、江戸時代の地表面に被さっているのでしょう。天守台登口の石垣がほぼ垂直に立っていて、石樋が確認できると思います。その下には石造りの砂溜もあったはずですが、この写真からは確認できません。配水池の階段の手前に石段のようなものがあるようで、石樋の右下から繋がっているようにも見えます。

 次の図は大阪市立中央図書館蔵の旧陸軍の行幸記念誌から見つけた復興天守閣を昭和天皇が行幸されたときの順路図です。天守台周囲の概略図が入っています。配水池をまくように小天守台登口から右に2段石段があり、北へ行くと4段ほどの石段があります。しかしまあ、昭和天皇がお城を好まれたという話は伝わっていますが、御見学順路がここまで決められていたとは、御不自由なことであったと推察するところではあります。

 話を天守台作成のほうに戻します。天守台の岩岐も作りましたので、次の問題は天端石の銃眼でして、岡山城などにも一部据えられていますが、徳川大坂城ではほぼ全面的に施されています。この上に土塀が掛けられ、櫓も外側の壁をこの上に設けています。図面で大手門に施されているものは高さ84センチになっていますが、私が天守台で測ったものは70センチ強でした。今回のお城プラモは、フルスクラッチにするつもりでしたが、これは正確には彫れないです。そんな訳で、せんどくさした童友社大坂城パーツを切り取って流用することにしました。銃眼内側の微妙なラインは再現されていませんが、ヤスリで整えるつもりです。銃眼ごとの距離も違うので、間にプラ棒をはさんで、原型を作り、あまり好きではないレジンキャスト複製となる予定です。

徳川大坂城模型制作(敷石の史料の不存在)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。小天守台については、現行天守閣が再興される前の数少ない古写真で、金明水の段を除き、やはり敷石らしきものは確認できませんでした。先日行った大阪市立中央図書館でも、大阪城の天守閣復興記念誌など建設前の小天守台を撮影した写真はないか、いろいろ探してみたんですよ。しかし、もう、決めなければ作業が進められないのです。

 次の写真は、天守復興記念誌に掲載されていた「古写真 豊公館(写真パネル)」の引用です。大正14年(1925)に開催された大大阪記念博覧会で特設会場として大坂城天守台に建てられたものです。日に1万人を超える入場者が来るほどの大好評で、後に現行天守閣再興のきっかけにもなった建物です。この写真の時点では天守入口付近の地面には敷石はないようです。(他の写真のすずなりの入場客の足元の地面で確認しました。)

 大坂城小天守台の各段の地表面が敷石で覆われたのは現行天守閣が復興された時であって、それ以前にはなかったと結論づけようと思っています。根拠として最大のものは、早稲田大学所蔵「大坂城本丸之図」で、この図は、天守が焼けた後、石垣に対する被害状況を精査したものと考えられ、「地表焼ケル」と読めるところがあるのですが、積んだ石垣や岩岐などの横に記載されており、天守入口地面について、そういった記述はありません。もし、地表面が敷石に覆われているのであれば、焼けていたであろうし、「〇〇尺、敷キ石焼ケル」とかなんらかの記述があるはずだと思うのです。

 また、故大類伸氏撮影の大天守台南面写真(大阪城天守閣発行「描かれた大坂城・写された大阪城」p92)の右下端に、現状は敷石が張ってある天守登口の踊場が写っていますが、この写真では露出した土で草も生えています。

 ちなみに、現在敷石張になっていませんが、姫門下の曲輪は、天守閣再興後、昭和42年ごろの写真には敷石が施してあったことが確認(大阪城天守閣発行「大阪城はこの姿」p29)できます。戦前、旧帝国陸軍第四師団に気を使いながら天守閣を復興するためには、いろいろと通路など整備もし、陸軍関係施設整備にも費用を使ったのだろうと思います。

 大坂城建設当時、いろんな神社、寺院など通路や門前には、通路も含めて敷石が施されてはいますが、大坂城関連史料で確認できないのでここには、無かったと結論づけるしかないようです。(どなたか、敷石があったと分る史料をご存じの方がおられれば、ご教示いただければ感謝いたします。)

徳川大坂城模型制作(大坂諸絵図はおもしろい)

 徳川大坂城模型制作記事の続きです。せっかくのゴールデンウィークでもあるので、先に進まねばなりません。迷っている天守台敷石問題ですが、以前から参考にしている大坂諸絵図廿九御天守台図の実物を閲覧するために大阪市立中央図書館にいってきました。

 自宅から高速で1時間強というところで、図書館の駐車場も空いていて、スムーズに閲覧することができました。もちろん貴重図書ですから、書類での申請が必要です。ところで以前引用させていただいた松岡利郎先生の「大阪城の歴史と構造」掲載の絵図とは、同じ内容ですがどちらかが写しであるようです。中央図書館蔵の絵図は、くずし字でなく読みやすいもので確認できなかった文字も判読できました。

 ただし、ひょっとしたらなにか地面に関する記述でないかと期待していた文字は「小天守」とあるのみでした。着色部分は大天守内、天守登口石段横と同様の水色で、「芝」と記載とあるところと同じ色ではあるのですが・・・表面は土のままで雑草がはえていたのか?うーんやっぱり解けないですね。

 もちろん、いろいろと興味深い点も見つけています。私は天守台東側地表面(この絵図の下側)は、西側よりも1メートル程度高いのではないかと考えていますが、天守台から東へカギの字に「溝」が記載されています。入口手前に「橋」まであるのですから、この溝、ある程度幅もあったのでしょう。天守台に降った雨水は、小天守登口石段の踊場下に石樋があり、図の「砂溜」に水が落ちて、埋設の水路を通って、この溝に流れ込むようになっていたものと考えられます。しかし、地面高が高いのにこの東方向へ流すとすれば、深く溝が掘ってあったと考えられます。

 それとも、この「芝」と記載のある水色部分も含め天守入口までの四角い部分が周囲より地表面が高くなっていて、南辺に柵をかけて仕切り、周囲を回り込むように溝が掘られていたのかもしれません。ちょうど、上りか下りか不明ですが、左下に石段らしきものも描かれています。このあたりを模型化しないと値打ちが無い訳です。あれこれ考えているとおもしろいのですが・・・模型制作作業は進みません。(これも楽しみなので、あしからず)