月別: 2016年10月
駿府城復元記(櫓の作り方について)
駿府城復元記の続きです。旧ブログと違い、滞っていたところに触れていないので、なにかサクサクと築城しているかのようにみえますが、屋根パーツ以外はプラ板からの制作ですからいろいろ苦労はしています。それらの難所ポイントなども紹介してみたいところですが、レジンキャストの屋根とか壁面づくりとか必死に作業しているので当時「写真」を残す余裕がなかったのです。
旧ブログでは、集合写真で紹介していましたが、できるかぎり作り方が分るよう説明してみます。1枚目の写真は、作成中の天守丸北東櫓を内側から見たものです。故内藤先生の駿府城天守は、天守丸多聞櫓の内側は御殿仕様とされており、私もこれに倣っています。この櫓は掛け造の三重とし、二重目には欄干を付け三重目の窓を華頭窓としています。写真左側に続く多聞櫓の内側も掛け造で舞良戸と欄干の組み合わせとしています。
2枚目は、壁面を作成しているところで、0.5ミリプラ板で上部、窓の高さの部分、下部と3段になっているのです。窓の部分をくり抜くという方法もありますが、シャープな窓枠に切り抜くのは難しいでしょう。ピンセットでつまんでいるのは格子で、三浦正幸先生の「城の作り方図典」によれば、窓の半分が半間で3本が標準とされています。お城プラモ広島城の御殿では、石屋模型店さんの「汎用格子セット」を使いましたが、駿府城作成時は100円ショップで買ったナイロンブラシの毛を使っていました。(なので緑色です。)
3枚目は、北面と西面の欄干(6.5尺間の欄干)の取り付け後の画像、画面中央は、7尺間の欄干(天守用)を作る冶具で、0.3×0.5ミリプラ棒をここに合わせて欄干を作るようにしています。
次の写真は、南西櫓でして、故内藤先生の図面では南北棟の長方形の櫓で、他の復元模型もそうなっていますが、私は前回紹介した東照宮縁起絵巻天守像の南西櫓の棟に合わせるため、現駿府城にある巽櫓のように「く」の字になった櫓と解釈し、そのように作っています。また、大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」では確認できませんが、喰い違い虎口の石塁に多聞櫓をのせています。問題は、この南西櫓の1階から石段がこの石塁まで接続していて、どうもしっくりこないところです。 今回はここまでといたします。
駿府城復元記(天守丸櫓作成)
引き続き駿府城復元記ということで、天守丸多門櫓についてですが、前回紹介した大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」の黒塗り部分をどう読み取ったかを説明させていただきます。(説明のために少し画像を加工いたします。)
黒い部分は、住居などの御殿でない建物を示していると考えられます。それがなにであるかは太さで解釈するしかないところです。まず中央の天守と四方に位置する北東、北西櫓などは疑義はないところです。(それぞれ棟の向きはのちに触れます。)北面の橋につながる門の両横の黒い部分は、名古屋城の本丸不明門の仕様に準じて土塀であると解釈できます。そしてこの太線を土塀とすると「小天守台」(説明の都合上そう呼んでおきます。)にある鍵の字に曲がったところなど土塀であると解釈できます。(「小天守台」西面に太線が描かれず、ここは?です。土塀だと解釈しました。)
ちなみに、北側の橋に接続する門は、太線が描かれずオープンなので埋門ではなく、高麗門と解釈、そしてその右に続くのは多聞櫓と考えられます。⑤には本丸平面から石段が接続しているので、これも多聞櫓と解釈しました。この太さを多聞櫓とすれば、①②③④も多聞櫓であると解釈したものです。
そして⑥ですが、これは多くの復元図などには描かれていません。蔵の可能性もありますが、城門の近くにあることから、天守周辺の門を警備する番所であろうと解釈しました。もし番所が描かれているのなら、ある意味この絵図の信憑性が高いと考えられます。
次の絵図は、日光東照宮縁起絵巻(家康公の伝記絵巻)の一部で、下見板張り、真壁づくりの天守が描かれております。絵巻に駿府城天守であると記されていませんが、他の文書記録における天守各階の間数や、神君家康公を顕彰する絵巻ですから、当然家康公が好んだ終焉の城である駿府城天守であることは、常識的な解釈と考えるところです。
問題は、どの方向から描いたものなのかということになります。これが南側からの絵図となると天守の棟が東西になりますが、北東側から見たものと解釈しています。理由として、天守屋根は上から四重目まで描かれていますが、その四重目屋根に手前に向かって接続している屋根があります。細いので土塀にも見えますが、よく見ると四角い窓があり、櫓であって、左手前の2重の櫓から天守に接続していると解釈できます。(前図「駿州府中御城図」の南東櫓から天守へ接続している部分)
この絵が北東からのものであるとすれば、ここに描かれている3つの櫓の棟の向きが分ります。北東櫓は東西棟、南東櫓は南北棟、南西櫓は東西棟となります。しかし、北西櫓は描かれていませんので不明です。(私は「駿州府中御城図」の長さから、むりやり東西棟と解釈しています。)この絵がどれほどの写実性をもっているのかは議論の余地はありますが、現状で与えられた史料に誠実に従うべきだと考えています。
これら史料の解釈を済ませ、いよいよ天守丸櫓の制作にとりかかりました。ただし、これら櫓の図面があるわけでもなく、多聞櫓の幅などは、前回紹介した故内藤昌先生の図面を参考にしています。(大天守台喰い違い虎口天守側の石塁に多聞櫓を乗せているのは独自解釈です。)壁面はタミヤの0.5ミリプラ板で作成し、屋根は自作ではなく、童友社の姫路城、江戸城、名古屋城などのパーツの流用をしています。屋根パーツは櫓に合わせてカット、拡大してつなぎ直したりしています。それでもぜんぜん足りなくなってしまうので、最後は櫓に合わせて作った屋根パーツをレジンキャストで、複製して全体の屋根を作り上げております。
