徳川大坂城模型制作(雁木の段数)

    徳川大坂城模型製作記事の続きです。前回に引き続き小天守台の雁木(岩岐)作りをしています。

   1段が1/350で奥行0.82㎜ぐらいなので、なかなか上手くつくれないところです。もちろん以前に紹介したように、0.5㎜プラ板と0.2㎜プラ紙の組み合わせで厚みを作り、それを重ねてつくるのです。 実物写真は、以前は自分で撮影に行ってましたが、Googleアースが更新されて小天守台も細かく見ることができるようになり、おかげで助かっています。この写真は自分で撮影したものですけどね・・・小天守台の金明水の段への雁木は、写真では2段としか言いようが無いですよねえ、しかし、早稲田大学図書館蔵「大坂城本丸之図」には「岩岐三段」と記してあります。ふー、なので手前の踊り場の敷石は無かったのではないかと疑っているところです。

写真は、小天守台に雁木を取り付け途中のものです。小天守台のそれぞれの段を現状のように、敷石仕様にするのか、ひょっとしてと考えている三和土仕様にするのかで、表面のスジ彫りが変わってしまいます。固定してしまうと作業が難しいので、接着できないでいます。(困ったものです。大坂諸絵図廿九を閲覧させてもらって、確認するしかないかとまで考えています)

 片方で、天守や櫓などの屋根、特に瓦をどう作成するかで準備も始めなければならないので、瓦について資料を集めだしています。写真は鹿島出版会「物語 もの建築史 和瓦のはなし」という本です。全体を読み終えておりませんが、本の中で紹介されていましたが、東大寺大仏殿屋根の軒丸瓦の直径が27センチで、平瓦の幅が47センチというのは驚きました。じゃあ、お城の本瓦葺きの幅について記されてるかというと・・・その内容は「無いよう」です。(しょーもないダジャレでおわります。)

徳川大坂城模型制作(がんぎは雁木か岩岐か)

 前回に引き続き徳川大坂城制作記事の続きです。まずは、お恥ずかしい話をひとつ、私は、お城の古図面を眺めて、いろいろとお城プラモ制作に取り入れているのですが、古図面の文字は、もちろん「くずし字」でして、文系の学部はでたものの、古文書の勉強などはいたしておりませんので、くずし字辞典などを引きながら四苦八苦しながら読んでいるところです。

 写真は、「大坂諸絵図」中の「廿九御天守台絵図」の一部(松岡利郎先生の「大阪城の歴史と構造」掲載)ですが、この赤丸の「岩岐」がなんのことか分っていなかったのです。お城を研究などされている方から見ると、「こいつ気づいてないなあ」と思われていたかもしれません。まあ石段のことであろうとほぼ考えず解釈していました。大坂城小天守台の地面は石が張っていたのかどうか、この絵図を見ながら考えてるときに、あれ?と気づいたのでした。

 「がんぎ」と読むべきでして、つまり雁木(石垣や土塁に昇降するために付設された石階段:wikiによる)のことでした。weblioの日中対約辞典では、岩岐石:(ガンギイシ)安山岩などを原料として四角い棒形に切った石材と出ています。いっそこっちのほうが正しそうですけどね。日ごろよく知っているふりをしてますから、なにか恥ずかしい感じがします。

 すらすらとくずし字が読めるようになりたいものです。

 

 天守台の制作状況のほうですが、入口の雁木(岩岐?)もこれでいこうと決めて、下の段から作り上げていこうとしています。

 一つ目の踊り場から左に曲がる次の雁木の左側には排水のための石造りの溝があります。お城プラモキットで再現しているものはないでしょうが、「あるものは、再現する」というスタンスですので作り込みます。昨年訪問したときの実物の写真をのせておきます。
 あまり上手くはできていないですが、この程度のものですわ・・・

徳川大坂城模型制作(春雨の大阪城)

 今回の記事は、昨日、お花見がてらに大阪城に行ってきたので、その写真を紹介しておきます。もっとも、あいにくのお天気で春雨に霞んだ大阪城天守。大阪城天守北西の青屋口から周辺の桜並木をながめながら二の丸梅園を通って、桜をめでてきたのでした。

 二の丸から眺める本丸東側の石垣は、ほんとに高いことが実感できます。この上に多聞櫓と三重櫓が並んでいたのですから、さぞや壮観な情景であったろうと思います。
 次の写真は、本丸北東端の糒櫓跡でして、宮内庁書陵部所蔵の写真(10番目の写真)で、その姿が残されています。

 

 あんまり進んでいませんが、徳川期大坂城模型の進行具合のほうも、紹介しておきましょう。

 天守台四隅には、プラ板面のスキマがありましたので、どろどろの塗料をのせているところです。
 
 石段横の石垣パータンを彫り込む準備もしています。この部分は古写真からおこしているので、正確には捉えられていないと思っていますが仕方ないところです。

徳川大坂城模型制作(敷瓦じゃなかったか)

 長いことお城プラモ制作から遠ざかっていました。徳川大坂城ですが、ようやく取り掛かるモチベーションが戻ってきました。少し言い訳をさせていただきますと、ちょうど天守台への石段の制作をしているところで、迷宮入りしておりました。

 写真は、大阪城天守閣に展示してある現天守閣工事時の模型です。この模型の周囲には、上階にある徳川大坂城天守模型の横にある「撮影禁止」が掲示されていません。(ということは、紹介してもいいか・・・と載せています。)旧ブログで行き詰まっていた各面の天守台の高さの違いは表現されず、同一平面に天守台があるようです。私は、天守台の東面の地面(この写真でいうと右側)は西面の地面より高いと解釈しております。

 確たる根拠は出てこなかったのですが、石段に関しては、旧ブログで紹介した初代は、どうも高さが低くなってしまっていたので、2度作り直して、この写真のは3代目となります。プラパテがついているところは、天守台西側の高さと平面にしないと模型制作しにくいというか無理(そもそも、底面が斜めの模型はよう作れまへん。)なので、かさ上げしているところです。

 次の写真は、金明水井戸の段をとりはずしていますが、この段の斜め敷石についての解釈に触れておきます。

 写真は私が大阪城小天守台石塁の高さを測るのに撮影したもので、敷石が斜めの正方形になっています。旧ブログで紹介した「大坂諸絵図」中の「廿九御天守台絵図」で、江戸時代においても、そうだったのは分かっているところです。

 しかし、敷「石」だったのでしょうか?石に変更したのは、昭和の現天守閣復興の時であって、元は、お寺の本堂の床などにある「敷瓦」ではなかったのかと。天守創建時は、ここまで正確な正方形に石を加工しなかったんじゃないのかと疑っております。(ここは、そういう敷瓦解釈で作るつもりです。)