四方の櫓は、内藤先生の図面では2階(実は3階)逓減しておりませんが、当時の櫓も、ひとつひとつが異なる形状で作られていたことから、入母屋破風にしたり、唐破風をつけたりしています。(この部分は全く史料なしの私の想像部分です。)
全部そろえるのにかなりの時間がかかっています。写真をみると流用した屋根部分はほとんどなく、大部分は白いレジンキャストのものですね。
屋根の軒があまり突き出さない雰囲気は、江戸城古写真でみることができる巨大な三重櫓を意識しています。徳川のお城の櫓って迫力のある立派なものですからね。今回はここまでとさせていただきます。
おまけに、日光東照宮縁起絵巻天守像と同じ角度からみた私の駿府城模型の写真をのせておきます、上の天守像と見比べていただければと思います。
駿府城復元記(天守丸構造について)
駿府城復元記の続きということで、ようやく天守台が完成し、次は天守丸を構成する多門櫓づくりとなるところです。その内容に入る前に少し、天守台形状について触れてみることにします。旧ブログでも触れておりましたが、明治期の測量図での天守台形状は北辺が南辺に比べて長く、東西辺が北に向かって広がっているものとなっています。頂上部はフラットに描かれていて、安政大地震の被災後の姿で元の形状とは異なると記しましたが、実際は、どうなのでしょう。現在静岡市で行われている天守台発掘調査の注目点は、その天守台底辺の形状がいよいよ正確な姿で明らかになることです。
下の図は、静岡県立中央図書館蔵の「駿府城御本丸御天主台跡之図」(webで拡大して見ることができます。)旧ブログ記事に記載しましたが、天守上端東側(182尺:約55m)上端北側(158尺:約47.8m)上端西側(179尺:約54m)南側(虎口の両側で分かれていてそれぞれ71.5尺/約21.6m、73.5尺/22.3m)(いずれも故内藤昌先生による数値)となっています。webでの下の図をよく見ると、虎口通路の巾が壱間?尺七寸と記されていて,(?の数字読めません4か5かと思ってます。6ってことはないでしょう。2間になりますので)3.4m~3.7mってとこでしょう。すると北辺が47.8m、南辺が47.3m~47.6mでほぼ同じ長さで、天守台の天頂部は長方形になるわけです。(南辺はぐいちになっていますが)
この「駿府城御本丸御天主台跡之図」は、天守台復元のための最も信頼できる確実な史料となっています。(天守台底辺の長さも記載されているのですが、私には読めません。)結論として、明治の測量図で見て取れる不等辺四辺形の天守台底辺が発掘されたとしても、その相似形のまま、天守台上部にもってくるのは間違いとなります。いろいろな城の天守台には、底辺の各頂点が鋭角で飛び出しているのは多くあり、広島城天守台も然りです。
さて、駿府城天守丸多門櫓の話に移ります。駿府城天守は、徳川家康の隠居城として、慶長12年の完成後すぐに焼失した天守(Ⅰ期)と翌年にすぐに再建された天守(Ⅱ期)があります。Ⅰ期の天守の史料は、未だ発見されておらず、まったくの幻の天守(ひょっとして、天守台いっぱいに建てられた超巨大天守?)となっています。(写真は私のおふざけの超巨大天守:根拠なし)
Ⅱ期については、次の絵図(大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」(「葵~徳川三代」記念出版 駿府城(内藤昌株式会社文化環境計画研究所)に掲載のもの)により、環立式天守(天守丸)であることが判明したのです。
概念図で長さなど正確なものではないようですが、これ以外の平面図に天守が描かれているものはなく、第1級の史料です。これにより、世にいろいろな天守丸構造の駿府城復元図が存在するのですが、必ずといっていいほど小天守が描かれています。Ⅰ期の築城の記録になっている「家忠日記」に小天守手伝普請の記録はありますが、Ⅱ期には小天守の再建の記録はあるのでしょうか?小天守については私は、大いに疑問をもっております。(前出「駿府城御本丸御天主台跡之図」には「御天守台」は記してありますが、小天守台という文字は記されておりません。)という訳で、多くの天守復元図画にある小天守は模型化しないことにしました。史料の小天守台とおぼしき場所には、大きな屋根はなく、多聞櫓と思われる細長い屋根が描かれています。
私の駿府城模型は、「駿府城御本丸御天主台跡之図」と大日本報徳社蔵「駿州府中御城図」を根拠にしました。あと日光東照宮縁起絵巻の天守像ということになりますが、そのお話は次回以降ということで・・・(模型製作の記事に入らなかったです。反省)
追記 現在行われている駿府城天守台発掘状況については、以下のブログと写真がご紹介されています。これからしばらくの間、ブログを拝見させていただくという楽しみができました。中でも天守台西面石垣下の水面が出ている写真は、まさにお堀と天守台を思い起こさせてくれます。いいですよね、駿府城公園の散歩ついでに、だんだんと出てくる天守石垣が見ることができるなんて、羨ましい!
〇東 啓次郎の琴・三味線馬鹿一代 http://ameblo.jp/koto-shamiman/entry-12204830398.html
〇さらの往訪記録 http://akiusagi-apple.seesaa.net/category/25540787-1.html
〇備忘録旅人さんの写真 http://photozou.jp/photo/list/1785042/5782461